FF10の話(10) – FFⅩ・その2 とんでもないオープニングの伏線
FF10の話を書くシリーズの第10回。
シリーズは以下。
■ FF10の話(1) - それは1991年から始まった
■ FF10の話(2) - ヘラクレスの栄光Ⅲの衝撃
■ FF10の話(3) - ファイナルファンタジーⅦ・その1
■ FF10の話(4) - ファイナルファンタジーⅦ・その2
■ FF10の話(5) - ファイナルファンタジーⅦ・その3(終)
■ FF10の話(6) - ファイナルファンタジーⅧ・その1
■ FF10の話(7) - ファイナルファンタジーⅧ・その2
■ FF10の話(8) - ファイナルファンタジーⅧ・その3(終)
■ FF10の話(9) - FFX・その1
本編に入る前に簡単な注意。
このシリーズは『FFⅦ・Ⅷ・Ⅹ』について、もう超ネタバレのレベルで話が進んでいる。だからプレイしたことがなくて、そしてプレイする予定がある人は、ここから先はあまり読まないことをオススメしておきたい。
特に今回からあとはFF10のストーリーや世界について詳細にネタバレしていくことになるので、FF10をプレイしたことがない人はここで読むのを止めることを、強く推奨しておきたい。
ところで前回、なんかひどい勘違いを一個書いてて(ついこの前HDもクリアしてるのに!)、ちょっとイラっとしたのだけど、めんどくさいから、本で直しておくことにする。
このオープニングの意味や伏線について、まず書いていきたいのだけど、こっから本当のネタバレで、猛烈にイロイロ書いちゃうから、マジでやったことない人は読まないようがいいよ!
まずオープニングのザナルカンドの破壊を経由して、ザナルカンドからどこかに飛ばされたと思う場所で、最初にジェクトの声が聞こえる。この場所は、あとから考えればシン(ジェクト)の体内。ジェクトの声が聴こえるのはもちろんジェクトがそこにいたから。
ティーダがたどり着いた場所は最終決戦地で、もちろん夢のザナルカンドをイメージしたもの。目の前にあるザナルカンドエイブスのマークでジェクトのマークでもある。そしてそこで見つける子供は10年前の自分。つまりジェクト=シンが最後に見た自分(ティーダ)だ。
つまり、シン=ジェクト=オヤジってことを全部説明していて、しかも親父がティーダのことを気にかけていたってことまでわかる(この子供がジェクトだってことは、30分もプレイしないうちにわかるように出来ていて「え?」と思うところになっている)
さらに、吸い込まれる直前にアーロンが「いいんだな?」と上に向かってしゃべるわけだが、これはシン、すなわちジェクトに対して話しかけている。アーロンがシン=ジェクトで、なんのためにシンが来たのか理解していると教えるためのカットだ。
ここらへん、初めて見るとさっぱりワケがわからないのだけど、あとからオープニングを考えなおすと、ちゃんとシンに吸い込まれて、スピラに移動させられたのが全部わかるようにできているし、筋も通っている。
なぜアーロンがザナルカンドにいたか、どうしてシンも来れたのか、この世界のルールを考えると、こいつらは夢、すなわち実体がないものだから行き来できたんだし、祈り子がどうしていたのかも、全部分かる。
“red herring” という、よく使われる意味に「人を惑わせるような情報(間違った手がかり)」って言葉があるのだけど、野島さんはとても、この”red herring”を作って、それと伏線をうまく組み合わせるのがやたらうまい(これはFF10に限ったことではなく、野島作品は全般にこれがうまい)。
そしてFF10のオープニングは、このred herringの嵐で、しかもこれを「あえて説明しない真実」と組み合わせるので、ユーザーは簡単に間違った方向に想像が進むようにできている。
前回書いた、僕がびっくりした1000年前? ザナルカンドからタイムワープでもしたのか!? と思ったことは、ストーリー全体を見ると確かに嘘じゃない。
確かにスピラのザナルカンドは1000年前に滅んでいる。でもザナルカンドの人たちはみんな祈り子になって、夢のザナルカンド(夢の世界)を召喚し続けている。だからティーダのザナルカンドは今でもある。つまりウソじゃないけれど正解ではない。
全くとんでもないオープニングなのだけど、FF10ってゲームはフツーにプレイして60時間ぐらいはかかるゲームだ。ちゃんと覚えていて、こんだけ考えてあることを分かる人が少ないのは明らかだし、ビサイド島で子供時代の夢を見て「ん?」と思うのを除けば、仕掛けをある程度バラすのは、ティーダがアーロンと会うルカで、フツーにプレイして10時間ぐらいは経っていると思う。
やっぱり覚えてないだろうと思うので、ちょっともったいなすぎな豪勢な仕掛けだと思う。
ところで、ストーリーの話に戻る前に、FF10のもうひとつの特徴について書いておきたい。
それはFF10は、FF13並の直線的なストーリーとゲーム構造を持っていることだ(時系列的な話をするなら、もちろんFF13がFF10並に直線的なストーリーなのだが)。
要所要所にダンジョンっぽい迷路があるし、後戻りすることもできるけれど、FF9まであったある程度自由に移動可能なワールドマップは実質的に廃止され、プレイヤーが行く先はほぼ完全に固定されている。プレイヤーがやるべきことは「先」に進むだけだ。
ここに至るまでのFFは、あのUltimaが確立した「広い地図の上にある街や村のシンボルに当たると中に入る」構造を貫いてきたわけだけど、どうしてここでワールドマップを廃止するって決断に至ったのだろうか?
チビキャラがマップを歩いてシンボルにぶつかると拡大されるって構造自体にスケール感などの問題から不自然さを感じたってのがあったと思うが、もうひとつ大きな理由があったと思う。
それはストーリーからの要請だ。
前回書いたとおり、ゲームで操作するキャラがティーダだってのはともかく、ストーリーの上からは、ティーダはスピラにやってきたよそ者で、ユウナのガード(の一人)で彼には決定権はない(最終決定者はユウナだ)。ティーダは他のメンバーの後をついていくだけの、いわばメンバーの一人だ。このティーダ=プレイヤーが主体としてパーティを操作し、ワールドマップを自由に歩き回って、あちこちの街にそぞろに入って、他のメンバーは知っているはずの世界で道を探してウロウロする、ってのは設定からあまりにいただけない。
それよりは、直線的で長いマップ(+ダンジョン)の上を歩きながら、要所要所にあるセーブポイントで体力を回復するシステムの方が、ストーリーの構造にあっている。
これについては、話が逆で「不自然だからワールドマップを廃止したい」→「ストーリーが直線的な構造になった」可能性はあるが、いずれにしても、こうしてゲーム側のマップが映画のシーンのように直線的に分割され、並んでいることが保証されたことで、ストーリー的には恐ろしくプラスになっている。
なんせプレイヤーがほぼ寄り道が不可能な構造でストーリーを作れるのだから、伏線も張り放題だ。
加えてカットバックすることで、オープニングシーンまではティーダの思い出話の構成になっているのも効果的に機能している。
昔の話をしているって設定で始まっているので「ティーダがそのとき、何を思ったのか?」を思い出話として語ることができるので、ティーダの感情や考えたことをいわば小説の地の文として差し込むことが出来、ティーダの感情を自然な形でプレイヤーに説明することが出来るから、ティーダに感情移入しやすくなっているし、ティーダのセリフでプレイヤーに対して伏線を張ることも出来る。
実にいいアイディアだったと思う。
と、オープニングとマップの話をしたところで、メインストーリーに戻ると、旅が始まると第一の目的地ルカに向かうのだけど、このルカに向かうまでは登場人物同士の関係の説明をまず行い、次にシンがどれほどの脅威かを見せるため、バトルをしたあと、キーリカがシンにより壊滅的な損害を受けるのを見せられる。
そして召喚士が異界送りをしないと人の念が残り、最悪、魔物になってしまう…つまり人の念が強ければ、死なずにこの世に残る(人の思いや意識が実際の形を作ることが出来るって世界の重要な下敷きになる)…そしてユウナのCMでも使われたセリフ「私、シンを倒します。必ず倒します」で、召喚士がナギ節、つまりシンのいない期間を作り出せる存在であり、それを目指して旅をしているという大目的がプレイヤーに提示される。
そしてルカに到着すると、一定以上街が大きくなるとシンに潰されること、アルベド族が機械を使うことでで嫌われていること、エボン寺院関係の大事な登場人物のマイカ老師・シーモアなどが紹介される。
ここでブリッツボールのミニゲームがあるのだけど、ゲームの出来はビミョーで、やりこみ要素としてリーグが用意されているのだけど、あまりやり込みたくなるゲームにはなってないと思う。一試合が結構長く、そのわりにはやることが単調で飽きてしまうのだ。
そしてブリッツボールが終わると、魔物の攻撃が起こりシーモアの召喚獣が紹介されるのだけど、これを見て「こいつが敵にならない」と思わないヤツはいないと思う。
ここでアーロンが合流し、シンはジェクト、つまりティーダの親父だと教えるのだけど…「どうしてそうなったのか」とか「それがどういう意味か?」はわからない。だから「シンはジェクトだ」ということだけを無理やり納得させられ、プレイヤー=ティーダはアーロンと共にユウナのガードになってザナルカンドへの旅に参加することになり、ミヘン街道を歩いて行くことになる…
ここまでがゲームのイントロで、イベント数的に見るとだいたい1/3ぐらい。プレイタイムにして10時間前後。いわば大目的が提示され、ほぼひと通りのキャラクタが揃い、世界観のひととおりの呈示が行われるわけだけど、やっぱり情報を小出しにするのがとてもうまい。
ルカを通り抜け、ミヘン街道を歩いてるあたりでプレイヤーがわかっている重要なことは
・召喚士の目的はシンを倒し、ナギ節を作ること。
・シンを倒す方法は究極召喚。それを手に入れるために北の果てにあるザナルカンド遺跡に行くのが目的。
・シンは倒されても、またなぜか次のシンが現れる
・人が死んだとき、異界送りをしないと、魔物になることがある(つまりこの世界の人は死んでも単純に終わらない)。
これらの情報のほとんどは、ティーダが不思議に思って聞いたことに、相手が答える形で得られる。
これは前回説明したようにティーダはスピラにやってきたよそ者なので、プレイヤーが不思議に思うことをティーダが代弁して質問したり、不思議に思ったりすることで、情報がプレイヤーに与えられるのだけど、ここにうまい仕掛けがもうひとつある。
それは、そのときティーダが不思議に思ったことを聞くと答えが説明される形になってるのだけど「どうしてそうなっているのか?」や「そうなった結果、どうなるのか?」については説明されない。だから、かならず情報が断片的になる。
FF10というゲームは、プレイヤーにバラバラにされた細かい世界観が少しずつ流し込まれていく仕掛けになっていて、そしてこれをプレイヤーが心の中で形作り、その形がどんどんと変化していく…いわばプレイヤー(ティーダ)の世界の見方が変わっていくゲームなのだけど…
この見方が変化していくのが本格的に出てくるのが、ミヘンセッションあたりからなのだけど、それはまた次回。