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FF10の話(4) - FFⅦ・その2 三人称の確立
FF10の話を書くシリーズの第4回。

シリーズは以下。
FF10の話(1) - それは1991年から始まった
FF10の話(2) - ヘラクレスの栄光Ⅲの衝撃
FF10の話(3) - ファイナルファンタジーⅦ・その1

前回の最期で、『FFⅦ』こそが映像ドラマの手法でストーリーを語るゲームが完全に確立した瞬間だったのだけど『FFⅦ』にはもうひとつ特徴があった。
それはもともと三人称でストーリーを肩越しから見てる印象が強かったFFシリーズが、完全に三人称のスタイルを確立したということだ。

と、最後に書いたけれど、これを原理的なところから話を進めていきたい。

もともとRPGが登場した時、どんなゲームかを説明する言葉として「自分が主人公になって冒険できるゴッコ」というような表現をされることが多かった。
言い換えるなら「プレイヤーがそのまま映画とかの主人公になれるゲーム」。この説明はとてもわかりやすくて、受け入れやすいものだった。

だから初期のRPGでは「プレイヤーキャラクタが喋らない」のがいいとされていた。
プレイヤーがそこにいるのだから、プレイヤーの意思にそぐわない何かをしゃべらない…というわけだ。
そして今でも「RPGってのはなあ」と、この伝統的なオールドスタイルのRPG観をしたり顔で押し付けるゲーマーもいたりするわけだが、それはともかく、この伝統的なスタイルは、ストーリーが複雑になるに従って、イロイロ困ったことが起こる。


まずなにより起こる大きな問題が、プレイヤーがそのまま主人公ということはゲーム世界の中に主人公の人生がない、つまりキャラクタの造形が出来ない。

プレイヤーがそのまま主人公だから--

「お前は51歳、ベトナム帰りでPTSDでドメスティックバイオレンス起こしたせいで、嫁さんとうまくいかなくなって離婚。娘がジャーナリストになって、偶然、取材中の秘密作戦に従事してたことを知り、なんと取材対象としてインタビューしようとしていて困るところから物語は始まる」

…なんてマネは間違ってもできない。

つまりプレイヤーをそのまま主人公ってことにすると、ゲームの主役のくせに、その世界で生きてきた人生が基本的にない。だから、プレイヤーキャラクタを置ける立場が極端に限定される(これについては後でもうちょっと細かく取り上げる)。

さらにプレイヤーキャラクタがしゃべれないのが、案外面倒くさいことを引き起こす。
本当ならプレイヤーが喋ってしまえば話が簡単になるところをしゃべれないため、横のキャラクタが「ねっ、あなたもXXと思うでしょ?」(Y/N)で先に進めていくような、プレイヤーキャラクタが喋れば簡単に解決することを遠回りにやらざるを得ない。
そしてこれはもちろんシナリオライティングに制約をかけてくる。

加えてこの2つの問題は、もっと深刻な問題を引き起こす。
ストーリーを面白く盛り上げるためには対立関係と呼ばれるものが必要だ(基本的な話についてまず書く)。
対立関係というと難しく聞こえるが、お話の上での主人公の敵(邪魔するモノ)だ。具体的な敵でもかまわないし、主人公が内部に持っている物でも構わない。
ところがこの対立関係は、当たり前だが主人公がその世界に根づいている場合に初めて作り出せる物だ。
町にイヤな奴がいるなら敵にも出来るが、知らない奴しかいないなら対立関係は作りようがない。
ところが対立関係がなければドラマは始まらない(もちろん例外はあり、ほぼ対立関係の存在しないドラマもあるにはあるが、それは例外)。

つまりストーリーをスタートするための動機がプレイヤーがそのまま主人公では極めて作りにくい。だからオールドスタイルなRPGでは、この対立関係を作り出す、すなわちストーリーをスタートさせるために、だいたい以下の様な手を使ってきた。

●手段その1
「お前は勇者の子孫じゃ。今、魔王が甦ろうとしている、なんとかせい」と、モチベーション(動機)を強引に与えて対立関係を作り出してしまう方法。
「お前は軍隊の新兵だから上官のいうことを聞け」とか「お前は組織の一員だから、以下の仕事をせよ」というやり口も、これのアレンジ版だ。

●手段その2
「なんだかわからないけれど、襲われて戦うハメになる」。これはシミュレーションRPGなんかで良くある方法。主人公の環境とは別に「国と国が戦争になって、主人公が巻き込まれる」なんてパターンも良く使われる。これまた使いやすい方法だ。これの変形で「お出かけしたら巻き込まれた」も多用される。

●手段その3
長いプレストーリーをプレイさせて、ユーザーを世界に定着させ、かつ動機を作り出していく。ほとんど使われた例はない。
『ドラクエⅤ』ってとんでもない傑作と『ときめきメモリアル2』あたりが比較的メジャー。

ホントに手数が限られてしまい、プレイヤーがそのまま主人公とすると、話の幅を広げるのが難しすぎる。だから、ちょっとちゃんとしたストーリーを入れようと考えると「プレイヤーがそのまま主人公ってのは止めよう」という発想になるのは当たり前。

では、どういうのになるのかというと、プレイヤーは主人公の肩に乗っているカメラを通して主人公の行動を覗き見ながら、主人公に耳打ちすることで行動をコントロールしているようなイメージ…と考えるとわかりやすいだろう。
いわば「自分でコントロール可能な映画や小説」の構造だ。明快にキャラクタとしての主役はいて、プレイヤーと主役は別人だけれど、その主役のコントロールはある程度自分が出来るわけだ。

ちなみにもちろん前述した手段はプレイヤーと主人公が一致しなくても使える技術だが、そのときに取れる手数が全く違う。

そしてFFというシリーズは、ファミコンの初期シリーズから、このキャラクタとしての主役は別にいる構造とプレイヤーがそのまま主人公の間に立っていて、シリーズごとにかなりフラつきながらも、Ⅳを決定的な分水嶺として主人公としてのキャラクタは別にいる構成を明快に取るようになり、プレイヤーキャラクタであろうとオートイベントで動き、様々なアクションを取るようになったのだけど…以降も、ここらへんは微妙で、Ⅳではストーリーの主役としてのセシル(デフォルト名)が明白にいたのが、Ⅴではまた曖昧になり、Ⅵに至っては入れ替わり立ち替わりの群像劇。

だから「SFCのⅣでプレイヤーはストーリーの主人公と同一ではなくなったが、その主人公自体が今度は曖昧なシリーズが、FF」ということが出来た。

これがⅦになってーー

1)プレイヤーは固定の少人数のキャラクタの位置に立ってストーリーを見ていく。
2)主人公は明快にバッググラウンドがある。
3)主人公はプレイヤーの意志とはかかわりなくしゃべる。

と、以降のシリーズで、FFXⅢに至るまで(XⅢは群像劇なので、Ⅵに戻った感がある)の基本形が出来上がる。

どうしてこれが確立したのかというと、もちろんシナリオライターの野島さんのアプローチの要素が大きかったのは間違いないだろうけれど、それ以外にも、やはり映画的な表現は理由としては、とても大きかったと思う。

カメラアングルやその中に誰が映っているとかといったことが重視されるようになれば、映画(や映像ドラマ)のような話を作ろうということになるし、そうするとプレイヤーが見ているキャラクタを主人公として固定しようってことになる。
だいたいプレイヤーが見ている他の映像作品に形を合わせようと思えば、自然と主人公がいた方が自然になろうというものだ。

というわけで『FFⅦ』になって「別人格としての主役がはっきり存在し、プレイヤーはその主役をコントロールするゲーム」になったわけなのだけど、そのシナリオの出来はどうだったのか?

僕の忌憚ない評価を書くなら…

「前半から中盤は素晴らしいが、後半は腰砕け。僕は最初に考えられていたストーリー展開とは違うものになっていると思っている。ただ、当時の状況を考えれば、これもしょうがない」

ということになるのだけど、長くなったので続く。

ところで映画的って話をすると、もう一つボイスの話が出てくるのだけど、これはⅦ・Ⅷ・ⅨとPS1時代のFFでは一度も入らなかった。
この当時はまだボイス付きのゲームに対して「想像力がなくなる」といった批判が寄せられる場合があったことと、主人公の声を入れることに対して、前述したようなことから抵抗があったのだろうと思う。
実際、天外2でも主役の卍丸に喋らせるために、桝田さんは非常に手間ヒマをかけている。まだRPGがそういう教条的な見方をされていた時代だったのだ。
ただしFFⅦ~Ⅸで、ボイスを入れなかったのは、反面正解とも言えた。
なぜなら当時のCDはせいぜい600メガバイトほどの容量で、FFⅦの段階でムービーなどで既に3枚組。フルボイスにしたらいったい何枚になったのか想像もつかない。
90年代後半には既にCDROMでは容量不足に陥っており、それを考えるとボイスなしは容量的には正しい判断だったと思う。
|| 22:16 | comments (2) | trackback (0) | ||

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コメント
プレイヤー=主人公=喋らない
いまそれを現在進行形で無理矢理押し通し続けてて問題が発生しているのがMMORPGです。

FF11が出た約10年前、ネットゲームでストーリーがあってたまるか!という風潮がとても強かったのとダブって見えてしまいました。

FF11は、そういう風潮が強かったから、初期の構想分までについては、世界設定やシナリオの描き方等ばらまいて見せたりして緻密にしてて工夫してるなって感じました。

FF14やDQ10も一応最後と言われてるところまで遊びましたが、現状、ストーリーの見せ方を工夫しようという余裕が無く、抱えた問題点をそのまま遊ばせてるという感想でした。

どう頑張っても「困ってるNPC(シナリオ上の事実上の主役)を通りすがりの冒険者(プレイヤー)が助けてあげる」
という構図が抜け切れていないのが残念に感じています。

余談ですが、LRFF13電子版待っている一人です。
| 訳あって匿名 | EMAIL | URL | 14/01/22 14:30 | JDJK8L1w |
いつも興味深く拝見させて頂いております。
ペルソナシリーズ(特に「3」と「4」)なども本文中の「手段その3」に入る感じでしょうか。
あの長い長い導入部があったからこそ深く入り込めた気がします。
| じっと | EMAIL | URL | 14/01/18 22:55 | Om3wd.sA |
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