アマガミとWhichとHow
ブログ…というか、日記というか、ともかく『アマガミ』のレビューを読んだ。
とても面白い記事で、いろいろと考える事があったのだけど ──
ともかく、まずこの記事を読んでくれないと、今日の記事はわからないので、興味のある方は、読んでからドウゾ。
読みましたか?
読んだなら、続きをドウゾ。
というわけで。
とても面白いレビューで感心したのだけど、同時にあまりに歴史的な考察が足りない。
だから「どうして恋愛ゲームはWhichではなくHowになったのか?」について、歴史的な観点からは問題のあることを書いてしまっている。
書いた人物はなんせ30歳そこそこらしいので、それはしょうがないのだけど、これじゃ今までギャルゲーを作ってきた人達があまりに浮かばれないので、ここで、古くからゲームをプレイしている人間が「なぜWhichではなくHowになったのか?」について書こうというわけだ。
「なぜWhichではなくHowになったのか?」
それはギャルゲーの歴史と大きく繋がっている。
もともとのギャルゲー…というか、ともかく女の子が出てくるゲームはプレイヤーの99%が男だった歴史と絡み、ごほうびとして機能していた。
だからドラゴンバスター(ナムコ/アーケード/1985)ではお姫様はビキニになり、フリスキートム(ニチブツ/アーケード/1981)ではマリリンモンローの出来損ないみたいなグラフィックの女性がシャワーを浴びられるように必死でパイプを繋ぎ、トロピカルエンジェル(アイレム/アーケード/1983)では、背面プレイに必死になったし、メトロイド(任天堂/ファミコンディスクシステム/1986)のサムスもビキニになっていただくためにがんばった。
そしてもちろん一世を風靡した脱衣マージャンは、マージャンで勝つことで女の子が服を脱ぐ。
つまり、もともと「ギャルはナニカのゲームをプレイした結果」として得られるものなので「Which(ダレ)」ではなく「How(どないして)」だったわけだ。
あー脱衣マージャンはモノによっては「Which(ダレ)を選んで」…もあったけど。
ここで現在のギャルゲーと呼ばれるジャンルについて考えよう。
現代のギャルゲー、特にコンソールゲームはPCからの移植のものを除くと、そのルーツにあの偉大な『ときめきメモリアル』(コナミ/PCエンジン/1994。以下、ときメモ1)があると考えていい。そして、ときメモ1は、もともとは育成シミュレーション…俗に育てゲーと呼ばれる当時の日本のPC/コンソールゲームでヒットしていたゲームのスタイルを借りて作られた。
育成シミュレーションとは何かと言うと、プリンセスメーカー(ガイナックス/パソコン/1991)が決定的な形で確立したジャンルで
2)目標を満たすために、プレイヤーがレッスンなどでパラメータ操作をする
3)エンディングに至り、結果が出る
と、こういう形式。
つまりパラメータを操作(育成)することで、(間接的に)キャラクタを自分の思ったコースに導いていくゲームだ。
そして重要なのは、今まで何度か書いてきたことだが『ときメモ1』はPCエンジン版は「藤崎詩織を落とすために、3年間の高校生活の間に自分を鍛えなさい」という命題を与える、いわば自分を鍛えるプリンセスメーカーの皮を被って登場している。
藤崎詩織を落とすゲームとして与えられる=「他のターゲットは全員隠されていた」(普通にプレイすれば出会うので、よくある隠しとは違うから、こういう表現になる)。
言い換えるなら、もともとのときメモ1は「幼馴染の藤崎詩織に好かれるために自分を鍛えたら、次々と見知らぬ女の子と出会って、その子達がなびいてきて、超モテしちゃう学園生活」としてゲームデザインされている。
つまり、もともとのゲームデザインの観点からは、ときメモ1で自分を鍛えるのはHowではなく、まさにobjective(目標)でWhichで、そこに女の子がついてくる構造をとっている。
もちろんメインディッシュが女の子なのは疑いもない事実だが、ときメモ1では別に女の子に夢中になる必要はない。それどころか、女の子に嫌われてメチャクチャになっても、別段問題なく(精神的には結構問題があるが…)学園ライフを楽しむ事が出来る。
このときメモ1がPSに全ネタバレ状態で移植されることになり、結果として、数いるヒロインの人気を利用したマーケティングが行われ、プレイヤーにとっても『ギャルゲー』というジャンルが認識され、ギャルゲーの標準的な構造として
2)プレイヤーがその”role”をうまくこなす事で
3)女の子に好かれる
と、このような認識が出来上がったわけだ。
また、ギャルゲーのもう一方の雄ともいえるPCゲームの世界では、裸って決定的アイテムが存在した事から、初期はストリップポーカーだのパズルを解いたら女の子が裸だのといった褒美型から進化していったので、やっぱり基本はHow型だった。これに加えて、リーフの『痕』あたりからはじまったノベル形式の流行から「ストーリーの選択=ゲーム」になったので、やはり直接的なwhichといいがたいゲームが主流になった。
いくらだいたい想像がついたって、選択肢に露骨にルートが書いてあるのでは興ざめだろう。
あと、今回題材にしたレビューでは気がついてないようだけど、Whichモデルには、実は重大な弱点が一つある。
それは、ゲームデザインの幅がとても狭くなるってことだ。
なぜならギャルゲーにおいてWhichは女の子(女の子のイベント)を選ぶ事であり、その意味でアマガミ型のモデル以外を作るのは少々難しい(やれなくはない)。
それに対して”how”モデルは、当たり前のことながら、基本的には今までに登場したあらゆるジャンル…それがブロック崩しだろうがシューティングだろうが使える。
なのでhowモデルの方がデザイン上の手数はあるので、バリエーションはつけやすい。
3件のコメント
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AGENT: Mozilla/5.0 (X11; Linux x86_64) AppleWebKit/534.30 (KHTML, like Gecko) Ubuntu/10.10 Chromium/12.0.737.0 Chrome/12.0.737.0 Safari/534.30
ドラクエVがギャルゲなら
which型なんでしょうか。
AGENT: Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; rv:2.0) Gecko/20100101 Firefox/4.0
まさにそういうことに。
ドラクエVをギャルゲーと捉えるなら、あれは疑いもなくwhich型ということになります。
あくまでその要素がある、程度でしかないですけどw
AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; GTB6.6; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729)
多様性のあるHOWより、より限定されたWHICHになったと考えると
二次元を舞台に恋愛をシミュレートするジャンルが
二次元の女の子といちゃいちゃするギャルゲーというジャンルになったような
ゲームの外枠に関してユーザーの趣向に沿った形での単純化、簡略化の一環と言ってもいいんでしょうか