書籍「ゲームの歴史」について(11)

このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による、先日絶版・回収になると発表があった『ゲームの歴史』の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。

(11)は3巻の第19-21章を扱ったものになる。

該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。

シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。

また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。

第19章 インディーゲームと『Minecraft』

実はこの章はとても困った章だ。というのもインディーゲームの誕生が最初から全て間違った内容なので、本来はこの章は「全て間違いです」と書いて終わらせてしまいたいのだけど、困ったことに筆者の感想ではなく、歴史として書かれているので取り上げざるを得ない。

なので、少し変則的な取り上げ方をしたい。

プログラマーが、ファミコンなどの古いゲーム(「レトロゲーム」とも呼びます)をHTML(注:ウェブページを作る際に使用されるプログラム言語)で組み上げ、無料で世界中のユーザーに配布し始めたのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p53) 講談社.Kindle版.

まずHTMLはマークアップ言語でプログラム言語ではない。

HTML内にJavaScriptというプログラムが含まれている場合や、それともHTMLを操作可能なphpのような言語(もちろん他にも操作できる言語は多数ある)はあるが、少なくともHTMLはプログラム言語ではない。

ところでこう書くと「え? でも何年か前にHTML5でインターネットが変わる! みたいに言われてなかった?」と思う人がいるだろう。あのHTML5は、マークアップ言語としてのHTML5(ついでに書くと今はこれは廃止されているが)とその周辺技術のJavaScriptなどを含めてHTML5と呼んでいた、いわばバズワードのようなものだったのだ。最近だと”Web3”がそうだ。

では筆者が言っているものはなんなのかというと、多分だがファミコンのエミュレータと書いているので”vNES”と呼ばれた2000年代のファミコンのエミュレータだと思われる(イロイロ追記した)。
これは当時よくあったウェブ、すなわちHTMLから起動されるJava appletと呼ばれていたJavaのコードを実行するための環境で動くものだった。”Java”という名前でわかるとおり、Java言語で書かれている。
なお、知らない人ために書いておくと先ほどの”JavaScript”と”Java”は別ものだ(これまた面倒くさい歴史があるのだけど、ゲームとあまり関係ないのでここでは取り扱わない)。

多分~だと思われるというのは、あまりに内容が間違っているもので特定しかねるし、間違っている可能性もあるが可能性が高いのは”vNES”だろうということ。

上の項目について、 https://twitter.com/Molice センセイから以下の指摘があったので、追記したい。

通常、“初期の(ゲームマシンの)エミュレータ”と言いますと1990年代後期のDOS時代を指すと思います。NESエミュレータで言えば、1997年のNESticleがそうですね。vNESはおそらく2006年公開でして、15年以上前とはいえ、既にしてスタンダードな各機種のエミュレータが出揃った後ですので、自分の感覚ではだいぶん後発です。該当箇所は「2000年代のファミコンのエミュレータ」が適切ではないかと。

実は vNESではないかと書いたとき、筆者がHTMLと書いているので、Java appletだろうと思って調べたところ、vNESぐらいでしか出てこなかったので、vNESが自分が調べたより古いのだろうと判断して、書いたわけだが、2006年だとすると全く無理がある。
では、筆者が言っているものはなんなのか? という疑問が出てくるわけだけど、それについても面白い指摘をいただいた。

ちなみに、スーパーマリオなどのファミコンゲームを再現したFlashをエミュレータと勘違いしているのではないか、との指摘もありましたね。

これだとすると、確かに納得は行くのだけど…間違いの度合いはさらに増してしまうことになるよなあ…と思っていたのである。

と、追記しつつ、簡単に間違っている理由を書いたところで、上記引用部前後で、筆者は引用部は2000年すぎの話で、これをとっかかりに以下のようにインディーゲームが現れたのだ、という話を始めてしまう。
以下に、筆者のロジックを追っていきたい。

  1. HTMLなのでオープンソースだから自由に書き換えられる。だからみんな書き換えて遊んだ。これがインディーゲームの始まりである
    (オープンソース? とか言いたくなると思うが、こんな間違いは小さなものなので目をつぶっている)
  2. そこに2003年にSteamのサービスが始まる。Steamはインディーゲームを自由にアップロードできた。だからコミケのサークルみたいにゲームが集まった。
  3. これを見たマイクロソフトがXbox Live(ArcadeでもインディーでもなくLiveとだけ書かれている)でインディーを扱えるようにする。
  4. インディーをヒッピー文化みたいに自由を楽しみたい人はSteamをお金を儲けたい人はXbox Liveを使った。
  5. ここでMSがWindows 95で覇者になる過程の間違った歴史が書かれる。
  6. Windows 95のおかげでITが一気に爆発して、海外ではこれが理由でインディーが流行したのだけど、日本ではみんな個人ではソフトを作らなかったので、インディーは流行しませんでした。
  7. ”minecraft”についての開発史
    (困ったことにノッチ1人で作ったことになっているうえに、技術的な解説が間違いだらけなのだけど、間違いが多いが、ともかく骨子に影響はないので、あえて取りあげない)
  8. インディーのソフトが多すぎて困っているという話を書いて終わる。

つまり、Wndows 95のおかげでITが流行して、これがインディーの流行に繋がったのだというのが、筆者の主張なわけだが、全く異世界の歴史なので「この章はマインクラフトに人気があるという話以外はほぼ間違っている」ことになってしまう。

では、何が間違っているのか?
完全ではないにしても事実としてはこうですよと書くことで、説明したい。

まず、インディーゲームの定義は曖昧なのだけど、ここでは筆者の定義に従うこととしよう。

筆者の主張を端的にまとめると「個人開発者もしくは少人数のメンバーが作った、大メーカー以外のところから販売されたゲーム」というあたりになるだろう。
この定義は自分的には若干の異議はあるのだけど、まあ大きく間違っているということはないと思うので、OKとしておこう(この定義に対する一番大きな疑問は「では個人のゲームがメジャーメーカーが発売されたら、それはインディーとは呼べないのですか?」だが、今回はそれは横に置いておきたい)。

では、この定義に当てはまる、すなわち筆者の言うインディゲームがいつ頃からあったのかというと、恐ろしく古い。少なくとも日本では1970年代後半には「パソコン雑誌へのプログラムの投稿」という形で、個人開発者がゲームを発表するという形は当たり前のようにあった。有名な中村光一さん、故・森田和郎さんなどいくらでも例を挙げられる。自分もその部類に入るだろう。
筆者は1巻で中村光一さんのことを取り上げていたのに忘れてしまっているのか、それとも筆者の考えるインディーの定義を無視しているのかと、少々呆れてしまう。

また、このころパソコン雑誌はテープサービスといってプログラムの収録されたカセットテープを販売して、その本数に応じて印税が入っていたので、原稿料以外に、ちゃんとそれで儲かってもいた。

つまり、筆者の定義したインディーゲームはいつ頃からあったのかと問うと、日本ではパソコン雑誌が始まった1970年代後半には既にあったということになる。

そして、この個人製作のソフトは80年代前半は、例えばマイコンベーシックマガジンなどの雑誌投稿とホビーパソコンの普及で盛り上がり、80年代後半になると、今度はパソコン通信でフリーウェアおよびシェアウェアの形でツールからゲームから作られるようになる。
また90年代になるとツクール系のツールが登場して、これで作られた作品なども登場し始める。
加えて書くなら、コミケなどで同人ゲームが頒布されるようになり、これまた言うまでもなく個人もしくは少人数制作のゲームで、この流れは筆者の言う2000年あたりまで、ずっと連綿とある流れだ。

例えばTYPE-MOONは2000年代初頭に同人サークルとして登場し、それが企業になっているし、『ひぐらしのなくころに』も2000年代初頭の同人サークル、個人作品だ。

つまり、日本で筆者が言うような《もちろん、日本にもギークと呼ばれる人はたくさんいました。しかし、彼らは個人ゲーム制作というムーブメントにあまリ興味を持たなかったのです(p61)》などということは、全くなく、個人製作・少人数制作は様々な形で連綿と続いているムーブメントだったのだ。

もちろん今も続いていて、例えばHSPやそれともプチコン、scratch、unity web playerなど様々な形で幅広く個人・少人数制作の作品は出続けている。

また会社の話にしても、ハドソンやキャリーラボ(ソフトって書いてた!すまん!)、それとも高知のPSK、大阪のハミングバードといった、パソコン黎明期に登場したソフトハウスの大半は、地方の特定の店に来ていたほぼ個人の開発者が集まって出来上がったものだ。自分の直接知っている例ではデータウエストは大阪に巣食っていたコンピュータマニア=個人の開発者が集まっていたNEW ONというグループが起業して出来上がった会社という具合だし、スクウェアもほとんどソレと言っていい。
そして言うまでもなく、それらの会社の人数はと言うと「個人もしくは少数のメンバー」だし、もちろん企業自体がインディー同然なのだから、やはり筆者の言うインディーソフトに当てはまる。

石川さんやたいにゃんに聞いたところシステムソフトも似たようなものだったと教えてもらった。

つまり、黎明期はそもそも会社もインディーみたいなものだったのだ。

またアメリカの話を書くと、例えば『シムシティ』で有名なウィル・ライトのデビュー作は『バンゲリングベイ』(1984/C64)で、彼一人で作っているし、今でも名前は残っているシェラ・オンラインはケン・ウィリアムス&ロバータ・ウイリアムス夫妻が創業した会社で『ミステリーハウス』(1980/Apple Ⅱ)は夫妻二人で作っているし、『ウィザードリィ』(1981/Apple Ⅱ)はロバート・ウッドヘッドとアンディ・グリーンバーグの二人だし『ウルティマ』(1981/Apple Ⅱ)はリチャードギャリオットだけが書いている。
また、80年代半ばに創業されたEA、すなわちエレクトリック・アーツは最初はソフト制作者を「ソフトウェアアーティスト」として宣伝して、売り出していた。以下はそれらのリストの一部。

  • Pinball Construction Set(1983) / Bill Budge
  • Archon: The Light and the Dark(1983) / Jon Freeman & Anne Westfall
  • M.U.L.E.(1983) / Dani Bunten Berry
  • The Bard’s Tale(1985) / Michael Cranford
  • Starflight(1986)/ Greg Johnson & Alec Kercso

そして、海外でも80年代後半からパソコン通信や通販でシェアウェア・フリーウェア/PDS(重箱の隅なのに拘る人が多いのでもう説明はしない)でゲームがリリースされるようになり、あのFPSの元祖『ウルフェンシュタイン3D』は筆者の言う「インディーゲーム」であったりする。
そしてパソコン通信や当時の研究用だったインターネットや通販を通じてのインディーが、一般へのインターネットの解放に従って、インターネットでの配布に移行していくという流れで、やはり70年代の終わりから連綿と続く歴史がある。

もちろん、今書いたのは概史もいいところで、さらにヨーロッパや東欧に目をやると別の歴史があり、そういったところにも本来は光を当てるべきなのだけど、とりあえずは日本とアメリカを見たとき、70年代の半ばにマイクロコンピュータが登場してから、筆者の言うような「インディーゲーム」の歴史は延々と続いてきたし、そして今もずっと続いているもので、少なくとも筆者の言う2000年代にHTMLを改造することでインディーゲームは始まったという歴史は全く間違っているわけだ。

と、そもそも筆者が書いている歴史がまるで間違っていて、これでは「異世界インディー物語」ですよ、ということを理解してもらったうえで、次に「これはちょっとひどい」という点を指摘しておきたい。

そんな中、2003年に「Steam」というゲーム配信サーピスがアメリカで始まります。これは、自分の作ったゲームをSteamのサイトにアップすると、そこで販売してもらえるというシステムです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p53) 講談社.Kindle版.

SteamはもともとはValveのゲームを売るためのプラットフォームで、インディーゲームを売るためのプラットフォームではなかった。
インディーゲームを売れるシステムが公式な形で登場したのは”Greenlight”が登場した2012年から(それ以前は担当者を直接知っていると売ることが可能だったと教えてもらった。マジ知らんかったよ…)。
引用部のように自由に出来るようになったのは2017年になってからだ。
つまり、Steamの歴史はまるで間違っている。
なお、少し微妙な話を加えておくと、Steamの正式リリースは2003年なのだけど、ベータテストで1.0が配布されたのは2002年なので、始まりとされるのは2002年の方が多いと思う。

マイクロソフトは、2005年にXboxの次世代機である据え置き型ゲーム機Xbox360を発売しますが、同社はXbox360ベースで開発できるツールをユーザーに提供しました。そうして開発されたインディーゲームを、「Xbox Live」という同社のオンラインコミュニティサーピス上で、ダウンロード販売できる仕組みを作ったのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p56) 講談社.Kindle版.

“Xbox Live”はマイクロソフトが提供するオンラインサービスで、ちょっとコミュニティとは違うが、それはともかくとして、まず当時はダウンロードするためのストアとして、“Xbox Live Marketplace”があり(これは名前を変えて今でも続いている)、”Xbox Live”の後ろに”Arcade”がついていたのが、マイクロソフトと契約している会社のための「フルのXboxゲームを配信できるもの」で、インディー用に解放されていたのは”Indie Games”で、別物だった。
そして”Indie Games”の方は一時的に注目されたが、結果的には成功せず、2017年にクローズされることになる。ちなみにこの形のチャレンジは実はソニーも”PlayStation Mobile”という名前で、全く同じような形でやっている(そして同じように失敗している)。
つまり、ここから始まる「Xboxのインディーの話」は全て間違っているわけだ。

マイクロソフトは、1995年にWindows 95を発売し、パソコンにおけるシェアを圧倒的なものにすると、逆にハードメーカーはそれに合わせて、Windows 95を走らせることを前提とした製品を開発するしかなくなりました。業界の構造が大きく変化(これを「パラダイムシフト」ともいいます)したのです。
すると当然ながら1995年以降は、ソフトメーカーもWindows上で動くことを前提にソフトを開発しなければならなくなります。
こうなると「マイクロソフトの独裁」みたいに思えるかもしれませんが、実は悪いことばかりではありません。というのも、Windows 95が登場する前までのソフトウェア開発は、それこそOSごと開発するような、とても大がかりな規模だったからです。
しかしWindowsがOSとして定着してくれると、各ソフトメーカーにとって、これまでのような大規模かつ根本からの開発は必要なくなりました。Winndows 95という全世界共通のOSがソフトの土台部分になってくれているので、”その上の部分″だけを開発すればよくなったからです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p60) 講談社.Kindle版.

あまりに間違っているもので、これまたどうしようかと言いたくなるのだけど、そもそもWindows 95が発売されるより前から、マイクロソフトのOSの独占度合いは極めて高く、x86と呼ばれるインテル系のプラットフォームでは”PC / MS-DOS”という名前で圧倒的なシェアを持っていた(海外でもPC-DOSだったのはIBMなので、MS-DOSでいいのではないかと言われたので修正)
つまり「マイクロソフトの独裁」と書かれているところまでのテキストは全て間違っている。

さらにDOS時代はゲームは極端にハードに依存していたので、日本ならPC-98でなければ動かない、海外なら特定のビデオカードでなければ動かないと言った制限があるのも当たり前で、OSより機種依存の方が遥かに大きかった。

次にWindows 95が出るまでソフトの開発が大変だったというのが間違っているのは、OSがあったことに加えて、先ほどのインディーの歴史の間違いの指摘でもう明らかだろう。そんなに大変なら連綿とソフトが作られているわけもない。
そして最後にWindows 95が登場しても、ゲームは基本的にはDOSで動いてWindows では動かないものだった。なぜならゲームに必要な機能がまともに用意されていなかったからだ。
Windowsの上でまともにゲームが動くようになったのは、様々な意見があるだろうが3Dまで含めてになると、1998-2000年ごろというのが作り手の一般的な意見ではないかと思う(2000年は下げ過ぎじゃね? と言われたので見直してみて、ちょっと自分はglideあたりの評価が強すぎるかなと思った)。
また、Windowsの開発環境が普及してからも、文字コードの問題があり、本当に世界中で同じバイナリが安定して使えるようになったのは2010年代以降ではなかろうか。

第20章 eスポーツとゲーム実況

ここは大変に厳しい章で、まず前半についてはeスポーツの話を始めると絶対に避けて通れない、韓国の『スタークラフト』のプロリーグに全く触れていないとか、日本でeスポーツが盛り上がらなかった大きな理由の1つであった賞金の問題に全く触れず、日本人は大脳が発達していないからオンラインゲームに向いていなかったとか、もうとんでもない内容の嵐なので、基本的に取り上げないこととしたい。

第2巻第16章で、日本人は大脳辺縁系がトレーニングできていないため、感情をやりとりすることに楽しみを覚えるオンラインゲームには向いていなかった、そして、感情をむき出しにして見知らぬプレイヤーに戦いを挑むことが苦手だったと述べました。eスポーツの中でもFPSは、特にその要素が強いので、さもありなんという感じです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p86) 講談社.Kindle版.

以下に節のタイトルを挙げておくが「日本で~」のところで上記引用部のように「大脳辺縁系が発達していない」話をあたかも確定した事実のように平然と書いているのには「これのどこがゲームの歴史だ」という気持ちもあり、正直グラグラきた。

  • アメリカ発祥の「LANパーティー」
  • eスポーツが盛んな韓国とドイツ
  • 日本でeスポーツが盛り上がらない理由
  • 格闘ゲームはeスポーツに不向き?
  • ”観客力”が高いアメリカ人
  • 『スマブラ』の新作発表に涙を流すアメリカ人
  • 選手を映すより、観客を映す
  • 商機を見出す者たち

また後半はゲームの実況の話なのだけど、この時「ともかくプレイした人の数が多くないと、実況の人気は出るわけもない」という当たり前の事が頭から抜け落ちて主張を展開するもので、実況についても、全く的外れだとしか思えず、なおかつほとんど歴史がなく、筆者の感想ばかりなので無視することとしたい。

  • 「ゲーム実況」の誕生
  • 日本と海外のゲーム実況の違い
  • ネタ的なプレイに向く「やってみた系」ゲーム
  • 任天堂とゲーム実況の好相性
  • 無視できないYouTubeの宣伝効果
  • ゲーム実況がゲームビジネスを根本的に変えた
  • 現代的なつながりの「場」

後半のyoutubeの宣伝効果の話から先の部分など、例えば現在のゲームでは実況に向いた要素を意図的に入れて行く考え方があり、これは今までのゲームデザインではわりと禁忌であった手段が許されるようになっていて、いわば実況されることが前提の作りは今までの物と違うといった話題がある。

また、さらにインフルエンサーに宣伝されると、どれぐらいダウンロードが増えるのかと言った、本当に面白く意味がある話題なのだけど、全くそういったものを支えるデータもなければ、実践的なロジックもないただの筆者の感想にしかなっていないのが本当に残念だ。

第21章 制作者のグローバル化

これまた大変に厳しい章で「寒い国は几帳面さや精密さが発達するからITに向いている」(ロシアは…?)というような、筆者の謎理論が語られ、そのあと中国のネット事情についてまるで間違った内容が書かれる。

  • 『Minecraft』を生んだスウェーデン
  • アメリカの下請けだったカナダ
  • 「寒い国」にITが発達した理由
  • 文化の発祥と地政学
  • 携帯電話からネットが普及した中国
  • 13億人の巨大な潜在市場
  • 不具合は市場に出してから直す
  • オンラインに特化した中国のゲーム開発
  • 韓国のオンラインゲームに影響を受けたアメリカの『LoL』
  • アメリカの優位性
  • 日本は「社会的きっかけ」を活かせなかった

前半は筆者の感想でしかないので無視するが、後半の「携帯電話からネットが普及した中国」からはまるで間違っている内容が含まれるので少し取り上げたい。

1990年代にはむしろー後進国だった中国は、一体どのようにしてスマホアプリ天国、スマホゲーム天国になったのでしょうか?
ゲーム分野に絞った話をするならば、2000年ごろまでの中国は、韓国ゲームの下請けを主に行っていました。それが2000年代に入って携帯電話(この時点ではガラケーです)が普及し始めると、初めてインターネットというものが爆発的に普及します。
あれ? とお思いでしょうか。韓国や日本といった他国では、まず1990年代後半にパソコンでのインターネットが普及し、その後ガラケーでのインターネット(日本ではiモード)が普及します。
しかし中国は、「パソコンでのインターネット普及」という段階がありません。いきなリ携帯電話です。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p120) 講談社.Kindle版.

中国のゲーム史を書く時、絶対に外せないマストの1冊と言っていい『中国ゲーム産業史』を読んでいただきたいと一言書いて終わらせておきたいが…取りあえず簡単に書くと「中国ではナローバンドによるインターネット接続のPCのオンラインゲームが1998年頃から普及をしはじめる。これは韓国と台湾ベースのものである。そしてこれが2000年代前半にADSLでブロードバンド接続が普及することで、一気にPCオンラインゲームが普及する」という流れであり、上に書かれたような歴史では全くない。

Amazon.co.jp: 中国ゲーム産業史 (ビジネスファミ通) eBook : 中村 彰憲: KindleストアAmazon.co.jp: 中国ゲーム産業史 (ビジネスファミ通) eBook : 中村 彰憲: Kindleストア
Amazon.co.jp: 中国ゲーム産業史 (ビジネスファミ通) eBook : 中村 彰憲: Kindleストア amzn.to
Amazon.co.jp: 中国ゲーム産業史 (ビジネスファミ通) eBook : 中村 彰憲: Kindleストア

『LoL』がアメリカでリリースされたのは2009年。同作は、『ウォークラフト』というゲームのシステムを発展させて作られたものですが、ゲームをフリー・トウー・プレイ(スタート時無料)にしたのは、韓国のオンラインゲームに影響を受けてのことでした。
これは、不思議に思われるかもしれませんね。韓国側が、コンピューターゲーム発祥の地であるアメリカの影響を受けるのなら理解できますが、そうではなくて逆。アメリカが韓国の影響を受けたのですから。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史3(p133) 講談社.Kindle版.

まず『LoL』(リーグ・オブ・レジェンズ)は、『ウォークラウト』のゲームシステムを発展させてつくられたものではない。大間違いではないが非常に不正確な文章だ。

最初に『ウォークラフトⅢ』のMODとして開発された「DotA(Defense of the Ancients)」が登場した。DotAは、2つのチームがそれぞれの本拠地を守りながら敵の本拠地を破壊するゲームプレイを提供し、これが人気が猛烈に出て、MOBAと言われるジャンルの現在の形を確立する。
そして、DotAから派生した別のMODである「DotA Allstars」を基にして「リーグ・オブ・レジェンド」が作られるというのがかいつまんだ歴史になる。

また、F2Pについては前回書いたが近代的な発祥は韓国で、そして2009年というと、既にZyngaがfacebook gameでF2Pで大成功している真っ最中。
世界中がF2Pという形に目を向けている時であり、全く驚くことではない。

ところで筆者は前回の記事の引用部では「F2Pは韓国が日本から持っていった、日本発祥だ」と書いていたわけで、言い換えるとF2Pはiモード発祥となるはずなのだけど、なぜかそうなっていない。
こういう一貫の無さもこの本の特徴と言える。

他にも取り上げた方がいいかと思う所もあるのだが、大半は筆者の感想なので、パスとしておきたい。

次に続く話

事実上、絶版・回収をするのが発表されたが、前回も書いたが個人的にはやって欲しくなかった。

ところで、このシリーズの目的はずっと変らない。

  • できうる限り自分のわかる間違いを指摘して、訂正する。
  • 出版されてしまったのは事実であり、物理的に本は残るので、このシリーズを本の形にして、国会図書館に入れて、間違いだと指摘可能にしておく。
  • 電子書籍版を作って、この記事と共にアクセスしやすくしておく。
    ※ これは絶版となったことで、大幅に優先度は下がったと思うのだけど、まあ一応やろうとは思っている。

物理的に出てしまった本があり、それはよくも悪くも様々な場所に保存される。
だから、それに対して「間違いですよ」と指摘できる物が必要だから、絶版にだろうが回収だろうが、筆者がアカウントを削除しようが、一言もしゃべらないとしても、それとも講談社が例えば正式に「間違いだらけでした」と言おうが、一切関係ない。
これは最初から全く変わらない目標なのだけど、理解していない人が多いのは残念だ。

あえて書くなら、筆者に望むことは、多分ないだろうソースがあるのか、ないのかをはっきりさせてくれることぐらいのものだ。筆者が書いた様々な「誰それが言いました、思いました」という事のソースはまずないだろうと思っているが「ない」と明言されるのと「ないだろうと思われる」のは違うのだ。

ところで、のこり3章の大半も筆者の「感想」で、書かなければいけない量はあと1回分ではなかと思うので、ようやくこのシリーズも次で終われるのではないかと思う。

本当に生産性の全くない作業に2カ月ほども投入することになったが、もうすぐ電撃プレイステーションD物語や、ハドソン伝説、イース通史など、自分が書きたいものに戻る予定である。

LinkedIn にシェア
Pocket

8件のコメント

  • 重箱の隅を突くようで申し訳ないですが、
    >インディーゲームを売れるシステムが登場したのは”Greenlight”が登場した2012年から
    というのもちょっと違っていて、Greenlight 以前は Valve の担当者に直接連絡を取れる一部のパブリッシャーであればリリースが可能で、例えば国内インディーだとルセッティア等がそうしてリリースしていました。
    https://store.steampowered.com/app/70400/Recettear_An_Item_Shops_Tale/
    Greenlight はその後、広く審査の門口を広げた形ですね。

    • うっは、それは知りませんでした。ちょっと入れにくい情報ですが入れておきます。

  • 自分も友達とPC-9801で同人ゲームを作ってTAKERUで販売していたので、それはインディーゲームじゃなかったんだろうかと思いましたね。

    ところで、間違ってたらすみませんが、Windows3.1の時代にあったWinGってWindowsでゲームが動作するシステムじゃなかったでしたっけ?

    • 1)WinGはありました。
      2)MS Arcadeとかでゲームがいくつか出ていました。
      3)問題がかなりあったこと+当時はゲームはDOSが普通であったことから無視していますw
      と、こういうことですw

  • “シェラ・オンラインはロバート・フラッタ夫妻が創業した会社で”
    ケン=ウィリアムズとロバータ=ウィリアムズ 夫妻ではないでしょうか。
    また「シエラ」表記が正当では、と考えます

    • シエラはともかく、名前は頭の中でどっかで間違って出てきたみたいです! 直しておきます!
      …で直したんですが、ロバート・フラッタは多分ですが歌手の「ロバータ・フラック」の名前が頭の中でショートして出来上がった謎の名前だろうと想像しました…お恥ずかしい

  • “そして最後にWindows 95が登場しても、ゲームは基本的にはDOSで動いてWindows では動かないものだった。なぜならゲームに必要な機能がまともに用意されていなかったからだ。
    Windowsの上でまともにゲームが動くようになったのは、様々な意見があるだろうが3Dまで含めてになると、1998-2000年ごろというのが作り手の一般的な意見ではないかと思う(2000年は下げ過ぎじゃね? と言われたので見直してみて、ちょっと自分はglideあたりの評価が強すぎるかなと思った)。”

    とのことですが、Win95でDirectX3が出たあとの97年ぐらいからでは?とも思いますが、どうでしょうか。
    3DグラフィックになるとDirextX6.0が出てくれないとD3Dでまともにグラフィックができないはあるんですが、たとえばみんな大好きAoEは97年発売でDirectX3が前提です(なのでNT4.0 SP3でも動くという)
    確かにwin95の頃はまだDOSゲーが洋物では多かったですが、DirextX3が出てきてからはWin上でのゲーム開発が進んだ記憶があります。

    • やはり議論になるところってことでw
      95>ない
      96>ない
      97>ある人がいる
      98>ある人がいる
      00>ここはまあ確実

      こんな感じですねえ…

コメントは現在停止中です。