書籍「ゲームの歴史」について(1)

このテキストは岩崎夏海・稲田豊史の両氏による『ゲームの歴史』の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。

該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。

例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので「自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない」とだけ書いておく。

また、これは史観なのだから実際の歴史から離れていてもいいという主張もあるかもしれないが、それは前書きの段階で無理があると言わざるを得ない。

本書は、ゲームの歴史について書いた本です。
ここで言う「ゲーム」とは、いわゆるコンピューターゲーム(ビデオゲーム)のことコンピューターを使い、電子的な処理によって画面にグラフィックを表示させ、それをコントローラーなどで操作することによって遊ぶゲームを指します。
その中には、モニターにつなげる「据置き型ゲーム機(テレビゲーム)」や、モニターと一体となって独立して持ち運べる「携帯型ゲーム機」たけでなく、パソコンでプレイする「PCゲーム」、携帯電話で遊ぶ「ケータイゲーム」、ゲームセンターに置いてある「アーケードゲーム」も含まれると考えてください。
それらのゲームが、いつ、どのようにして生み出され、それによってゲームを取り巻く世界がどう変わったのかを、全3巻に凝縮して綴ったのが、この本です。
(読者の対象を示しているので中略)
これを聞いて、「それなら、過去のことなんて知る必要はない。現在の流行や業界事情を知ることのほうが大切た」と反論する人がいるかもしれません。
しかし、その考えは誤りです。過去の記録である歴史を学ぶのは、未来の戦略を立てるために絶対に必要なことだからです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1 講談社.Kindle版.

こう書かれて、過去の記録である歴史は実際から離れて言いてもいいと主張するのは無理だろう。

そして正直な話として、ゲームの歴史的に見て、沢山の間違いがあり、どうしてそうなった? と聞きたくなってしまう。なので、全く非生産的な活動だが、間違った歴史の拡散はいただけないので、以下に、歴史的な事実と違うとわかったところで、僕が大きな問題と思ったところを指摘していく。

なお、この文章の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので入力ミスで本文と違う場合があるかも知れないが、そこは御承知いただきたい。

また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。

2章 それはMITから始まった

このゲーム(Tennis for Two)が生まれたのは、アメリカ・ニューヨーク州にあるブルックへブン国立研究所。なんと原爆の研究機関です。
先述のとおり原爆の開発には大量の計算を伴うため、コンピューターが必需品でした。そのため、ブルックへブン国立研究所にもコンピューターが導入されていましたが、第二次世界大戦が終わってから10年以上が経ったこのころになると、広島や長崎に落とされた原爆の生み出す放射能の恐怖が世の中に伝わるようになっていました。
おかげで、原爆に対する人々の不安は、このブルックへブン国立研究所に対しても向けられます。
「あの研究所では、怖いものを作ってるんじゃないか?」
「もしかしたら、放射性物質が漏れているのではないか?」
そこで研究所では、人々の不安を取り除こうと、施設を積極的に開放することにしました。地域住民との交流を図ることにしたのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p40) 講談社.Kindle版.

これより前にもツッコミたいところはあるのだけど、とりあえずゲームの関係するところから突っ込んでいきたい。

ブルックヘブン研究所は核の平和利用を推進するために主に原子力や素粒子物理学の研究をしている研究所で、原爆の研究はしていない。いかに英語の資料としてブルックヘブン研究所の公式ウェブサイトに1950年代の研究所の歴史や加速器の技術に関する記事があるので確認するといいだろう。

BNL | Our HistoryOriginally built out of a post-World War II desire to explore the peaceful applications of atomic energy, Brookhaven National Laboratory now has a broader mission: to perform basic and applied research at the frontiers of science, including nuclear and high-energy physics; physics and chemistry of materials; nanoscience; energy and environmental research; national security and nonproliferation; neurosciences; structural biology; and computational sciences.
BNL | Our History www.bnl.gov
BNL | Our History

どうしてこんな間違いが起こったのかと言うと、”Tennis for Two”という史上初のビデオゲームとされる作品を作ったヒギンボーサムはマンハッタン計画(原爆の計画)に従事していた事実から、間違ってブルックヘブンを原爆の研究所にしてしまったのだろう。
だから原爆の下りは全部筆者の想像だ。

ただし研究所がなにか怪しいことをやってるのではないかという住民の不安を取り除くために、施設を年に一度公開していたのは事実である(これが核に対する不安だったのかはわからない)。

3章 全てを変えた『ポン』

そのアタリ社では、新しいゲームを作るためにひとりの技術者を雇いました。アラン・アルコーンという名の電子技師(プログラマー)です。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p66) 講談社.Kindle版.

筆者の3-4章の論旨からすると、ここで書かれている「(プログラマー)」は明らかに今でいうソフトウェアを書く人という意味でのプログラマーなのだけど、アルコーン氏は電子回路技術者として雇われたのであって「(プログラマー)」ではない。

ここで「(プログラマー)」がついているのは、筆者が当時のビデオゲームに関して重大な勘違いをしているせいなのだけど、それについての説明は次の項目に譲る。

しかし『スペースウォー!』がそうだったように、当時のコンピューター業界では、誰かが作ったプログラムをコピーして好きなように改変するのは当たり前で、誰も悪いことだとは思っていませんでした。コンピュータープログラムにはまだ、「著作権」の考え方が適用されていなかったのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p72) 講談社.Kindle版.

この引用部自体は正しいのだけど、問題は全体を通しては間違いだという事だ。
このパートで取り上げられているテキストの全体の流れをかいつまんで説明すると、1970年代には著作権の考え方は緩かったという話から、アタリの『PONG』がマグナボックス社のオデッセイのピンポンのコピーでプログラムが改造品だから訴えられたという流れで、著作権が云々と書かれている部分だ。

実はこの話は根本に問題がある。

『PONG』、『BREAK OUT』などの初期の商用ビデオゲームはCPUがないので、ソフトウェアによって駆動されている部分はない。すなわち、いわゆるプログラム(ソフトウェア)などない。
「そんなこと出来るの!?」と驚くかもしれないが、出来るのだ。
だからありもしないプログラム(ソフトウェア)の著作権が保護されるわけもない。

プログラム=ソフトウェアではないが、筆者は著作権で保護される現在のプログラムを想定した話を書いているので、いわゆるソフトウェアのプログラムを想像しているのは明らかだ。
また以下では断りなくプログラムと書いた場合にはソフトウェアのプログラムのことを指していると考えていただきたい。

では、何で訴えたのか?
マグナボックスはアタリを特許侵害で訴えたのだ。
だから著作権云々の話は根本に問題がある、というわけだ。
(下のリンクはその特許訴訟についての資料)

Magnavox Co. v. Activision, Inc. - Ralph Baer's Litigation FilesMagnavox Co. v. Activision, Inc. - Ralph Baer's Litigation Files - Patent law
 www.ipmall.info
Magnavox Co. v. Activision, Inc. - Ralph Baer's Litigation Files

なお、ここで認められているマグナボックスの特許はまるで核爆弾のような代物で、およそビデオゲームだったらなんでも引っかけられるようなものだった。こんなムチャな特許を通したのかよと思ってしまう。
そして、これによっていわゆる「特許トロール」が登場したと解説しているウェブもあるほどだ。

ところが話が面倒になるのが、例えば『スペースウォー!』などのPDP-1の上で動いていたゲームはソフトウェアで駆動されるコンピュータゲームという事だ(だから引用部そのものは『スペースウォー!』を例にとっているので正しいことになる)。

これは60年代から大学には商用デジタルコンピュータ(アナログがあったのでこう書く)が置かれるようになったので、大学で作られていたのはソフトウェアとしてのビデオゲーム(ttyで遊ぶゲームもあったじゃないかというツッコミは甘んじて受けておく)なわけだ。
だから大雑把な理解としては大学などで開発されているビデオゲームはCPUで制御されるゲームだったのでプログラムがあった、70年代前半の商用ビデオゲームはコンソールまで含めて非CPUゲームだったので、プログラムはなかったとすると大枠の理解としては通じると思う。

歴史的な話をすると、そこがハッカーの巣になって作られていくゲームがアドベンチャとRPGに繋がっていき、かつまた大学のコンピュータとベル研のUNIXは切っても切り離せない関係があり、そしてそれは最終的にlinuxと繋がるとても大きな流れでもあったりする。

また、当時、プログラムについて保護はまるでなかった。何で守るか決まっていなかったからだ。

これは70年代にアメリカで議論になり、プログラムが最終的に著作権の形で保護すると認められたのは、アメリカでは1980年12月12日以降だ。

上記の話は当時のビデオゲームを理解する上での基礎中の基礎なのに、困ったことに、本当に困ったことに筆者は明らかにこれを勘違いしていて、3章から4章まで、ずっと非CPUゲームもソフトウェア駆動のゲームも全部ひっくるめて「コンピュータゲーム」と書いて、今の常識から見たソフトウェアがある前提でストーリーを書くため、全体がメチャクチャになっていて、例えば『ポン』を作ったアルコーン氏の肩書に「電子技師(プログラマー)」などという当時の肩書としては間違った説明をつけてしまっているわけだ。

そういう意味では3ー4章は筆者の基本の理解が間違っている章、と表現してもいいだろう。

ついでに書いておくとアタリの創業者ブッシュネル氏が作った『コンピュータスペース』は『スペースウォー!』をベースにしてはいるが、CPUは積まれておらず『スペースウォー!』を再現する汎用TTLロジックで組まれた専用ハードウェアになっている。

また商用ビデオゲームで初めてCPUを積んだゲームは何だったかと言うと、1974年にミッドウェイが発売した『ガンファイト』(1974年説と75年説がある)。

4章 マネから生まれた日本のゲーム業界

そこでブッシュネルは、「ひとりでも遊べるゲームを作ってくれ」とプログラマーに指示します。そうしてできたのが『ブレイクアウト(Breakout)』というアーケードゲームでした。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p80) 講談社.Kindle版.

『BREAK OUT』にもCPUはないので、ソフトウェアによって駆動されている部分はない。
だからプログラマに指示できるわけもない。
下のリンクは『BREAK OUT』のマニュアル。回路図まで掲載されていて、どこにもCPUはない。
(一時的にリンクを外した)
https://www.arcade-museum.com/manuals-videogames/B/Breakout.pdf

また『BREAK OUT』の開発チームには、後にアップルを起業するジョブズとウォズニアクがいたというのは有名な話なのに、一切書かれていない。

この本ではやたらめったらジョブズの事を引き合いに出す。
何かというと「ジョブズが」と書きだすと思っていいぐらい出てくるのに、よりにもよって直接関係していたここで出てこないのが恐ろしく気になるのである

1976年にアメリカで発売された『ブレイクアウト』は、たちまち大人気になりました。
それを受け、日本のメーカーもこぞってコピーゲームを作ります。日本で作られた一連のコピーゲームは『ブロック崩し』と呼ばれました。ところがそのとき、「アタリ社が訴えられた」という情報が、タイトーやセガといった日本のメーカーの耳にも入ってきます。そこで、彼らはハッと気づきました。
「プログラムって、コピーしちゃいけないらしいぞ!」

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p81) 講談社.Kindle版.

今までの流れでわかっているだろうが、この当時はプログラムがほんの一部にしかない時代なので、結論部が間違っている。

ありもしないプログラムをコピーできるわけもない。

つまり、筆者は3章で間違ってから4章のここまで、商用ビデオゲームと著作権の関係について書いている箇所は延々間違った話をしているわけだ。

正直、普通にビデオゲームの歴史を調べれば『PONG』や『BREAK OUT』は非CPUゲームだと書かれているはずで、どうしてちゃんと調べなかったのかと不思議になってしまう。

なお日本でプログラムの著作権が裁判で認められたのは1982年12月6日。アメリカに遅れること約2年。
ただし、この時はあくまで裁判で認められただけで条文としては存在せず、それが条文になったのは1985年。

そんな『パックマン』が後世に残した発明は、「一定時間無敵になれる」というゲームシステムでした。画面内に置いてある「パワーエサ」を食べると、それまでパックマンが触れるたけでミスになっていた敵のモンスターが全て青色に変わり、パックマンが噛みついて撃退することができるのです。
無敵アイテムを取るタイミング次第で、どれたけ有利にゲームを進められるかが決まるため、無敵システムはゲーム性を奥深くしました。
そしてその無敵システムは、5年後にファミコン用ソフトとして発売される『スーパーマリオブラザーズ』のアイテム「スター」にも受け継がれ、同作の奥深いゲーム性に大きく寄与することになるのです。
まさに「バトンの受け渡し」でした

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p92) 講談社.Kindle版.

パックマンのパワーエサを「無敵」と呼ぶかといえば、明らかに呼ばない。

このテキストでは無敵にこじつけるために、メカニクスの説明を途中ではしょっているが、パワーエサを取ると全ての敵が弱体化する。そして弱体化している敵を食べて得点に出来る。食べた敵は中央に戻って通常の敵となって出てくる、と、こういうメカニクスだ。
つまり本当に無敵なのは、パワーエサをとった直後で敵が全て弱体化している時だけ、すなわち敵を食っていないときだけで、少なくとも一般にイメージされる無敵からはかけ離れている。

対して、マリオの無敵は、通常のプレイでは穴に落ちる・罠にかかるといったことをのぞけば、敵に対しては一定時間無敵で、全くの別物だ。

それに、ここでは5年後に受け継がれたと書いているが『パックマン』の登場は1980年。
この時、宮本さんはデビュー作の『ドンキーコング』(1981)すら作っていない。

言い換えるなら、もし受け継ぐとしても、それは『ドンキーコング』のハンマーでしょ? って話のはずで、5年後の宮本作品として10作以上も間がある『スーパーマリオブラザーズ』に受け継がれたって、こじつけもいいところじゃんって話になってしまう(なお『スーパーマリオブラザーズ』が『パックランド』を受け継いだというなら、その通りと言う)。

筆者、こういうムチャな理論を語るのが好きなようだが、時系列で作品を並べるとすぐにこじつけじゃないかってなるので、もう少しちゃんと考えて書いたらどうかと思う。

『ゼビウス』は、「ソルバルウ」という飛行機に乗り、飛来する敵をマシンガンのような武器「ザッパー」で撃ち落としつつ、地上の敵を爆弾のような武器「ブラスター」で破壊する、というシューティングゲームです。つまり、『スペースインベーダー』の模倣作品のひとつでした。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p98) 講談社.Kindle版.

そこで『ゼビウス』のゲームデザイン・プログラム・グラフィックを担当したナムコの遠藤雅伸は、この背景の描写に工夫を凝らせば、ゲームでも宇宙以外の世界観を描けるのではないかと考えました。
そうして遠藤は、それまでのゲームでよく見られた黒はもちろん、赤・青・緑といった原色も避け、多彩な中間色を配色しました。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p99) 講談社.Kindle版.

二つの引用を合わせて、『ゼビウス』について記述していきたい。
なお自分などよりよほどこれを語るにはふさわしい人がいるのだけど、語りそうにないので、簡単に自分が書きたい。

まず、1983年1月に発売された『ゼビウス』を『スペースインベーダー』の模倣作品と呼ぶにはあまりに無理があるだろう。

『ゼビウス』は縦スクロールで自機が前進していくに従って地上と空中の様相が変わり、そこに現れる敵を地上と空中で撃ち分けるゲームで、固定画面・面クリア型で毎回同じ敵が同じように並ぶ『スペースインベーダー』とは、共通点といえば敵を撃つことぐらいの別物だ。

敵を弾で撃つからシューティングだって主張は別にいいと思うが、敵を撃つ以外のメカニクスがほぼ違うゲームを模倣品と書くのは作者たちに対してあまりに失礼だろう。

敵を撃つのがシューティングなのは原理的には正しいが、これを敷衍すると『ロックマン』も『魔界村』もシューティングになり、筆者の論によれば『スペースインベーダー』の模倣品ということになる。どこからは模倣…というか、同一系列ではないのかというのは議論があるところだろうが、少なくともスクロールゲームと面固定型のゲームを同一系列に扱うのは普通ではない

では『ゼビウス』の前身は何かというと、ゲームシステムは同じだけどリリースされなかった『シャイアン』というシューティングゲーム。もともとは自機がヘリコプターでベトナム戦争をテーマにしたゲームだったのだが、これがSFに変更されて『ゼビウス』になったわけだ(斯界の権威の参考図書によると背景のかなりの部分は『シャイアン』そのままらしい)。

それでは『シャイアン』は何をリファレンスにしたのかいうとコナミの『スクランブル』(1981)。
これはウィリアムズの『デフェンダー』とならんで、横スクロールシューティングを確立した不滅の作品で「『スクランブル』を縦スクロールにしようと企画されたゲームだった」なら、疑いもなくなるほど! になるのだけど(実際インタビューで、当時の開発スタッフはそのように語っている)、「『スペースインベーダー』の模倣作品のひとつでした」では「ハア?」と言いたくなろうというものだ。

というわけで『シャイアン』は『スクランブル』を縦スクロールにした企画で、そして『ゼビウス』と『シャイアン』はゲームの形式は同じだけどテーマが違ったという話だ。だから引用部分後半の「ゲームでも宇宙以外の世界観を描けるのではないかと考えました」というところは間違いということになる。

次に担当の話だが、遠藤さんは当たり前のことながらグラフィックは担当していない。メカなどのコンセプトデザインは遠山茂樹さん、ドットはミスタードットマンこと、小野浩さんだ。

プログラムも全て遠藤さんというわけではない。システム部分のコードは深谷氏が書いた「ジョブコン」と思われる(これには推測が入っているが1983年当時、遠藤さんは新人でナムコはジョブコンと呼ばれるシステムを標準として使うようになっていたのだから、基本的なインプリメントは深谷さんがやったものだと思う)。

これをなにもかも遠藤さんが一人でやったような記述は、遠藤さんにも、関わった他のスタッフにも失礼というものだろう。

ここらへんは「遠山茂樹インタビュー」や「Mr.ドットマン 全仕事」あたりを読んでいればわかることだし、さらに遠藤さん自身もあちこちでしゃべっているし、全くどうして筆者がこんなおかしな開発ストーリーを書いているのか、正直理解しかねる。

次に続く話

ところで書いておきたいのだけど、ここで1巻の半分前ぐらいで、実は『スペースインベーダー』と『パックマン』についても明らかにおかしな歴史が書かれていて本来は取り上げるべきだし、他にも取り上げるべきところがあるのだけど、そこを書くと、またドサっと増えてしまうし、延々長くなるので、とりあえずパート1ということで、自分が書きやすく、かつ目に余る所を(とりあえず)出すことにした。

当たり前だが、この批判記事は、自分の知識の再確認して、検索して少なくとも大きな間違いがないかを確認し、さらに相手のテキストを引用し、なぜ間違っているのを説明するのだから、全く手間がかかるテキストで、まるで割が合わないと言わざるを得ない(ただ、bingの新しいヤツに資料集めを言いつけると結構な精度で調べてくれるのは助かった)。

筆者がもうちょっと事実を調べて書いてくれれば、こんな苦労はしなくてすんだのにな…とボヤきながら、次に続くのである。

ところで次はファミコンの開発とサードパーティの話に入っていくのだけど、これがファミコンの設計者、上村先生の第一級の史料「ファミコンとその時代」を明らかに読んでおらず「社長に訊く」といった第一級の史料も調べていないうえに、ファミコンが上村先生の所属する第二開発部の主導で作られていたという基本的な事実関係を理解していないとしか思えないメチャメチャなことが書かれているトンデモ領域に入るのである。

正直、勘弁してほしいのだけど、誤りを指摘すると筆者は直してくれると宣言しているので、ここは頑張って、指摘していきたいと思う。

LinkedIn にシェア
Pocket