書籍「ゲームの歴史」について(2)
このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による『ゲームの歴史』の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。
該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。
例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので「自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない」とだけ書いておく。
なお、該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。
シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。
- 『ちょっとは正しいゲームの歴史』を国会図書館に納本しました
- ゲームレジェンド新刊『ちょっとは正しいゲームの歴史』できました
- 書籍「ゲームの歴史」について(12/終)
- 書籍「ゲームの歴史」について(11)
- 書籍「ゲームの歴史」について(10)
- 書籍「ゲームの歴史」について(9)
- 書籍「ゲームの歴史」について(8)
- 書籍「ゲームの歴史」について(7)
- 書籍「ゲームの歴史」について(6)
- サンクリの新刊
また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。
第5章 アタリショックとゲーム&ウオッチ
ところが、アタリVCSは売れませんでした。原因は、当時市場に競合ハードが多く存在し、ユーザーがどのハードを買えばいいか迷ってしまったことです。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p108) 講談社.Kindle版.
これは1977年のローンチの年だが、アタリVCSが売れなかった最大の理由は生産ラインにトラブルを抱えていたことだ。供給できなければ売れるわけもない。次に消費者がカートリッジ交換式のハードに慣れていなかったのが理由(と言われている)。
このあたりは下のリンクからたどれる様々なサイトを読んでいけばわかる。なお、英語版wikipediaは結構精度が高い記事が掲載されている。
https://www.gamedeveloper.com/business/atari-the-golden-years—-a-history-1978-1981
そこで「移植ソフト」として白羽の矢が立ったのは、日本のタイトーか1978年に発売して大ヒットを飛ばし、アメリカでも大ブレイクしていた『スペースインベーダー』でした。アタリ社は、同作のアタリVCS移植版を1980年に発売。すると、「あの『スペースインベーダー』が家でもできる!」という触れ込みにユーザーは飛びつき、アタリは売リ上げを急激に伸ばします。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p109) 講談社.Kindle版.
その後、ナムコの『パックマン』も移植され、アタリVCSはますます売れ行きを伸ばしました。なんと、日本人の作った2本のゲームが、アタリを救ったのです。
『スペースインベーダー』がATAR VCSのキラーアプリケーションなのは間違いない。またパックマンが売れたのも間違いない。
だが、全体としてはとても大きな問題のあるテキストなので、以下に問題を指摘したい。
まず、どうして『スペースインベーダー』を移植したのか?
1979年にアタリVCSは100万台を売るのだけど、ライバルとしてマグナボックスのOdyssey 2とマテルのインテレビジョンが登場する。
そこでライバルに勝つために、大ヒットした『スペースインベーダー』を移植したわけだ。
VCSの売り上げは77年に約40万台、78年は約60万台、79年に約100万台(統計により誤差がある)で、この年で計約200万台あり「ゲームの歴史」ではアタリVCSが売れ行き不振だから移植されたという文脈なのだけど、売れ行き不振だからではない(よかったわけでもないが、ミスリードと言っていい)。
なお、これは史上初の公式にライセンスを取ったアーケードからの移植なのだけど(アタリの自社ならあって当たり前なので)、全然それに触れていないのはどうなんだと思う。
それはともかく『インベーダー』は大ヒットして、1980年にアタリVCSは200万台を売り、圧倒的なナンバーワンとなり、会社の売り上げは実に4億1500万ドルの売り上げを叩き出し、営業利益も5倍になる。
だから『インベーダー』は疑いもなくキラーアプリケーションだ。
翌1981年はカートリッジのセールスが良かったこともあり、実に7億4000万ドルの売り上げを叩き出す。
そして1982年の春に『パックマン』が発売される。
確かに『パックマン』は数は売れたが、アタリが作り過ぎたせいで過剰在庫になり、しかも移植のクオリティが低く、消費者に強い失望感を与えて、82年冬のいわゆるアタリショックのトリガーとなったソフトの1つとまで酷評されている。
また『インベーダー』は80年で『パックマン』は82年。丸2年の間が空いての発売だ。
だから『パックマン』は『インベーダー』で圧倒的な売り上げを出し、アタリはワーナーの利益の大きな部分を叩き出す優良部門になって、市場の支配者となったあとの作品だ。
これのどこが「アタリを救ったソフト」なのだろうか?
「日本のゲームがアタリを救った」というテキストを書き、このあと延々とハッキング精神とやらに満ち溢れた日本のゲームを褒めるために事実を捻じ曲げたストーリーを書いてしまっては、厳しく批判されてもしょうがあるまい。
アタリ社はゲームショップと、「ソフトが売れなかったらアタリ社に返品してもよい」という契約を交わしていました。これは本来なら、アタリ社にとってはかなり不利な条件で、絶対に避けるべきなのですが、経営が傾きかけていたアタリ社は、この悪い条件に飛びついてしまったのです。おかげで、ゲームショップが大量に仕人れたものの売れなかった分の『E.T.』は、全てアタリ社が損をかぶる、ということになってしまいました。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p112) 講談社.Kindle版.
信じられないが、筆者はアメリカの商習慣を調べずに書いているとしか思えない。
アメリカでは販売店の力が強く(正確に最終的なカスタマーの力が強いと表現した方が良いが)、商品の返品が出来るのは当たり前だし、商品の値引き分はメーカーが被る商習慣がある。
つまり、不利も何も当たり前の話なのだ。
リンクは小売りに対するカスタマーの返品の話だが、小売りに返品されれば、そりゃあメーカーに返品されるのも当たり前だろうという話になる。
この返品のルールを”Return Policy”と呼び、業界ごとにある程度違うが、基本的に消費者はレシートがあればブツは返品可能だと思ってよい。だからこそ、僕の愛する映画「スパイダーバース」では、主人公のマイルズがスパイダーマンのコスチュームを買うときに返品の事を聞きかけたら、”NO REFUND”(返品不可)を指さすのが、ギャグになるのだ。
また、このストーリーにはもう一つ明らかにおかしいところがある。
このストーリーを文字通りに解釈すると「経営が傾きかけたアタリは不利な条件を飲んでE.T.を売った」という話になるが、そもそも「経営が傾きかけた」がおかしい。
前の項目で書いた通り、1980-81年のアタリは絶好調であり、その余勢をかって82年春に『パックマン』を800万本売ったあとだ(予想より在庫が残ったのは事実だが)。
だから経営が傾いているわけもない(ただしカートリッジの売れ行きが陰りだしていたのは気がついていて、減産指示を出していたと斯界の権威から教えていただいた)。
だから、この項目は信じられないが、筆者はアメリカの商習慣を調べずにこの文章を書き、なおかつアタリの経営状態についても間違いを書いたとしか思えない。
つまり、最初から最後までほぼ間違いのとんでもないテキストだ。
ところで、ではなぜいわゆるアタリショックの時、小売店は返品できないゲームを抱えたというような話があるのか? 理由は簡単だ。メーカーに現金がなければ返品してもお金は返ってこない。それなら返品して丸損するよりゴミのような価格でも売った方がマシだということになる。
つまり、いわゆるアタリショックで多数のメーカーが現金を枯渇させつぶれた結果、大量の不良在庫が出来上がったわけだ。
そしてこの不良在庫は二次災害を引き起こし、最終的には、僕の畏友、天才ゲームデザイナーにしてコンピュータジャーナリストのロー・アダムスによると「全ソフトメーカーの80%がつぶれた」という凄まじいクラッシュとなるのである。
しかし当時の人々にとって、これはものすごいインパクトがありました。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p119) 講談社.Kindle版.
というのも、この時代、電卓が小さくなっていたのは、すでにお馴染みのことでした。このころの電卓は、各社がしのぎを削っておリ、最終的には名刺サイズにまでなっていたため、電子回路もそれに比例して、かなり小さくなっていたのです。
そのことは誰もが知っていたのですが、しかしその小さな電子回路を使ってゲーム機を作るーーいや「作れる」ということは、誰も知りませんでした。想像すらしていなかったのです。
なにしろ、それまでのコンピューターゲームといえば、ゲームセンターの『スペースインベーダー』のようなテーブル型筺体か、テレビにつなぐ大きめの箱としてのテレピゲームでした。つまり、とても「大きい」のが当たリ前でした。
それが、手のひらに収まるほど「小さく」なるだなんて……考えられないことでした。
これは任天堂がゲーム&ウオッチの開発と発売をした時の話が書かれているのだが、正直、信じられないが、電卓のサイズの部分をのぞいて、ほぼ全て問題のある内容だ。
初期の携帯出来る小さな電子回路を持ったゲームマシンは、当時、「LSIゲーム」や「電子ゲーム」と呼ばれていた。
その最初はと言うと、1976年にアメリカでマテルが発売した『Mattel Auto Race』が世界初の携帯型電子ゲーム機とされている。そして同じくマテルが1977年に発売した『Mattel Football』はヒット商品になっていて、僕は裕福な友達が購入したこのゲームを遊んでいる(そしてものすごく憧れたが買ってもらえなかった)。
そして日本でも『スペースインベーダー』の大ヒットで1979年にバンダイの『ミサイルベーダー』やエポックの『デジコムベーダー』、学研の『インベーダー』や、さらにゲーセンで流行していたゲームを電子ゲームにしたものが多数発売され、LSIゲームブームがやってきて、大きな市場が出来上がる。
もちろん、これらは当時は液晶ではなく、FLやLEDを使う物で、またゲームセンターの筐体を模したものが多かったが、携帯可能で小さな電子回路を持っているものだったのだから、誰でも小さなゲームマシンを作れることを知っていたのだ。
そして、任天堂の開発を知る上での第一級の史料、ファミコンの設計者である上村先生による「ファミコンとその時代」の79ページあたりには、そのあたりの事情が記述されている。
要約すると、任天堂はLSIゲームへの参入が遅れて、儲からないと考えられたので、違うアプローチを模索し、大人をターゲットにしてゲーム&ウオッチを作るという話だ(そしてこれが思いもかけず、子供にまで売れて大ヒットになる)。
だから、ここに書かれているテキストは、電卓のサイズの部分をのぞいて本当におかしいわけだ。
おかげで、この成功を目の当たリにした他社もこぞって携帯型液晶ゲーム機の製造・販売に参人し、それらはやがて「電子ゲーム」「LSIゲーム」と呼ばれ、新たな市場を形成することになりました。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p121) 講談社.Kindle版.
このテキストは「携帯型液晶ゲーム機」に限定すれば正しい。というのもゲーム&ウオッチが発売された1980年にはまだ液晶型は主力ではなく、たったの3機種しかなく、これが1981年の後半になって主流になるからだ。
だが、LSIゲーム・電子ゲームの市場は前の項目で書いた通り、79年には既に確立していた。
任天堂が作った新しい市場に他が参入してきたような書き方は、完全な間違いではないがミスリードだ。
このあと山内社長と横井軍平氏を持ち上げるために、こう書いたのだろうが、事実を誤解させるようなテキストをわざわざ書く必要はどこにもないだろう。
ところで、上で書いたが、本書では、このあと如何に山内社長と横井軍平氏が凄いかだの、三すくみだのなんだのと、ゲームの歴史とはまるで関係のない自分の思いのたけを語る文章が延々続くのだけど、ゲーム&ウオッチの製作はもちろん横井軍平氏が主であったのは間違いないが、ハードの製作には岡田智氏が携り、またゲーム内容にはかなり多数(といっても10人は超えないが)が関わっている。
そういった絶対に必要だった人たちを無視して自分の勝手な思い入れを書くより、ゲーム&ウオッチのハードを開発する上で貢献があった岡田智氏、それとも様々なコンテンツを作った作者たちにページを割いて光を当てることが、いやしくも歴史を名乗る本を書く人間の責務ではなかろうか。
せっかく大半の関係者が御存命なのだ。それこそインタビューをして、その言葉と調査した事実を後世に残す方が、筆者の思いのたけよりよほど大事ではないかと僕は思う。それこそ「史観」ではあるだろうが、筆者は事実と作り手と作った物に対する敬意がなさすぎると感じたのは事実である。
以下の「社長が訊く」は、そのゲーム&ウオッチについての座談会だが、個人的には筆者のウンチクよりよほど大事で興味深くて、先人たちの努力が感じられる素晴らしい内容だと思う(そして横井軍平氏の凄さも感じられる)。
なお、ここで用いている「ゲームをデザインする」という言葉の意味には、基板を組み上げるとかプログラムするとかイラストや音楽を作るといったことにとどまらす、ゲーム全体の仕組み(世界観やルール)や成リ立ち(必要な要素や作リ方)を全体的に考えることーーというものも含まれています。このような役割は、後に「ゲームデザイン」と呼ばれるようになって、ひとつの役職として確立していきます。
岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p131) 講談社.Kindle版.
これは宮本さんが『ドンキーコング』を作った時のエピソードとして書かれているが、いろいろな問題のあるテキストだ。
まず、当たり前のことながらゲームデザインは英語では「ゲームを設計する」という意味なので、ゲームを作るときには普通に使われる単語だ(“Video Game Design”ならばビデオゲーム発祥以降)。
だから英語では今も昔も”video game designer”であり、「後にゲームデザインと呼ばれるようになって」などという話は全くない。
では日本では?
ゲームデザインという言葉は、遅くとも1982年には日本に輸入され、ボードゲームに興味のある人間の間では比較的一般化しつつあったと断言できる。
というのも、天才ウォーゲームデザイナー、ジェームズ・ダニガンが書いた”THE COMPLETE WARGAME HANDBOOK”(1980) / 邦題「ウォーゲームハンドブック」(1982/ホビージャパン)に、ゲームデザイナーとゲームデザインと言う言葉は間違いなく紹介されているのだ。
さらに、当時のウォーゲーム(ボードゲーム)には分厚い解説書がついているのが常で、そこにはあったりなかったりだったが、デザイナーズノートという一項があり、ゲームをデザインした人物が自ら、そのゲームの考え方、どのようにして事象を切り出したのかが書かれていることがごく当たり前にあった(そして僕はこのデザイナーズノートを読むのが大好きだった)。
言うまでもなく、デザイナーとはゲームデザイナーだ。
つまりアバロンヒルとSPIのボードゲーム(アバロンヒルの作品にはウォーゲーム以外も多かったのでこう表現する)が日本に日本語解説書付きで輸入されるようになってからあとは、少なくともゲームデザインという言葉はボードゲームに興味のある人たちには知られている言葉だったと言っていいだろう。
つまり、81年の『ドンキーコング』で宮本さんが果たした役割が、後にゲームデザインと呼ばれるようになって、役職として確立する、という話は日本だけに絞ってもかなり無理がある。
なんの注釈も書かずにいきなり書いてしまったので注。
アバロンヒルとSPIはどちらもボードゲームの老舗だ。SPIは倒産して久しく、アバロンヒルも解散して久しいが、その2社が作った様々なゲームのシステムとルールは、今のコンピュータゲームに未だ影響を与えていると言っても間違いではない。
自分の知識を広いとは思わないが、ありていに書かせてもらって、筆者の知識は極めて狭く偏っており、もう少しちゃんと全体を俯瞰できる知識を蓄えてから歴史を書くべきだったのではないのか? と批判もしたくなろうというものだ。
次に続く
本来はファミコンの項目まで書くはずだったが、5章の問題密度があまりに高かったために、残念ながら5章のみで力尽きてしまった。
108ページから始まって131ページまでのたったの20ページちょっとにこれだけの歴史的に見て明らかに問題のある部分が含まれているというのは、正直ちょっと信じがたいが、残念ながら事実だ。
しかも、これでも「えっ?」という程度の疑問は除いている。
例えばp109で《世界中のゲーム業界関係者の胸に刻まれました。「新しいハードを発売するときには、キラーソフト(このゲームをやるためなら、ハードを買ってもいいと思えるほど魅力的なゲーム)が絶対に必要だ」》と書かれているが、そもそもキラーソフト(キラーアプリケーション)と言う言葉が、最初に記録に残る形でテキストとして登場したのは1988年だ。
加えて80年に出た『スペースインベーダー』が売れてATARI VCSは大爆発したのは事実だが、だからといって78年に苦戦したVCSに対して、ゲーム業界関係者がそう思うのかと言ったら違うに決まっている。
結局、これは「起きたことを後から見てストーリーを作っているだけ」であって、しかも使っている言葉は1988年ごろに出来上がった言葉では説得力もなにもない。
また、その直後の文章で『ブッシュネルが解任されたのはアタリVCSの売り上げ不振のせい』と書かれているのだけど、ノーラン・ブッシュネルが会長職を解任されたのは事実だが、それはリーダーシップに問題があるということでの解任(製品の開発が理由)になっていて、ワーナー側からはそのあとディレクターの地位につかないかと提案されているのだけど、ブッシュネルはそれを拒否して辞めているのだ(経営者としてはダメだけどモノ作るところやってくれない? ってことだ)。
これを「VCSの売り上げ不振」という単純な言葉にまとめてしまうのは大いに疑問がある。
また、p128では《当時の任天堂は、アメリカに現地法人を持っていましたが、そこで作った『レーダースコープ』というアーケードゲーム(ちなみに、これも『スペースインベーダー』の模倣作です)》と書かれているが、『レーダースコープ』はスプライトを使ったハードウェアで『ギャラクシアン』の影響を強く受けている(「ファミコンとその時代」に明白に書かれている)。
シューティングを全部「インベーダーの模倣品」にする、この乱暴さは正直、自分としては、全く納得いかない。
こんな風に「事実に照らして間違いとまでは言わないが、どうにも筆者の創作がすぎるだろう」というところは、この本のいたるところに散在しており、これをいちいち指摘していると、もはやキリがないと言っていいレベルだ。
そして、この誤り密度&「エー」密度はほとんど下がらないどころか、上がりながら、次の第6章、ファミコン・ドラクエ・RPGの話に続くのである。
なお、このテキストは批判している「ゲームの歴史」よりは事実に近いと思うが、僕も浅学非才の身であり、また残念ながらその時、その場に立ってみていたわけでもないし、資料が完全に揃っているわけでもない。もちろん勘違いによる間違いもあるだろう。だから。これを真実だ、などと思わないで欲しい。
ただ、この文が、興味を持った人が、より深く調査する一助となれば幸いである。