Sさんと藤子不二雄先生のこと
twitterで雑にツイートしたのだけど、ツイッターではちゃんと伝わらないことが多いので記事にしておくことにした。
僕の人生で「この人こそ自分の師である」と断言できる方が何人かいるのだけど、その中の一人で僕の人生に決定的な影響を及ぼした人にSさんという人がいる。
このSさんの事は同人誌『30年目の凄ノ王伝説』でちょっと書いたのだけど、ここに違うエピソードを一つ残しておきたい。
僕が1984年の終わりに家をおんでて入った会社は、いわばCGベンチャーで漫画家の御厨さと美先生がCGやりたくて起こした会社だった。
この会社が紆余曲折があってCD-iと繋がっていくのだけど、ともかく漫画家先生の会社だったので母体として編集プロダクション(編プロ)があった。
だから編プロ+CG会社という謎の構成になっていた。
そして編プロの方はBEEPと繋がり、僕にライターへの道を拓いてくれるのだけど、この編プロダクションの一角に居候をしていたのがSさん。
Sさんはその編プロではファミコンの攻略本を作ったり、さらにYATATA WARSの編集もやったりしていた。
その絡みで僕はライターのてにをはを教えてもらったし「ゲームを紹介するときの心構え」のようなものも教えてもらった。
僕にとってはライターのまさに先生だったわけだ。
そしてしばらくファミコン関係の本のノウハウを積んだ後、Sさんはマル勝ファミコンの立ち上げ企画を角川メディアオフィス(KMO)に持ち込み、マル勝ファミコンを始めた。
だからSさん絡みで僕もKMOでもライターの仕事を始めることになったし、佐藤辰男さんがハドソンと仲が良くて「ゲーム作れる人いない?」ってSさんに聞いたとき、Sさんは僕を推薦してくれた。
つまりSさんは僕をゲームのプロにする道を拓いてくれた方であり、ライターのてにをはを教えてくれた方でもある。
これを師であり恩人であると言わずしてなんというのかと書いておきたいが、反面、Sさんは当時のまたある意味乱暴な時代の人でもあるので、酒の席とかで、かなりぶっ飛んだ逸話があることも書いておきたい。
要は聖人君子ではなかったよって話だ。
では、Sさんは居候をする前には、どこにいた人だったのか?
実は小学館で「小学?年生」の編集をやっていた人だった(ついでに書くと超偉い人だった)。
そのSさんがある日、本当にふっと僕にしゃべりだした。
藤子不二雄の藤本さん(とSさんは言った。以降、F先生と書きたい)は若いころに大病を患って、全く仕事をできない時期があったんだけど、その時、安孫子さん(同じくSさんはこう言った。以降A先生と書きたい)が何一つ文句を言わず、F先生の仕事まで全部やったんだよね。
F先生はそれを一生の恩だと思っているんだよ。
F先生が『ドラえもん』をヒットさせて、A先生の方がイマイチな時でも、F先生が「藤子不二雄は二人で一人でコンビなんだ」と言い続けた理由はそこにあるんだよね。
これはSさん「小学?年生」の編集をやっていたときF先生から直接聞いた話なので、ここに書いたのはほぼ一次情報と言っていいと思う。
まあ僕がとんでもないマンガ読みで本読みだったのを見ていたのでしゃべったのだと思うのだけど、僕はF先生の乾いた視点(SFの短編集が大好きだった)も、A先生のある種ドロドロした作品もどっちも好きだったので、とても面白くその話を聞いた。
他にもF先生とA先生の話はイロイロ聞いたのだけど、Sさんは個人的な話だからしゃべったのだと思うので伏せておきたい。
さて、どうしてこんな話を書いたのかというと、実はtwitterで僕のところに漫画のヒトコマを引用したツイートが流れてきたからだ。
ここでA先生は露悪的に「二人の共有の貯金通帳からなけなしのお金をおろして遊びに行った」と言っているのだけど、本当はF先生が倒れている間、ずっとF先生の分まで仕事をしていたわけだ。
だから、このセリフは間違いなくただの照れ隠しなわけである。
ところでSさんがF先生の話をしてくれたのは、僕が下のシリーズを読んでいたからだったような気がするのだけど、さすがに30年以上も前の話で記憶がおぼろなので自信はないのだった。
完全版だというので嬉しくて思わず全部買いなおしてしまったよ。