書籍「ゲームの歴史」について(3)

このテキストは岩崎夏海・稲田豊史両氏による『ゲームの歴史』の1、2、3の中で、ゲームの歴史的に見て問題があり、かつ僕が指摘できるところについて記述していくテキストだ。

該当の本は、ハッキング・箱庭・オープンワールド・疑似3D・2Dなどの通常のゲーム&コンピュータ用語に筆者の独自解釈が含まれていて、それを筆者の都合に応じて定義をいじりながら論を展開するために、極めて独特の内容になっている。

例えば3D描画で背景をテクスチャで埋めると3D+2Dの疑似3Dになると言われたら、普通のゲーム屋なら目を白黒させるだろう。ただ、それは筆者の主張なので「自分はそこは批判はしないが、筆者の見方には全く同意できない」とだけ書いておく。

なお、該当の本の引用部は読みやすさを考慮してスクリーンショットからonenoteのOCRで文字の書きだしをしたものを僕が修正したものになっている。なので校正ミスで本文と若干ずれたり、誤植がある場合があるかも知れないが、そこは指摘いただければ謹んで修正させていただく。

シリーズは以下のリンクを読んでいただきたい。

また、このテキストの引用元になった本は2023/2/6 に購入したkindle版である。

第6章 ファミコンの誕生と『スーパーマリオ革命』

ファミコンのハック思想

例えば、ファミコンのコントローラーは、当時のテレビゲーム機で主流だったジョイスティック型(中略)垂直に立ち上がったスティック型ではなく、十字キー型としました。このほうが部品の数が少なく、安く作れるからです。なお、この十字キーを考案したのは横井軍平でした。
十字キーではなく、上・下・左・右と4つの独立したキーを埋め込む方法もありましたが、それだと部品が4つになって製造コストが上がってしまうので、やはリ部品がひとつで済む十字キーのほうが良かったわけです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p132) 講談社.Kindle版.

まず十字キーではなく十字ボタン。任天堂の公式の表記ではそうだ。
ゲームの歴史を名乗るなら最初に書くときぐらいは公式の名称を使うべきだろう。

ところでこの十字ボタンの採用については値段が安いと言うのは間違っていないだろうが、どうして採用したのかについては、当時の任天堂の第二開発(アーケードゲーム部門だった)のトップを務め、なおかつファミコンの設計者である上村先生の「ファミコンとその時代」のp103から詳しく書かれている。
以下はその理由である。

  • アメリカと違い家が狭い
  • テレビが置かれているところはリビングであり、家族団らんの間である。幼児もいる。
    (注:当時はテレビは一家に1台と考えてよい。家のテレビが複数になり始めるのは80年代後半である)
  • そこにスティックがあるコントローラを置くと、足で踏んで壊れる可能性がある。
  • 最悪ケースは怪我をする可能性もある。
  • ドンキーコングのコントローラを改造してテストしたら手元を見なくても十分にコントロールできた。

だから採用したという話で、そこには一切コストの話はない。ファミコンというハードウェアのコストの厳しさを考えたとき、もちろんコストは大事だったろうが、それが最優先ではなく、上記理由があったわけだ。

また十字ボタンを考案したのは横井軍平氏なのは確かだが、日経XTECHの「ファミコンの誕生」にファミコンに採用したときの経緯は、ゲーム&ウオッチの手伝いで第一開発に駆り出されていた沢野氏が十字ボタンの扱いに慣れていたことから「スティックを止めて、十字ボタンを採用しよう」と提案し、実際にその場でドンキーコングのコントローラから線を引っ張り出して接続してテストして、最初は疑ったが全員が納得したという形のエピソードで収録されている。
つまり、安いから採用したなどという粗雑な判断は全く行われていない。

加えて書くと、ファミコンの筐体のデザインは第一開発部(横井軍平氏が部長)で行われているが、最初にデザインが戻ってきたときはジョイスティックのままで、十字ボタンを採用したのはそのあとだと、上村先生は証言している。
つまり十字ボタンを直接的に採用するきっかけになったのは沢野氏である。

だいたい普通に考えれば、筐体デザインが第一開発になったからといって、そのデザインをするときにいきなりジョイスティックから十字ボタンに取り換えるわけもない。つまり横井軍平氏が十字ボタンを作ったのは間違いないが、採用は第二開発主導で行われたと考えるのが妥当だ。

なおインタビューでは、面白おかしく語るためだろう、筐体のデザインをとられたという表現をされているが、「ファミコンとその時代」ではプラスチックの加工に第二開発が慣れていなかったので第一開発が行ったと書かれている。第二開発がやっていたのは主にアーケードや回路の開発だったので、そりゃあ慣れていないだろうという話だ。

なお引用部の後半に書かれている4つの独立したキーという話は、自分が調べた限りでは全く見つけられなかった。上村先生はジョイスティックから抜け出すことが出来ず、複数のジョイスティックをテストして「踏んで壊れる」といった問題に苦労していたという話がいくつかあるだけだ。

左右ボタンならまだしも、上下左右が全部分離型のボタンはアーケードでもほぼ存在せず(『ヴァンガード』などアーケード初期にわずかにある程度)、僕は採用を検討したというソースを見つけることも出来なかった。
どこに、その独立ボタンのソースがあるのか大変に興味があるのでぜひ知りたいと思う。

ブロック編集時に事故って消したっぽい部分を追記😅
なお横井軍平さんの自伝「横井軍平ゲーム館」には「第二開発からコストが下がらないからどうしたいいと思う?」と相談が来たので「十字ボタンを乗せちゃえ」と言ったというエピソードが掲載されているのだが、僕はXTECH の話が非常に説得力があることと、ゲーム館の前後のストーリーから「筐体をデザインしてエジェクタをつけた」ところまでは間違いなく横井軍平さんだが、コストが下がらない相談は記憶違い、もしくはあったかもしれないが、採用を決定づける話ではなかったと判断している。

また、コントローラーが本体に直付け(取り外せない)仕様なのは、取り外し可能のコネクタ仕様にしてしまうと、そのぶん部品点数が増え、これまた高くついてしまうからです。実際、取り外せなくてもゲームのプレイに支障はないので、直付けでも問題はありません。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p133) 講談社.Kindle版.

前半は問題ないが、後半には大いに問題がある。
コントローラが直付けだと、当たり前だがコントローラが故障すると本体丸ごと修理になる。そして初期は四角ボタンで、そのあとも過酷な使用でコントローラの故障が続出してしまうのだ。
(誤解していた人がいるので追記。基板に直付けは基板についているコネクタで直接つないでいて、表に出る形にはなっていない、ということ。分解して基板を見える形にする必要がある、という意味だ)

「社長が訊く」ではコントローラケーブルの断線・コントローラそのものの故障で任天堂が故障したファミコンが任天堂にあふれかえった、という話をされている。

社長が訊く「スーパーマリオ25周年」
社長が訊く「スーパーマリオ25周年」 www.nintendo.co.jp
社長が訊く「スーパーマリオ25周年」

また、以下はコントローラの故障についての上村先生の証言である。

あとコントローラについては、故障したときに簡単に交換できないことも問題になりました。
「どうして、簡単に交換できるコネクターで接続しなかったんだ」とずっと言われ続けたんです。

上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(後編)(2013年10月号より) – Nintendo DREAM WEB (ndw.jp)

なお、ここでは上村先生の証言のみを抜き出しているが、とても面白い記事なので一読されることをお勧めしておく。若干のブレはあるが「ファミコンとその時代」と内容は重なっている。

これを直付けでも問題ない、というセリフはかなりずれていると僕は思う。
僕なら「直付けでも問題はないと考えられたが、その後、実際に販売されると、故障が続出して任天堂は大変な目に会うことになる」と書くところだろうか。

さらに、ファミコンの外装は白と赤(えんじ色)のプラスチックでしたが、これはプラスチックの中で最も価格の安かったのが、この2色だったからです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p133) 講談社.Kindle版.

これは伝説もいいところで、そして設計者の上村先生によって完全に否定されている。
以下は上村先生の証言である。

この赤は、前社長(山内社長)が「この色や」と決めたんです。「赤ですか?」と聞いたら、「いや、普通の赤やない」と言われて。「この色や」と渡されたのが自分のマフラーやったんです。

上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(後編)(2013年10月号より) – Nintendo DREAM WEB (ndw.jp)

また日経XTECHの「ゲーム産業、イノベーションのルーツを探る」でも以下のように記述されている。

社長の山内は、本体の色にもこだわった。上村が社長と車で同行したときのことである。名神高速道路の西宮インターチェンジを降りたところで、あの色がいいといって山内が指さした。その先にはアンテナ・メーカのDXアンテナの赤い看板が立っていた。
その翌日、社長は自分のマフラを上村の席まで持ってきて、この色がいいともちかけた。ファミコン本体の色の候補は、それまでに白と黒の組み合わせ、黒一色、青などさまざまな案があったが、山内の意見通り、本体は赤を基調とすることに決まった。

ファミコン誕生、家庭用ゲーム機の代名詞に(5ページ目) | 日経クロステック(xTECH) (nikkei.com)

また、これ以外にも2013年のプレイボーイのインタビューで同じく上村先生は以下のように回答している。

それは間違いですね(笑)。むしろ逆で、最初に予定していた安いスチール製のボディがあまりにも脆かったので、強度の高いプラスチックに変更したくらいですから。えんじ色にした理由は、単純に社長命令だったんですよ。社長がよく巻いていたマフラーの色もあんな感じのえんじ色で、好きな色だからという理由。社長からするとボディのデザイン面は口が出しやすいわけですよ。それが真実です(笑)

明らかにこの文章は全くのデタラメであると断言して構わないだろう。

この色の伝説がどこから出てきたのかはわからないが、少なくともある程度参考になりそうな資料が一つ残っている。
1995年に出版された、直接上村先生にインタビューを行っていない「100 の技術者魂 第 1 巻」に以下のように書かれている。

「またコスト削減のため、筐体の色が赤と白になったのはその色のプラスチックが最も安かったからでした。」

以下は、出典の抜粋のリンクである。

トップページ | 日鉄テクノロジーカーボンニュートラル関連分野に先駆的に取り組んできた日鉄テクノロジーは、材料評価から計測検査、環境分析、省エネルギーに至る各分野の技術を複合したソリューションが提供可能です。これまでの実績と知見をもとに、カーボンニュートラル社会の実現を、これからも力強く支えていきます。
トップページ | 日鉄テクノロジー www.nstec.nipponsteel.com
トップページ | 日鉄テクノロジー

あと情報によると「新・電子立国」でそのように放映されたという話があり、そこらへんが伝説の理由になったのではないかと思われる。

ところで、XTECHの記事は現在でもアクセス可能だし、もともとは日経エンタテイメントに掲載されていた記事でweb archiveでもアクセス可能だ。さらにニンテンドードリームのインタビューはもちろん今でもアクセス可能で、そのまま読むことが出来る。
原本を簡単に読めないのは2013年のプレイボーイのインタビューだけだ。
すなわち、筆者はその程度の調査すらせず、この一文を書いたのは明らかであり、全く事実と作り手に対して敬意のない文章だと僕は厳しく批判したい。

ファミコンの拡張性と箱庭性

もうひとつ、ファミコンの性能の高さを示すものがありました。拡張性の高さです。
「拡張性」とは「いろいろなことができる可能性を秘めている」ということ。例えば、ファミコン本体には「15ピン拡張コネクタ」という周辺機器を接続できるコネクタがついていました。ここにはさまざまな別売りのコントローラー、キーポード、光線銃などを挿すことができたので、開発できるゲームの幅を大いに広げました。
ここで言う「周辺機器」には、ファミコン発売時点では想定されていない、後になって開発されるかもしれないさまざまな機器ーーが含まれています。つまりファミコンは、今はまだ影も形もないものまでつなげられるよう、「拡張性の高さ」という可能性の窓を、最初から少しだけ広くしておいたのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p134) 講談社.Kindle版.

拡張端子が拡張性を担保出来たのは事実だが拡張端子がついた理由は違う。

ファミコンの開発が始まった1982年ころは、アメリカではキーボードがついて、家でゲームが出来て、プログラムの勉強が出来て、そしてちょっとした家計簿をつけたり、それともワープロにもなるようなホームコンピュータと呼ばれるジャンルがもてはやされるようになっていた。

そしてまた日本もパソコンブームであり「コンピュータと言えばキーボードがついてBASICが動くのが当たり前」のもので、やはり次の時代はホームコンピュータだと思われていた。
だから、例えば1982年にトミーから発売された『ぴゅう太』はキーボードがついてBASICを搭載していたし、松下のJRシリーズもそうだったし、ファミコンと直接競争をすることになったMSXもそうだ。

セガのSC-3000/SG-1000はどうした! って文句言っている人がいたので追加しておきます。これ言い出すと、バンダイのRX-78とか、ソード&タカラのM5とか、もういくらでも並べることになるので、こんな感じで、いっぱいあったんだ! と思っていただきたいw

ところがファミコンは1万円以下という方針だったので、とてもキーボードを付ける余裕はなかった(当時はキーボードはとてもコストの高いハードウェアで付けるだけで価格が1万円ぐらいは上がってしまうものなのも事実だった)。
そこでキーボードとBASICを別売にして後から売り「それをアナウンスする」と決定する。要はファミコンもホームコンピュータですよという主張を出来るようにしたわけだ。
今から見ると笑い話のような話だが、当時を知る僕は「キーボードがついてないコンピュータなんてオモチャじゃん」という感覚は良く分かるし、実際に「ファミコンとその時代」でもマスコミや業界誌から「どうして最初からつけないんだ?」という質問が多数あったと書かれている。

そしてこのBASICを請け負ったのがハドソンで、これが1983年初頭。ファミコンの本格的な開発がスタートしたのが1982年6月とされているので、ファミコンの開発が始まって半年ほどでハドソンにやってきたことになり、82年末までどうするのか決まらなかったのだろうなとわかる。

ところがキーボードをあとから繋ぐためにはそのポートが必要だ。
だから拡張コネクタが必要になったわけだ。
そしてどうせ拡張コネクタをつけるならと、キーボードだけでなくコントローラや色々な物を繋げるように設計したわけである。
つまり「影も形もないもの」などではなく、明快にこういうものを繋げるようにしようと想定して設計されたインターフェースだったわけだ。

また、ファミコンにはコントローラーが最初から2つついていましたが、最低限のゲームをするならひとつでも十分のはずです。2人でやりたかったら、もうひとつコントローラーを買えばいい。実際、そういうゲーム機は今でもあります。
しかし「問答無用で最初から2つある」ことによって、ゲームの可能性が格段に広がりはしないでしようか? もしあなたがゲーム開発者だったとして、2人でプレイするにはコントローラーをもうひとつ買わなければいけないゲーム機と、最初からコントローラーが2つついているゲーム機だったら、どちらのほうがよりゲーム制作の自由度が高いと感じるでしようか? 当然、後者ですよね。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p135) 講談社.Kindle版.

拡張コネクタの次の文節で、2つコントローラを付けている判断を賛美した内容だが、これまた大いに疑問のなる内容だ。

まずコネクタをつけてコントローラを取り外し可能にするかの議論があったが、コネクタをつけると、コントローラのコネクタと本体のコネクタの2つの部品が追加されることになるので、結局コネクタはコストが理由で取りやめになる。つまりコントローラは直付けが前提だ。

なお、日経XTECHの記事で、ファミコンの中をコントローラのケーブルが前から後ろに回す構造になっているが、これは最後の最後までコネクタをフロント側に付けようとした名残だと書かれている。

これを前提としたうえで、上村先生の著書「ファミコンとその時代」で明快に理由が書かれている。
理由は以下。

2つつけるかは議論があったが、アーケードで協力型のゲームが登場していた・家庭用では二人でプレイすることが想定出来た。故にコスト高を押して2つのコントローラを実装した。

とても分かりやすい。

また上村先生はアーケードの協力型ゲームと書いているが、これはほぼ間違いなく『マリオブラザーズ』の事だ。『マリオブラザーズ』は1983年の登場なのだから、上村先生がファミコンを開発していた真横で宮本さんが開発をしていたことになり、当然移植が前提になるだろう(実際に83年9月に発売されている)。
なので、この作品と、そして開発が進んでいたであろう『ベースボール』(当然対戦が考えられる)によって、コスト高になろうともコントローラを2つつけるという判断に至ったというのはとてもありそうな話だ。

ただ、これについては上村先生はニンテンドードリームでは少し別の話もされている。

ええ。それで僕のところに戻ってきたときには、2つのコントローラが付いていたんです。でも、まだその時点ではジョイスティックだったんですけどね。そこで僕の方で十字ボタンを採用することに決めました。

上村雅之さん 大いに語る。 ファミリーコンピュータ インタビュー(後編)(2013年10月号より) – Nintendo DREAM WEB (ndw.jp)

で、この2つの話を総合するに、実は以下のような流れだったのではないか、と僕は想像している。

  1. コントローラは1個、本体についている状態で開発が進む。
  2. 山内社長にダメ出しをされる。
  3. プラスチックに慣れていないこともあり、デザインが第一開発にいったん移動
  4. コントローラを2つにしろとの命令が第一開発にでる(この想像はあとで説明する)。
  5. デザインがコントローラ2つになって第二開発に戻ってくる。
  6. コントローラを2つコネクタ形式で実装するためにいろいろするが、どうしてもコスト問題をクリアできずに、コネクタを諦めて、直付けになる。

明快に書いておくがコントローラを2つにしろという命令が出たというのは想像だ。

以下にそう思った理由を示したい。

なぜならコントローラ1個なら、いくら十字ボタンが低価格だろうが、コネクタを付けたところで2個よりは安いだろう。言い換えるならコントローラ2個は事実上必須のオーダーだったのだろうと考えられる。
ここで、先ほどの上村先生の証言に戻ると「横井軍平氏のところにデザインが行って、戻ってきたら、2個になっていた」と証言されている。
いくらなんでも横井軍平氏が勝手にコントローラを2個に増やすわけはない。そう考えると2個はオーダーとして必須、2個標準でなければならないというオーダーがあったと考える方が自然だ。

そう考えると、XTECHにあった「最後の最後までコントローラのコネクタを搭載しようとした名残が本体の中を這いまわるケーブルである」という話と合致する。

故に上は推測であるが、様々な事実によく符合するので、正しいのではないかなと思っているわけだ。
なお社長にダメ出しをされたときに、一緒にコントローラは2個にしろと命令されて、第一開発にデザインが行ったという可能性もある。

いずれにしても任天堂はコントローラを2つにすると決めた後、強く2つ使うことを意識していたのは間違いない。
2人プレイ可能なゲームを並べると『五目ならべ 連珠(83/8)』、『マリオブラザース(83/9)』、『ベースボール(83/12)』、『テニス(84/1)』、『アーバンチャンピオン(84/11)』と、初期作品から意識して2人プレイが用意されており、任天堂は「2つついていること」をユーザーにメリットと感じてもらおうと明らかに努力している。
自由性などというフワっとした話ではないのは疑いもない。

ところで、この本ではまともにゲームタイトルが出てこないので、ここで書いておくが、ファミコンの『テニス』は以降のあらゆるテニスゲームに決定的な影響を与えている作品だ。その操作は今にいたるまで影響として残されており、僕は『ベースボール』より影響が大きいのではないかと思うほどだ。
このゲームを無視して『ベースボール』を語るというのは、自分にはかなり偏った考え方だと感じられる。

また、ファミコンの2つ目のコントローラーにはマイク機能がついていました。一体何に使うのか分からない機能でしたし、実際、発売されたゲームの中でマイク機能を活用したものは、ほんのわずかしかありませんでした。
しかし「マイク機能で一体何ができるんだろう?」というワクワクする気持ちを、開発者やプレイヤーに感じさせたことは間違いないでしよう。一見して使い道がないもの、無駄と思えるものにこそ、人は面白味や「自分なりの使い方を考えてみよう」という参加意欲、ハッキング精神を見出します。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p135) 講談社.Kindle版.

ハッキング精神を見出すか否かはともかく、まず「ファミコンとその時代」では「カラオケのような遊び方を想定してつけた」と書かれている。

次に、日経XTECHでは「二つ目のコントローラにマイクロフォンを付けようと言い出したのは上村自身だった。テレビ受像機から自分の声が出るだけで面白いに違いないという思いつきだった。ただし、実際にはあまり利用されなかった」と記述されている。

ファミコンのマイクについて、ちゃんとした資料と呼べるものはこの2つしかなかったが、「カラオケのような遊びかたを想定した」、当時は「テレビから自分の声が出るだけで面白いと感じられるだろう」と思った(当時を考えれば確かにわかる)という話だ。

筆者はもう少し資料を調べてから書かれてはいかがか、と僕は感じた。

アーケードは「緊張感」、家庭用は「だらだら」

先ほど述べたように、ファミコンは「アーケードのヒット作『ドンキーコング』が家でも遊べる」ようなテレビゲーム機として設計されました。同作はファミコン本体と同時発売されましたが、同じく同発だった『ドンキーコングJr.』や『ポパイ』も、アーケード作品の移植。ファミコン発売の2カ月後に発売された『マリオブラザーズ』も、やっぱりアーケードからの移植。1984年11月にファミコン版が発売されたナムコの『ゼビウス』も、前述のようにアーケードの大ヒット作です。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p136) 講談社.Kindle版.

こうして書かれると、いかにもアーケードからの移植作品が大半のように思えるが現実は違う。

発売日タイトル
1983/7/15ドンキーコング, ドンキーコングJR., ポパイ
1983/8/27*五目ならべ 連珠, *麻雀
1983/9/9マリオブラザーズ
1983/11/22*ポパイの英語遊び
1983/12/7*ベースボール
1983/12/12*ドンキーコングJR.の算数遊び
1984/1/14*テニス
1984/2/2*ピンボール
1984/2/18*ワイルドガンマン
1984/4/21*ダックハント
1984/5/1*ゴルフ
1984/6/12*ホーガンズアレイ
1984/6/21*ファミリーベーシック
1984/7/4ドンキーコング3
1984/7/20ロードランナー(ハドソン), ナッツ&ミルク(ハドソン)
1984/9/7ギャラクシアン(ナムコ)
1984/10/5*デビルワールド
1984/11/2パックマン(ナムコ), *4人打ち麻雀, *F1レース
1984/11/8ゼビウス(ナムコ)

1983年から1984年の『ゼビウス』の発売までに並ぶタイトルは25本。うち、アーケードではないファミコンオリジナルのタイトル(*がつけてある)はサードパーティのハドソンとナムコを除いて15タイトル。任天堂タイトル20本のうち15本が家庭用オリジナル。つまり75%がファミコンオリジナルでアーケードではない。
(ただしVS筐体でアーケードに逆移植された作品はある)

自分にとって都合のいい論を語ろうとするために、発売リストを無視するのはおおいに問題のある態度だと僕は思う。

そんな中、任天堂は予期せぬ成功に直面します。鳴り物入りで発売した『ドンキーコング』の売り上げ88万本だったのに対し、ファミコンオリジナル作品として発売した『ベースボール』という野球ゲーム(1983年12月発売) の売り上げが235万本と、3倍近くにも達したのです。
(糸井重里氏が夢中になったエピソードが挟まれているので中略)
こうした反響を目の当たりにして、任天堂は「なぜこれほどまでに『ベースボール』が人気なのか?」ということを考えました。そして、アーケードゲームと家庭用ゲームの根本的な違いに気づいたのです。

岩崎夏海;稲田豊史.ゲームの歴史1(p136) 講談社.Kindle版.

売り上げ自体は間違っていないが、ものすごく問題のあるテキストだ。

なぜなら、この『ベースボール』の売り上げはファミコンソフト販売期間全ての累計だからだ。

初代ファミコンが発売された1983年、ファミコンはチップの歩留まりが悪いのが理由で本体の供給に苦しんでおり、しかもここで取り上げられた当の『ベースボール』で熱の問題から本体にトラブルが続出し、1983年の12月についに本体の出荷を停止し、本体を回収するという騒ぎになっている。
そして、この時のファミコン本体の販売台数は約40万台。
上村先生は、後に、この時のことを思い出して、1年目のクリスマス商戦でこんなことになったので「ファミコンは終わったと思った」と述べているほどだ。
それが再出荷を始めるとまた売れ始め、100万台を超えるのが1984年の春を過ぎてから。
そして7月にハドソンが初のサードパーティとして参入し、さらに調子が良くなってきたところに、1984年10月末に『ゼビウス』が発売され、一気に100万本を超えて、ファミコンブームは過熱していく、とそういう流れだ。

だから、1984年の春までに『ベースボール』が235万本も売れるわけがない。
それどころか装着率(ハードに対するソフトの売り上げ)が100%だったという常軌を逸した仮定をしても100万本が上限だ(ついでに書いておくとこの比率は初期のソフトやバンドルをのぞけば、どれだけスゴいソフトでも30%前後だ)。

つまり3倍も売り上げが出たから気がついたなんてことがあるわけもない。筆者は自分の主張のために余りに都合よく事実を捻じ曲げすぎだろう。

そして、この後に書かれているテキストは全てこの都合よく捻じ曲げたストーリーをベースにしたものだ。しかも全くゲームの歴史とは関係ないと言っていい内容だ。
筆者は猛省をするべきではなかろうか。

次に続く話

読んでわかっているだろうが、このテキストはなんと「ゲームの歴史」のp132-136のたったの4ページに対する批判だ。
あまりに問題が多いので、章単位ではなく節単位で扱わないとどうしようもないレベルで、このような構成を取らざるを得なかった。

正直な話として、この本のファミコンの項目は信じられないほど粗雑で「ファミコンの開発は当時ヒマになっていた任天堂第二開発の上村先生の主導の下で行われた」という、ごく当たり前の事実すら押さえずに書いているのではないかと思われるほどだ(少なくとも主要参考文献に「ファミコンとその時代」はなく、本書には上村雅之という名はどこにも出てこない)。

また、アーケードと家庭用の話にしても『ゼビウス』までゲームを飛ばして途中のファミコンオリジナルなゲームを一切無視し、『ベースボール』の売り上げを累計でとって3倍というなど、筆者はあまりに歴史と事実を無視しし過ぎだろう。

筆者は「自分の史観が」とかいう前に、まずちゃんと資料を集め、精読し、整理して、事実はどのようなものだったのかを探るところから始めるべきだったのではなかろうか。

あと、カバーに使った画像はいくら調べても山内社長がそのようなことをいった、もしくはそれに近い指示をしたというようなソースが全く見つからなかった箇所だ。
筆者は多角的に検討したらしいので、この引用した画像部分のソースをぜひ教えていただきたいと思っている。

恐ろしいことに、この項目はまだ続く。多分だが、あと2回ぐらいは続く。

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10件のコメント

  • >左右ボタンならまだしも、上下左右が全部分離型のボタンはアーケードでもほぼ存在せず
    ゲーム&ウォッチのドンキーコングJr.が4つ独立してました。あの押し心地は結構好きでしたよw

    • 多分記憶違いですw
      ゲーム&ウオッチのドンキーコングこそが、十字ボタンを初めて採用したゲームですw

      • 津山人さんの仰ってるのは、書いてあるとおり「ドンキーコングJr.」のことなので、方向ボタンが上下左右分割した4つのボタンで合ってますね。
        岩崎さんの仰るマルチスクリーンの「ドンキーコング」は、確かに十字ボタンを採用してましたね。
        あれは非常に目からウロコでした!!

        • わーお!!! 見間違ってた(;´∀`)

    • JRを見落としてましたw

  • 津山人さんは「ドンキーコングJr.」と書いているので、正解ですね。あれは方向ボタンがそれぞれ独立していました。
    そして、マルチスクリーンの「ドンキーコング」は確かに十字ボタンでしたね。

  • いつも楽しく拝見させて頂いています。

    気になった点がありましたので、一応お知らせしておきます。
    手元に横井軍平さんのロングインタビューをまとめた
    「横井軍平ゲーム館」という本があるのですが、そちらでは

    (以下引用)

    ファミコンを開発していた部署(開発第二部)がコストを下げるには
    どうしたらいいんだろうと話を持ってきたので
    「ファミコンにもこの十字キーを乗せてしまえ」と提案しました。

    (中略)

    「1万円を切るために、ちょっとでも安くしたいので、ファミコンの筐体、
    コントローラを考えてくれ」という依頼が私のところに来たんです。
    で、いかに安く作るかということを頭において作ったデザインがファミコンなんですね。

    (引用終わり)

    とありますので、横井さんからの視点だと、コスト面もあったのかなと思われます。
    十字キーという呼び方も、横井さんが良くされているようです。
    (こちらの本でも正式名称は十字ボタンとあります)

    この辺りの歴史は横井さんと上村さんの話がちょっと辻褄が合わない所が、
    以前から謎に思っておりました。
    どちらかが盛って話しているのか、記憶違いか。。

    以上、参考情報でした。

    • そこはWP編集時にブロックをぶっ飛ばしてしまったのを、今では付け足しましたので、書いてあるのですが僕の推測である、というのを前提に。
      1)ファミコン筐体を横井さん率いる、第一開発がやったのは間違いない。またエジェクトも横井さんの仕事
      2)横井さんは多分「十字ボタンを使ったら?」と言ったことはあると思う。
      3)それが上村先生の頭に残っていた可能性はある。
      4)でも実際には、なかなか採用に踏み切れなかった(手元の小さなコントローラでは没入感が得られないと考えていたと上村先生は書いている)
      5)そこに第一開発から帰ってきた奴が自信があって、繋いだ
      6)やってみたら思いもかけず良かった。
      7)採用
      と、こういう流れではなかったのか? と想像しています。
      なお、横井さん・上村先生ともに、自分があんまり書きたくない所はさらっと流しているフシがあり、例えば上村先生は筐体の話になると第一開発がやった、という話だけを書いてエジェクトレバーなどについては触れない傾向があり、横井さんはドンキーコング(のアーケード)やファミコンの仕様について気に入らない部分は書かない傾向がありますw

  • 追記ありがとうございます。
    確かにXTECHの話が具体的なので、今の情報内だとこう考えるのが妥当ですかね。

  • 新電子立国の赤白プラスチックの話はここにありますね
    https://www.nicovideo.jp/watch/sm18239738
    19:20くらいです
    当時これをみて、そんなところにもこだわったんだと感心したのになぁ

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