電撃プレイステーションD物語(1)
考えてみれば「電撃プレイステーションD」および「電撃PS2」のコードを書いていたのは自分だけで、ほとんどの人間はなぜあれが創刊されたのかも知らないと思うので、ちょっとメモ書きがてらに、創刊から電撃PS2になったあたり、そして2006年の最終号あたりのエピソードまでをシリーズとして残しておきたい。
まず対象となっている電撃プレイステーションDについて。
電撃プレイステーションDは、「電撃プレイステーション」の別冊として1997年1月に創刊され、2008年の2月に休刊した、一時流行したディスク付き雑誌だ。
ディスクの中身はゲームの体験版・ムービー、さらにセーブデータ倉庫や独自ゲームや独自企画などまあいろいろなものを企画としてやっていた。
今なら全部ネットからダウンロード可能だけど、創刊された1997年当時はまだ高速なインターネット接続や、さらにCDROMの容量を楽に保存できるハードディスクなど全くまともになく、こういった雑誌の意味は強くあったわけだ。
最初は季刊という話だったのに、恐ろしく良く売れたもので、たちまち隔月刊になり、隔月の間に増刊が入り、さらにセーブデータ特集号が出てと、一番忙しいときは、マスター的には週刊電撃プレイステーションDになっていた時代もあったってぐらい、一時は次々出す雑誌になっていた。
では電撃プレイステーションDは、どのようにして創刊されたのか?
まず当時の状況を説明すると、電撃プレイステーション編集部は、編集部の母体が「電撃PCエンジン」だったのもあり、CD-ROMの扱いに慣れていて、『エメラルドドラゴン』の体験版つきムックなどが売れた実績もあり、社内的には「せっかくCDROMなんだから、CDROMが付録についた雑誌をやりたい」という意識があり、PS1の発売前からSCE(当時)に「体験版つきの雑誌をやらせてくれ」と何度も交渉していた。
というのも、当時SCEはゲームショーやイベントで体験版ディスクを配ったり、それともユーザーが有料で参加するプレイステーションクラブで『プレプレ』という名前の体験版ディスクを配布したりしていた(季刊で発行される形だったはず)。
だから「ウチにもやらせてくれよ」って話で、同じように体験版が入った雑誌を創刊させろと電撃編集部は交渉していたのだけど、何度行っても「まだ時期ではない」と断られていた。
「時期でない」と断られていたのも合理的な理由がある。
当時のSCEはある種のゲーム開発の民主化のようなものを目指していて、それまで数千万円するのが当たり前だった開発機の値段を大幅に下げ、普通のDOS/V(PC/AT、今でいうPCだ)に拡張ボードとしてPS1の開発ボードを挿せばPS1が開発出来ます、みたいなことをやっていたけれど、ともかくゲーム開発なんてやったことがない会社なもんで、体制が整っていなかったし、ゲームのこともわかっていなかった。
だから、正直な話としてSCEが供給してくれる開発機が安いのは良かったが、ライブラリやツールはゲームのことがさっぱりわかっておらず「こんなかっちょいいライブラリを作ればゲーム作りやすいだろう」的な、正直、使いにくいばかりの頭でっかちなライブラリで、おまけにもちろん言うまでもなくバグも満載だった。
そしてマニュアルはこの頭デッカチライブラリ推しで、低レベルは使うなとか書かれていたのだけど、このライブラリはゲームメーカー側からはさっぱり使われず、低レベルライブラリがどんどん充実することになる。
しかも開発環境もグダグダだった。
グラフィックツールとサウンドツールはスーパーヘッポコ(それまでハドソンの実用的なツールを使っていた自分としては衝撃的に出来が悪いイメージだった)。
「ゲームを書くのはCだ」と言ってくれてgccを使うのはいいけれど、サポートは変だし、トラブルは多いしで(知り合いと話をすると、当時確認のためにコンパイルした結果のアセンブラを読むのは当たり前だったと言われて笑ってしまった)、スタート当初は本当にグッダグダだった。
まああまり書くのもナニなのでここらへんで止めておくけれど、96年初頭ぐらいまでは、SCEは混乱の坩堝の中にいて広報・開発環境のサポート・あらゆるところがグダグダだったので、そこに加えて体験版の入ったディスクなんてまともに対応できるわけもなかったのだ。
そして、そのグダグダがようやくなんとかなってきて、体制が整ってきて「体験版つき雑誌」を作ってもいいよ、と雑誌社に言えるようになったのが、96年頃だった、というわけだ。
ここにもう一つポイントがある。
それはマスターのお値段だ。
当たり前だが、雑誌は5800円で売れない。ディスク付にしたって税込み1980円ぐらいが上限だ。そしてこの価格で出すためには、もちろんPS1のディスクのマスターの価格では作れなかった。
ただし一つ書いておくと、このマスター価格、それまでのSFCのROMなどと比較すれば、圧倒的に安かったのは間違いない。
マスターの価格については今でも書かない方がいいと思うので書かないが、そこでなSCEは雑誌用にディスカウント価格でマスターを出すことをOKしてくれたわけだ。
こうして雑誌が作れることになるのだけど、その代わり、このディスカウントなマスターには制限があった。
- 体験版雑誌のための体験版つきディスクであること。
- 1本の大きなゲームを入れてはいけない。
- 体験版はセーブで来てはいけない(これについては後に緩和される)
他にもこまごまとあるが、ともかくこういった基準が96年夏頃に決まり、体験版つき雑誌が作れるということで、雑誌社は動き出すのである。
ちなみに余談だけど、当時のSCEのマスターの価格だとシンプル1500シリーズは成り立たない。
言い換えるなら、シンプル1500シリーズは「ゲーム内容をシンプルにする代わりにマスターを安くしてくれる」という特約があったことになる。
というところで続く。
3件のコメント
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今回の記事を読んで思ったのですが
PCエンジンでのマスターの料金体系ってどーだったんでしょうか
確か’92頃NECがCD焼く料金上げてサードパーティーから文句が出てるという記事がファミ通にあったのを覚えています
そもそもメガロムなら容量に比例するんでしょうけどCDなら天外2やときメモみたく容量目一杯のソフトも「こんな内容薄いソフトHuカードで出せ」or「Huカードと同じ中身でなんでCDでも出した」なヤツもCD1枚同一料金だと思っていたので今回の記事は結構意外です
思えばPCエンジンは体験版の頒布もあればメディアワークスより先に小学館が体験版ディスク付増刊を出してましたし角川などロードス島2の発売にあわせて1のソフト丸ごと付けた本を出すなど本当に時代を先取りしてましたがやっぱりこうした書籍添付の物は通常ソフトよりは安価だったのでしょうか
子細それこそ金額は流石に今でも無理でしょうけど教えて頂きたいです
体験版ディスクは天外Ⅱが遅れて出したあたりが最初だったと思いますが、あれは事実上原価に近い形で出ていました。
形としては広告宣伝費扱いだったのです。
当時はそれぐらい意味がありました。
マスター価格は容量など全く関係なく、1枚いくらです。
値段を上げたのは、そもそもとんでもないディスカウント価格でやっていて市場が大きくなったという理由だったと記憶しています。
天外2&ドラスレの体験版って確か¥1,000でしたけどほぼ原価製作ですか(..;)
ウッドストックやバーチャCG集と並ぶ¥50売りソフトの代名詞だったのに
PCエンジンなんて発売半年経たない新品が¥980とかでよくワゴン売りされていたので当時「高いわ!!」と感じてました
学生時分は金もなく新品は専らワゴン売りメインで天外2は¥2,000、凄ノ王は¥500で買ったっけ・・・(←スミマセンでも事実)
ちなみにPCエンジンの体験版ディスクで一番印象深いのが今でも持ってるときメモの紹介デモ
アレで内容がわかるかー!!
いや岩崎先生のレビューでも全く想像つきませんでしたが (でもあれなきゃ絶対発売日に買いませんでした)