イースⅠ・Ⅱ通史(8):『ファザナドゥ』開発物語(1)
これはイース通史の中で、イースとは直接的には関わりのないエピソードなのだけど、ハドソンが『イースⅠ・Ⅱ』の許諾を取る上では、大きな問題になった…と思われる『ファザナドゥ』のエピソードだ。
まず『ファザナドゥ』という作品について、簡単に説明しておきたい。
『ファザナドゥ』はファルコムの大傑作ソフト『ザナドゥ』を、ハドソンがファミコン用に移植したゲーム、ということになっている。
「ということになっている」というのは、発売されたゲームが、まるで別物だから。
ここで名誉のために書いておくと『ファザナドゥ』は、まあまあ出来がいいRPG要素の入ったアクションゲームだ(RPG要素の入ったと書いているのは経験値による成長サイクルがないのでCRPGとは呼び難いから)。
ただアイテム名やモンスタ―名、それとも称号に共通しているものがある以外は、何一つ『ザナドゥ』と共通点がなく、「どうして『ザナドゥ』の名前がついているの?」と不思議になるほどの別物だったということだ。
なお『ファザナドゥ』のファはファミコンのファで、当時は『ザナドゥ』の商標が取れなかったことから、この名前になった。
当時の評価はとても悪かった。
遊ぶ人はあの『ザナドゥ』を遊ぶつもりで買っているのだから、そりゃあ評判も悪くなってしまうのも仕方ない。
そして多分だけど『ファザナドゥ』が原因で、ファルコムのハドソンへの印象は悪くなったと思われる。
もちろんこれは推測でしかないけれど、1989年初頭に、中本さんに『イースⅠ・Ⅱ』の許諾を取りに立川のファルコムに連れていかれたとき、加藤社長(当時)に、何かというと『ファザナドゥ』の皮肉を言われるような状態だったのだから、あながち間違ってはいないと思う。
ところで『ファザナドゥ』が原作と全く違う理由については
実際に、移植する段階では、「ザナドゥ」そのままのゲームでは、小学生には難しすぎるのではないか?
高橋名人のブログのアーカイブより
という事で、パズル的な要素を排除して、アクションRPGに特化しました。
これにより、ザナドゥのファンからは、別な作品だと言われたことも有りますが、それは正しいと思います。
と、高橋名人は証言しているのだけど、僕が今回調べた限りでは、名人のこの話は、当時、東京の誰かから聞いた「公式の言い訳」なのは、ほぼ間違いないと思う(しかも名人は、実際には何が起こっていたのかは知らなかった可能性がとても高い)。
というわけで、ここに実際に開発した人たちにインタビューした『ファザナドゥ』開発の物語を書いていきたいと思う。
1986年夏。
当時、ハドソンの東京支社(市ヶ谷と飯田橋の間)には開発拠点があった。
そこで奥野さん(『忍者ハットリくん』などの作者)が、中本さん(『ロードランナー』や『ボンバーマン』の作者)に「ファルコムの『ザナドゥ』をファミコンに移植するから。お前がメインプログラマーな、プレイしておけよ」と言われるところから、この物語は始まる。
1986年当時、サウンド・アート・ゲームプログラマはほぼ分化していたが、ゲームデザイナーとプログラマがまだ分化していない時代だ。だから移植は企画まで含めてプログラマに任させるのが当たり前だったし、プロジェクトはこんな風に始まっても全然驚かないものだった。
だいたい当の中本さんも『ロードランナー』や『スターフォース』を企画(ゲームデザイナーとかプランナーと呼ばれる職種と思えばよい)なしで移植しているし、僕だってそういうことになる。
それで奥野さんは『ザナドゥ』をプレイするのだけど、ここに一つ問題があった。
それは奥野さんはパソコンゲーム経験がほぼない「RPGはロールプレイングゲームの略だ」ぐらいしか知らないゲームプレイヤーだったことだ。
奥野さんは『ザナドゥ』をプレイした機種を覚えていなかったけれど、多分88SRだったろうと推測している。
※↑上について「88SRはFM音源ですよ」という指摘があり、奥野さんが「眠くなるようなBEEP音の曲だった」と言っていたので、調べたところ8801Mk2版でプレイしたのだろうと推測される。
これはRPGメカニクスがあまねく普及した現在の目から見たら異様だけど、当時のことを考えれば、まったく驚く話じゃない。
APPLE II で『ウィザードリィ』と『Ultima Ⅱ』が発売され、アメリカでRPGが大ブームになったのが1981年ごろ。
それが雑誌ログインで安田均先生に紹介されたり、輸入ゲームの形で入ってきたりして、日本の作り手たちが咀嚼して、ゲームの形になり始めたのが1983~84年。
史上初の日本の商用CRPGと思われる1983年の光栄の『クフ王の秘密』に始まって、1984年初頭に『ザ・ブラックオニキス』が発売され、一気にCRPGはブームになって『夢幻の心臓』など様々なゲームがリリースされ始め、同年冬にアクションRPGの元祖と言っていい『ハイドライド』が大ヒット。
そして『ザナドゥ』は1985年10月に発売されている。
つまり当時のRPGは日本で普通に遊べるようになって、まだ2年ほどしか経っていない、パソコンゲーマー(マニアだ)の間で急速に一般化しつつあるピカピカに新しいゲームジャンルだった。
だからゲームを遊ぶ人でも、パソコンではなく、アーケードゲームを中心に遊んできて、そこからファミコンに移ってきている人ならRPGを遊んだことがないのは、なんの不思議もなかった。
アーケード/ファミコン側で一番RPGに近いメジャーなゲームが『ドルアーガの塔』あたりで、コンソール業界は、PCのRPGブームを見て『ゼルダの伝説』(86年2月)、『ドラゴンクエスト1』(86年6月)、『ワルキューレの冒険』(86年8月)といった作品で、ファミコンでおそるおそる似たようなゲームを出しはじめている…という時代だ。
だから、奥野さんがRPGのことを全然知らなくても、まったく驚かないわけだ。
そして不幸なことに奥野さんは、初めてプレイしたCRPGが『ザナドゥ』だった。なぜ「不幸なコト」と書いたのか?
まず『ザナドゥ』がアクションRPGだったということ。
アクションRPGには様々な問題があるのだけど、なにより奥野さんにとって大きな問題は、当時のアーケードやファミコンのユーザーから見ると明らかに動き・画面・音が貧弱なことだった。
当時のPCのグラフィックの様々な制限から移動は8ドット単位。そしてスクロールは画面単位で、しかも『ザナドゥ』は初代PC88でも動くので、『アルフォス』型の画面で、フルカラーですらない。
対してファミコンでは『スーパーマリオブラザーズ』がすでに発売され、滑らかにスクロールするプラットフォームアクションが完全に確立された後。
上の画面の比較を見ればわかるが(別物だってのはともかくとして)、ファミコンのカラースプライトによるアニメーションと動きを見慣れていれば、PC88やX1の画面は高精細という強みはあっても、移動もスクロールも8ドット単位のゲームを見せられても、感心するわけもない。
しかも当時のプレイヤーにとっては、RPGは経験値・アイテム管理などなど、見たことも聞いたこともない概念ばかりの、非常に複雑なゲームだった。
それをRPG初心者の奥野さんに何のガイドもなくやらせる方がどうかしていると思うのだけど、加えてさらに問題だったのが『ザナドゥ』は当時のCRPGの中でも、かなり難易度が高い方で、かつパズル要素が強いゲームだったことだ(パズル要素の強さからアクションパズル扱いされることもあったほど)。
ここで簡単に『ザナドゥ』のリソース管理について触れておきたい。
およそリソース管理の塊なのが『ザナドゥ』というゲームなのだけど、奥野さんが引っかかったコトに絞ると『ザナドゥ』では食料(Food)の概念があり、これがダンジョン中で常時減っていく。
そして食料が0になると、HPが減っていき、HPが0になると…ゲームオーバー。
しかもHPが増えると食料の消費量が上がるうえに、プレイヤーの手に入る食料は有限。
誰だって「え? じゃあ食料が手に入らなくなったらどうするの?」と思うだろう。
実はハマり。クリアのしようがなくなる。
最初からやり直し。
「そんなバカな」と言いたくなるだろうけれど、当時は驚くことではなかった。
当時のCRPGのクリア保証は、慎重に計画的にプレイして、なおかつ謎が解ければ解けますよ、という程度の、イマドキの感覚からしたら、ありえない理不尽が当たり前だったのだ。
そして、何も知らないRPG初心者の奥野さんは、研究がてらのプレイで見事Food不足にハマってしまい、最初からやり直すしかない、ハマリ状態になってしまう。
正確には奥野さんはプレイをしていてにっちもさっちもいかなくなって、後輩でPCゲームを良く遊んでいた武藤さん(PCゲーム『ラミア1999』やPCエンジンの『ネクロマンサー』を担当していたらしい。僕は直接仕事をしたことはないと思う)に「これどうなってるの?」と聞いて「あ、これはクリアできなくなってますね」と言われ、アリエネーと思ったらしい。
アクションにも感心できず、最初のプレイではハマって、最初からやり直しでは印象が悪いのも当たり前だし、最後までちゃんとやらせろよと思うけれど、ハドソンは、こんな風に『ザナドゥ』に悪印象を持った奥野さんを当時立川にあったファルコムに連れて行き、メインプログラマーですと紹介してしまう。
しかもファルコムの方はディスク(320キロバイト程度)のゲームを当時のファミコン(せいぜい128KB程度)に移植するのを危ぶんでいて、奥野さんに「容量が厳しいんじゃないか? タイニーにしたら?」みたいな話をされて、結構気分が悪かったというのだから、まあなんというか、当時のハドソンの勢いだけしかない雑さを感じてしまう。
そしてこのエピソードを奥野さんから聞いて、なぜ『イースⅠ・Ⅱ』の権利を取りに行くとき、中本さんが僕を連れて行ったのか分かった。要はハドソンは移植の時、メインプログラマを連れていく習慣があったのだ。
これが、奥野さんの記憶によると1986年の夏なのだけど、発売されたのは1年以上後。
どうしてそうなった? と聞きたくなるが、もちろん理由がある。
1986年当時のハドソンは、ファコミンブームのど真ん中にいて飛ぶ鳥落とす勢いの会社だ。あっという間に商売が大きくなり、とんでもない勢いで人が増えている。そして、その中にはもちろんゲームをまったく作ったことがないプログラマやアーティストがいっぱいいる。
しかもファミコンに並行してPCエンジンの開発も始まっている。こんなことをやっていては開発のコントロールが出来るわけもない。
結果として、プロジェクトが次から次へと炎上し、奥野さんも次から次へとその処理に追われることになってしまう…というか、具体的に言えば、次々と、その炎上プロジェクトに突っ込まれることになってしまう。
実はハドソンのゲームのスタッフリストの歴史を調べていたとき、奥野さんもスタッフに入っている1986年末の『ドラえもん』のスタッフ数が異様に多くて、どうしてなんだろうと不思議に思っていたのだけど、人を入れたのはいいが、まとめられなくなって炎上して、ベテランが駆り出されるという展開になっていたわけだ。
そしてさらに奥野さんは次にハドソン開発、発売はリコーエレメックスの『新人類』にも投げ込まれ、これで86年は終わってしまう。
どれぐらい何もしていなかったのかわかる証拠がある。
『ザナドゥ』という超メジャータイトルの都合か、奥野さんは雑誌のインタビューに答えたりしているのだけど、その記事(右)で出ている画面はタイトル1枚だけで、それもダミーなのは明らか。
これが1987/2月号(正月売り)なので86年のうちにインタビューということになる。
ここでは3月には発売したい、なんて言っているのだけど、1986年12月には、まだ何一つ手をつけていないのははっきりしているぐらい、何も出来ていなかった。
そして明けて1987年。
またまた奥野さんにとんでもない話が降りかかる。
というところで、長くなったので続く。
4件のコメント
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長年気になっていた「ファザナドゥ」がどうやって作られたのか? が語られ始めました。
ありがとうございます。
イントロからして想像していたものとは、全然違っていて大変興味深いです。続きが楽しみです。
88SR版「ザナドゥ」は、FM音源に対応しているはずなので、少なくともファミコンと比べて音が貧弱ではないと思います。
戦闘開始時と終了時はX1版と同じPSGの音楽みたいですけど(ファミコンとほぼ同程度?)。
動画サイトで確認してみます?
奥野さんが88でBEEP音だったと証言していたのですが、考えられるコトとしては「実は88mk2であった」という可能性が高いかなと。ちと補足しておきます。
後に書かれるかもですが、ハドソンがPC-EngineのCD-ROM^2向けにY’s I&IIの移植許可をファルコムにもらいに行ったとき、
ファルコムはこのファザナドゥの残念移植でハドソンに不信感を持ってしまったので、断る理由で高額の版権料を提示してハドソンには退いてもらおうと考えていたけで、ハドソンはその額で契約したそうですね。
Y’sで雪辱を(汚名かな)を晴らし、名誉挽回できて。