ハドソンがファミコンに参入したとき(オリジナル)

以前にTwitterでちょっと書いた、ハドソンがファミコンのサードパーティに参加する前後の事情について。
これは1982-83前後のコンソールゲーム業界がまさに始まろうとしていた前後の話だ。
当時ハドソンにいた、野沢さんに詳しく聞いたところ、30年前の記憶なのでうろ覚えなところがあるけど、と前置きで返事をもらったので、以下いろいろ。
このあたりはfacebookで、古いハドソンのメンバーと現在つながるようになっているので、また聞いて、証言を加えていく予定。

ちなみに野沢さんは、野沢勝広さん。
I/OでMZ-80K用のTiny fortran コンパイラFORMなんかを発表したり、スターソルジャーのプログラマだったり、チャレンジャーのシステム作ったり、PCエンジンのハードがらみの設計したり、ともかく当時のハドソンの技術の中心人物の1人といっていい人だ。


以下この形のハコが野沢さんの書いてきたこと。
結構前後がバラバラでメッセージをもらったので、こちらで再編集している。もし何らかの間違いがあったら、それは僕の責任である。

HUDSONがはじめて任天堂と付き合いだしたのは1983年ぐらいだったと思う。
その関係で、ファミコンにゲームを出すことが可能になったと記憶をしています。
それまでHUDSONはパソコン向けゲームとHuBASIC言語などで会社の規模を大きくしていた。
特にHu-BASICのおかげでSHARPにOEMできたり、したおかげで任天堂への橋渡しとなったと考えられる。

Hu-BASICはマイクロソフトBASICとソースレベルの互換性が結構高い、ハドソンのオリジナルのBASICで当時としては高性能なBASICの部類に入った。
そして当時ハドソンはシャープのパソコンに対してHu-BASICをOEMしていた。
そしてシャープはファミコンに関係していた。
また当時は家に置かれるコンピュータならゲームマシンだろうとBASICがあるのは当たり前だった。コンピュータの勉強に役に立ちますよ、という名目だ。だからファミコンにHu-BASICをOEMしないかという話をシャープが持ってきた、ということらしい。
ということで、Hu-BASICが橋渡しとなってハドソンと任天堂はつながることになった。
で、今まで、ファミリーベーシックをどこの誰が開発したのか本当にわからなかったのだけど、この流れから察するに開発はハドソンで行われたと思われる。
というのも、以下野沢さんの証言。

開発機については、最初は任天堂から借りたんだけど、あまりにもダサいので、ファミコンにROMエミュを作って開発してたっけ。
SRAMベースのROMエミュなんだけど、書き込みは8255ボードにパラレルでつないでROM流し込んで実行していたっけ。
しかも、ほとんど手製で半田付けも自分でやったよ。
ROMエミュの設計者は岡田さんだよ~。

僕が聞いた話が間違っていなければ、ハドソンはナッツ&ミルクの時には、既に開発機を持っていたはず。
なので、上述の開発機をいつ作ったのか? というと、明らかにそれより前ってことになる。
つまりをファミリーベーシックをOEMでハドソンが作ったと考えられる。
野沢さんが覚えてないのが残念だけど。
ちなみに8255というのはインテルの最初期のI/Oチップ。分からない人が多いと思うので書いておく。

アセンブラーは最初CP/M80でACT65を使って行っていたっけ。
高いCP/Mマシーンを使いつつ、フロッピーを使っていたが、岡田さんがSASIインターフェースのHDDをつなげて、中本がBIOSをパッチして使えるようにしてたね。

CP/M80は8080用に書かれたデジタルリサーチのOS。MS-DOS以前のデファクトスタンダードで、MS-DOSはこのデジタルリサーチのCP/Mの互換のQDOS(8086用)を買い取って作られたもの。
ACT65は当時のクロスアセンブラなのは間違いないけれど、どこのメーカーの何かは調べても全く分からなかった。
この開発に使われたCP/Mマシンが何かは分からない。
書き方から察するに、当時ハドソンがOEMしていたMZシリーズではなかったようだ。
SASIはSCSIやPCIよりはるか昔のハードディスクなどのインターフェースの規格。
また「パッチする」は、主にバイナリプログラムの一部を書き換える時に使われる言葉。つまり最後の文を分かりやすい書き方に書き直すと「高いCP/Mマシンで、フロッピーを使って開発していたが、岡田さんがハードディスクをつなげるようにし、中本さんがBIOSを書き換えて、ハードディスクで開発可能にした」という話になる。

その後、PC-9801でも開発してたけど、PC-9801VMシリーズにCP/M80のACT65をVM8086の8080エミュレーションを使って動作するようにしたのを野沢が作って使っていた時代もある。
CP/Mでの開発時のエディターは確かWordMasterを使用していたけど。
その後、いろんなエディターを使った記憶があるな~。
CPM/86で使用していたとき野沢がエミュレータにパッチしてグラフィックでテキストを打つようにして、文字を小さくして使ってたよ。
あまりに小さな文字を使用していたので、スクロールが遅いこと遅いこ。
今思えばよくこんなことまでやっていたよ。
その後、飛田がオリジナルでアセンブラーとリンカーを作ってその後はそれを使用していた。

VM8086のVMは「バーチャル(仮想)マシン」。つまり、最初は98の上でCP/Mをエミュレータを使って動かして開発していたわけだ。
ムチャやるなあ。
また、最後に出てきた飛田さんが作ったアセンブラとリンカがASとLK。これが後に拡張されPCエンジンでも使用され、標準的なものになる。最初はファミコン用として作られ、後にそれがPCエンジン用に拡張された、というわけだ。

PC-9801VMのHDD内臓バージョンも出てすぐ使っていたっけ。
それまではPCの外付けHDDを自作したり、買ったりして使っていたっけ。
PC-9801も最初はCP/M86を使っていた、その後MS-DOSに変わっていったな~。年代はあまり覚えていない。
HDDの接続は岡田さん、中本、竹部の功績かな?
たぶんこの業界の中ではかなり速くHDDを使用していた。
ハドソンの特徴としてツールは基本手作り、スタソルのコースエディターは自分で作ったし、キャラクターエディターは竹部しか中本がどっちかが作っていて、作成後のデータはデバッガーで吸い上げていたし、エディットする前にあらかじめデータをLOADしておけば修正も可能ですかね。

これらのツールが最終的にPCエンジンの開発時に統合され、1枚絵を描くためのツールPE(小林さん作)とキャラクタマップを作るためのツールDFに集約されていくことになる。
つまり、まとめるとハドソンは82-83年ごろ、シャープにHu-BASICをOEMしていたのが縁で、ファミコン用にファミリーベーシックを開発した。ところが開発機材があまりにダサいもので、自分たちで作り直し、それでナッツ&ミルクを作って、史上初のサードパーティになった、とこういう話だと思う。
1982-3年、今から30年も昔のファミコン時代の黎明期の話である。

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3件のコメント

  • AGENT: Mozilla/5.0 (X11; Linux x86_64) AppleWebKit/535.1 (KHTML, like Gecko) Ubuntu/11.04 Chromium/14.0.835.202 Chrome/14.0.835.202 Safari/535.1
    例のトランポリンとかベルトコンベアーのマリオは
    ナッツ&ミルクとかロードランナーなんかよりも後だったんですね?
    今まで逆かと思ってました。

  • AGENT: Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:9.0.1) Gecko/20100101 Firefox/9.0.1
    折しもハドソンが解散消滅の報とほぼ同時期にこういうエントリー出てくるとは・・・
    こういった記録を残すのは非常に価値あることなのでこの先も続きを期待してます。
    私はファミコンブーム時のコロコロ世代ですが、野沢さんはスターソルジャー発売時に
    スタープログラマーのような描写でゲーム漫画によく出てたのを今でも覚えてます。
    スターソルジャーのアニメの映画にも野沢さんは出てましたね。
    声は確か塩沢兼人さんが担当してたような気がします。

  • AGENT: Mozilla/5.0 (compatible; MSIE 9.0; Windows NT 6.1; WOW64; Trident/5.0)
    このような珍しい貴重な記事、昔のことを思い出します。
    題名は失念しましたが、スターソルジャーで対決するマンガの中で、敵方がパワーアップの裏技を使い
    「のんたバージョンだ!」と大きく出ていたのが記憶にあります。
    「のんた」とはプログラムを組んだ野沢さんの愛称だと。
    16面の隠しボーナスやドラえもんのボーナスにも出ていたり、
    野沢さんの名前は子供の頃の私でも知っていた名前でした。

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