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1989年7月 - バランスを取り直しつつ、ボスの調整を始める(1)
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。

■■■

いろいろあって、えらく間が開いたけど、続き。

前回書いたとおり、イース1と2のレベルを統合すると決めた以上、バランスは完全に取り直さなければならなかったが、このときには「バランスを取り直すことが出来る」という自信はあった。

というのも、凄ノ王伝説で痛い目にあったあと、桝田さんと会って、結構長くつきあった結果、バランスの取り方にはっきりとした方針が出来上がっていたからだ。

凄ノ王伝説を作る前、自分はTRPGのゲームマスターなどをやっていたし、アマチュア時代に大量にゲームを作っていたこともあり、バランスを取れると思っていた。
だが、実際にRPGを作ってわかったことは「バランスの取り方なんざ、まるでわかっていなかった」ということだった。

デビュー作の凄ノ王の戦闘システムは、距離の概念のあるタクティカルコンバットで、おまけにプレイヤーのアクションが行動ポイント制のシステムだ。
当時主流だった対面型戦闘(DQ型)や、サイド型の戦闘(FF型)に不満を持つボードゲームユーザーが、当時のボードSLGやTRPGの戦闘システムを大いに参考にして自作したわけだが、ぶっちゃけ複雑すぎて、うまくコントロールできず、毎日AI(というほど複雑なものでもないが…)をいじり、バランスを調整し、四苦八苦して、正直、最後にはどうすりゃいいのかわからなくなっていた。
凄ノ王伝説のバランスについて、今の自分が評するなら「バランスが分からなくなったとき、簡単な方に調整した」のが唯一褒められるぐらいだ。
どうしてこれが褒められることなのかというと「難しい」と言われ、自分にはわからないときには簡単にすれば少なくともクリア出来る方向に進むが、そこで直さないと、クリア出来ない人が多い可能性が高いから。
本当はもっと正しい(みんなが楽しめる)方向があったわけだが、当時のボードSLGだのTRPGだのにガチガチで、ゲーム論的な話をすると「50歳にならんとする今より、遥かに柔軟性を欠いたゲーム論教条主義者だった自分」には直せなかったのは間違いない。
もちろん凄ノ王伝説は、僕の手を離れたゲームであり、世の中にはこのゲームを好きな人がいるのは分かっているが、当の本人にとっては自分の思い通りにならず、散々苦労した苦々しい思い出の多い作品だ。


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|| 22:15 | comments (0) | trackback (0) | △ ||

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故・多摩豊氏の名誉のために批判する
前回、制作秘話について疑問を呈したesu-kei_textだが、ふと同じゲームのカテゴリにある最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1)を読んで、あまりにあまりな内容で、開いた口がふさがらなくなってしまった。

この文に参考資料として、敬愛する故・多摩豊氏の著作が参考資料として挙げられるているのが耐え難いので、アドベンチャゲームの歴史とゲーム性にまつわる部分は全くの虚構であり、間違っても多摩氏の著作に書かれていないと指摘していく。
【追記】 10/6/25 k-takahashi’s 雑記というブログで、故・多摩豊氏の参考資料に挙げられている著書とesu-kai textを比較しておられるのを見つけた。とても参考になる資料なので、追記しておく。


まず先に故・多摩豊氏について。
故・多摩豊氏はTRPGのオーソリティで、日本初のRPG専門誌「ワーロック」の初代編集長である。
【追記】 あらゆる人に突っ込まれているので。雑誌名は「ウォーロック」でした。自分"warlock"としか覚えておらず、表記に関しては覚えてませんでした。
さらにゲームデザイナーであって、TRPG作品もあり、くわえて自身がサウンドノベル以前に「ソフトでハードな物語」や「38万キロの虚空」でアドベンチャーゲームの再定義にチャレンジされた方である。
しかもゲーム評論家でもあり、ウィザードリィ4の訳者であり(想像を絶して難易度が高い)、デーブ・レベリング(Zorkの作者。テキストアドベンチャーで名を馳せたinfocomの創業者の1人)、クリス・クロフォード(パットンvsロンメル・バランスオブパワーの作者。当代きっての理論派ゲームデザイナー。CGDCの創設者)、ロー・アダムス(ウルティマ4/ウィザードリィ4のシナリオライター)、リチャード・ギャリオット(ロードブリティッシュ)、ロバートウッドヘッド(ウィザードリィの作者)、アンディ・グリーンバーグ(同じくウィザードリィの作者)などと実際に親交があった方である。
(多摩氏のおかげで、僕は初期のCGDCに出席してクロフォードなどと話をすることが出来た。おおいに感動できたことの一つだ)。

こういう人が
「アドベンチャーゲーム」とは、イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式である。
それに「ゲーム性」をもたらすためにはどうするか?
当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。
プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。
そこで考えられたのが「単語直接入力システム」である。
グラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進む。
それは、キーボードのあるパソコンだから遊べるゲームであると思われていた。
こうして、ゲームセンターで稼働する業務用ゲームとは異なるゲーム性が生まれたのである。

こんなことを自身の著書で書くわけがない。これは全くのデタラメで、端から端まで何一つ正しいことが書かれていない文だ。

以下は、上記に比べれば正しい歴史。
アドベンチャゲームの歴史の始まりは1975年ごろにさかのぼる。
「アドベンチャゲーム」の名前は、そのオリジナルのゲームが"Adventure"というところから来ている。
基本的には「TRPGのゲームマスターとプレイヤーの会話を通じて進行されるセッションを模したもの」だ。
会話をするのだから、キーボードから"go north"と言った具合に、入力をするのが当たり前。
つまり
当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。そこで考えられたのが「単語直接入力システム」
なんてことは全くない。
またTRPGのセッションを模したこと、さらに初期のコンピュータにはグラフィックが実質なかったこととあいまって、初期のアドベンチャゲームは全てテキストだ。
つまり
イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式
ではない。

例えば上記は初期の超有名テキストアドベンチャ"Zork1"のスクリーンショット。これは人工知能の研究(と称したと思っているが)で1977-79年にかけてMITでデーブ・レベリングと仲間たちが作った最初期のアドベンチャゲームだ。彼らはこれを作った後、1979年にinfocomを設立し1980年から市販した。見て分かるとおりオールテキストのゲームだ。
今でもオリジナル版はフリーでプレイ可能なので、興味があれば一度プレイしてみればいい。
つまり、テキストだけだったアドベンチャに、あとからグラフィックをつけたのが正しい歴史でグラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進むようになったのは、史上初のグラフィックアドベンチャゲームが1980年にシェラ・オンラインから発売されたあと。

また、一番最初のアドベンチャゲームの始祖は1975-76年でアーケードゲームとほとんど同じ長さの歴史がある。異なるゲーム性もへったくれもない。もともと違うゲームなのだ。

故・多摩豊氏は、このアドベンチャゲームの歴史をあちこちで何度か書いており、こんな馬鹿げた間違いを書くわけがない。

つまり、前述のアドベンチャの歴史についての語りは全てデタラメで、作者の想像力で勝手に作られた、勝手なアドベンチャのゲーム性と歴史に過ぎない。

アドベンチャゲームの歴史はテキストに始まり、グラフィックがつき、コマンド選択式が登場するという流れで、しかも海外と国内では違う流れがあり、別にそれらは語られる必要がある。
だが、上記のアドベンチャゲームの説明はZorkを作ったデーブ・デベリング、"Mystery House"の作者ロバータ&ケン・ウイリアムス、ASCIIが作った日本で初めてに近い本格テキストアドベンチャ「表参道アドベンチャ」の作者、それともキャリーラボの"ミステリーハウス"の作者などなど、あらゆるアドベンチャの作者を侮辱する、全く間違いの歴史でしかない。

このブログの著者は、何を考えて書いたのか? 全くの疑問だ。
例えば、今、さっと書いたアドベンチャの歴史は、簡単にWikipediaのアドベンチャの項目で調べることができるし、内容のクロスチェックをするならテキストアドベンチャーゲーム、変容の歴史。にプレイヤーから見た歴史があったりKTJ Dragonに、結構詳細な歴史が書かれていたりする。

さらにSierra-onlineや過去のアドベンチャの歴史を(英語で)調べれば、簡単にこの程度の知識は得られる。このブログの作者は、何一つ取材せず、適当に想像だけでモノを書いているとしか思えない。

もちろん、該当のエントリは「創作である」なら構わない。だが創作であるというならば、ちゃんと頭にこれはフィクションであり、現実の話では全くありませんと書いておいて欲しい。

あたかも本当のふりをして、今までの創作者や関わった人間の名誉を傷つけるような嘘八百の文を書くのはやめて欲しいと本気で思う。

|| 20:18 | comments (11) | trackback (0) | △ ||

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疑わしい「スーパーマリオ」制作秘話
自分のTwitterのTLに 宮本茂のゲーム哲学(2) ゲーム作りに必要なセンス - 「スーパーマリオ」制作秘話を読んだという感想が何度か流れてきたので、読んだのだが、この制作秘話、どうにも疑わしい。

というか、パックランドを徹底的に分析したという話は、どう考えても僕には信じられないし、眉唾としか思えない。
以下、どうして信じられないのか実体験に基づいた逆算で説明していく。

1985年9月13日、これがスーパーマリオブラザースFC版の発売日だ。
普通、ROMカセットを生産するのは、いまどきの最短2週間で20万枚ぐらいならなんとかなっちゃいますな光学メディアと違い、圧倒的に手間が掛かる。
当時は量産するためにはマスクROMオンリーなので、マスター納品→マスクパターン制作→ROM生産→基板&カートリッジと合体→完成という流れを取る。

上記プロセスは「どれだけ急いでもある程度の量をそろえるなら2ヶ月以下はあり得ない」。
例えば、拙作『凄ノ王伝説』はファミコンと比べればラインに余裕があるPCエンジンのROMゲームだがマスターアップは2月初頭で、発売は4月27日。つまり2ヵ月半。
ファミコンでは通常3ヶ月だったが、任天堂は社内作品でチェックなどで有利な部分があると考え、2ヶ月としておこう。
発売日から引き算すると85/07/13。
スーマリのマスターはこのあたりが一番遅いことになる。
【注】 正確にはFCのマスター納品から、実際のカートリッジ納品までは3ヶ月以上が普通で最盛期の繁忙期には6ヶ月があったと聞いた。実体験として、初代桃太郎電鉄はFCで、たまたま僕は手伝ったが、このときは8月にはマスターを出した記憶がある。つまり4ヵ月程度あったはず。
また、正確にはメーカー出荷では終わらず、当時の流通は最低でも3段階程度はあったので、発売日に店頭に並ぶためには1週間程度前には一次問屋になければいけないから、さらにスケジュールはシビアになり、社内といえど2ヶ月は微妙ではないかと思うが、一応最短を見ておく。
■6/9追記 7月13マスターはまず無理な事実に自分で気がついた。8月の第2-3週はお盆休みで工場が止まる。つまり9月第一週出荷を前提にすると、6月半ばより前、多分6月最初がマスターであった可能性が非常に高い。言い換えるなら、このブログの推測スケジュールはさらに1ヶ月前倒しになり、ますますパックランドを研究した可能性は低くなる

マスターとして工場に出すためにはバグがないことが必要。すなわち最終デバッグ、つまりバランスなどは(出来るだけ)直さず、ひたすらバグを取るだけという期間が1ヶ月程度は必要だ。ここは面倒くさいので休みは計算しない。
これを引き算すると85/06/13。
【注】 ゲームが大きくなった今ではこれでは絶対に足りないが(自分が関わったPS2のカーレースゲームでは丸2ヶ月ちょっとデバッグしていた)、当時だから1ヶ月程度でなんとかなったと思われる。実際、たいてい1ヶ月でなんとかなってたしw

これより前に、当然ゲームバランスを微調整し、マップを調整する時間がある。
これは少なく見積もっても2ヶ月程度はかかる。「長い!」と思うかも知れないが、だいたいスーパーマリオは32面あるソフトだ。休みナシで作業して2日で1面調整しても2ヶ月以上かかる計算になる。当時なので週休1日だったと仮定して、月稼動が25日程度とすると2ヵ月半。
これを引き算すると85/04/01。
つまり、このあたりからバランス&マップ調整をやらないと絶対に間に合うとは思えない。

これより前に、マップや敵を実際に入れて作る作業がある(うちの会社ではlayoutと呼ばれる)。
32面あるけれど、今のゲームと比べれば流用が多いから、1面が平均4日で出来たと仮定しよう。休みナシで128日。約4ヶ月が必要になる。25日計算では5ヶ月とちょっと。
これを引き算すると84/11/1あたり。
つまり84/11あたりから実制作フェーズでなければ、スーマリは発売出来なかったはずで、しかもスケジュールにはかなり無理があるのは明らかだ。
【注】 4日で1面作れるなんて計算を実際にやるプロジェクトマネージャーなんていたら、そいつはクビにしたほうがいい。いやまあ、実際にMSPにスケジュールぶち込んだら、4日で1個なんて計算が出てきたことはあるけれど。

これより前、どれぐらいから宮本さんが例えばジャンプのテスト制作や面構成を考えていたのか、こればかりは神のみぞ知るだが、レベルデザイン(完全ではないにしろラフレベルではレベルデザインをしていたはず)32面、1面3日と考えて、96日。25日計算ではほぼ4ヶ月になる。モブ(敵のこと)や細かいアイディアまで考えれば、もっと時間がかかっても不思議はないが、ともかく4ヶ月前後としておこう。
これを引き算すると84/7/1。
このあたりがレベルデザインを始めた時点という計算になる。

ここでパックランドの稼働日はいつなのかというと84/8。
つまりマップデザインをはじめなければ、間に合わないと思われる時期より後にパックランドは稼動を始めていることになる。すなわち、上記スケジュールから考えてパックランドを徹底的に研究する時間があったとはとても思えない。

並行して進めれば…という意見もあるかもしれないが、上記したスケジュールを1面あたりの平均に直すと、ラフデザイン=3日、実デザイン/敵配置/プログラム=4日、バランス調整2日。つまり1面をたったの10日で作った計算だ。
敵のプログラムできてます、レイアウトするだけです、だとしても今風なミドルウェアがあったとしても1面10日はキツイ。いかにギリギリのスケジュールかわかる。
【注】 そしてかなりの確率で、これに近いスケジュールで作ったと思われるので、作っている間の後期は間違いなくデスマーチだったのだろうと推察される


もちろんパックランドは名ゲームであり、なおかつスーパーマリオと共通する要素があり、しかも開発の初期に見るチャンスがあったのは確かだから、宮本さんは絶対に参考にしたとは思う。
だがパックランドを徹底的に宮本さんが研究した逸話が本当とは思えないのは、上記の想像されるスケジュールから明らかだ。

ということで、最初に挙げたリンクの秘話とやらが、ほとんど想像の産物なのはほぼ間違いはないだろう。また、最初に挙げたリンクが、なにかの本を下敷きにして書いているのだとしたら、その本はちゃんと取材をしてないのも、ほぼ確かだろうと僕は思う。

資料のほとんどない時代なので、(本人もしくはチームのメンバーが証言しない限りは)真相は藪の中だろうが、この話が本当の可能性はとても低いのではなかろうか。
【追記】10/07/01
鶴見六百君との会話で、作りながら影響を受けた可能性はあるんじゃないかという意見があり、それは確かにありえると思ったので追記しておく
【追記】15/09/15
なんと社長が訊くで84/12 - 85/2 で仕様を作っていることがわかり、十分にパックランドを研究する時間があったのは明らかになった。
85年と88年の3年で、こんなに感覚が違うとは驚きである。
あと、マスターを8月に入れてるって書いてあるのだけど、社内は1か月だったのかい! と思わず言いたくなってしまった。
しかし、僕が「疑わしい」と書いたブログは多摩豊氏についてひどくいい加減な記事を書いていたので、どっちにしても自分の想像で適当に書いたのは間違いない。
だがしかし、パックランドを研究する時間があったのは間違いないのは、たまたまデタラメを書いたら偶然当たったのであろうと事実だったのは確かだ


|| 20:39 | comments (0) | trackback (0) | △ ||

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決戦前夜(6) - 追補
過去記事の集合体はコレ

このパートは「決戦前夜」の内容について書ききれなかったことを、いろいろ落ち穂拾いしておこうってネタ。
つまり、全くの書き下ろしパート、ということになる。

■■■


(1)の追補
■「1」本文
「ギャルゲー」を期待できないと思った理由は明白で、まず書いたとおり、PCエンジンのソフトの本数が減り始めて、ハードの終わりが見えてきていたからだ。
そして、当時、コナミは僕にとってフェイバリットメーカーの一つだったので、マーシャルチャンピオンの出来にはガッカリさせられたうえに、前は

92/10 - スナッチャー
92/12 - グラディウスII
93/10 - 悪魔城ドラキュラX

このなんとも豪華なラインアップで、今でも名作といわれている作品ばかり。これの後が出来の悪いマーシャルチャンピオンで、次がギャルゲーと聞いたら期待できるわけもない(苦笑)
「ああ、コナミも数合わせに走ったワケね」と思うに決まっている。

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夢のスタートレック
これは『電撃王』に載せていたコラムの中で思い入れが深いものを、細かくアップトゥデートして載せようという試み。
新たなコメントは【注】、最初からあったコメントは【原注】と表記している。

■■■

 誰でも生まれつきプログラマってわけじゃないけれど、世の中にはプログラマになってしまう人もいる。これはそんなプログラマになってしまった僕のコンピュータと出会ったころの物語だ。
【注】 今だからバラしてしまうと、この文章は僕が敬愛するロジャー・ゼラズニイの中でも最も好きな作品の一つ「その顔はあまたの灯、その口はあまたの戸」(早川文庫刊・『伝道の書に捧げる薔薇』)の最初の文章をもじりだったりする。

 話は遥か昔…そう僕がまだ中学生だったころ。アメリカで「スターウォーズ(現在で言うエピソード4 A NEW HOPE)」が公開され、大ヒットを飛ばしていた1977-78年に遡る。
 僕は筋金いりのSF少年で日本公開を心待ちにしていた。公開されるまでの間、少しでも内容が知りたかったのでスターウォーズ情報が載っている本はなんでも買っていた。
 そんなある日、本屋で見つけた豪華増刊「文藝春秋デラックス:宇宙SFの時代」。この本が、僕をコンピュータに向かわせるきっかけになった。
(余談だけど、この本、やたらと出来が良かった。今では手元にないのが残念だ)
 本の中には目当てのスターウォーズの記事はたっぷりあった。伝説的な映画作品、禁断の惑星・惑星ソラリス・2001年宇宙の旅・サイレントランニングなどなどの情報もタップリ載っていて、見所満載だった(当時はビデオがなかったので映画館で再公開されるかテレビで放映されない限り見ることが不可能に近かった)。
でも、それ以上に僕を引きつけた記事があった。
それは「小松左京父子がスタートレックに挑戦する」。
 記事の内容を簡単に説明すると、アップルIIのゲームスタートレックに小松左京父子が挑戦する様子を実況風におもしろおかしく文章にしたものだ。
『コンピュータ上で動くゲーム!』
 まったく大変なショックだった。
 僕はラジオ少年だったからマイクロコンピュータが出来たのは知っていた。けれど当時、コンピュータは魔法とほとんど同義語で、出てくるイメージはSF映画や小説に現れる万能に近い「電子頭脳」か、はたまた新幹線とかの予約に使われている神秘のベールに包まれた機械だった。(コンピュータでやるから間違いなし! なんて良く言われていた。ウソつくなよ)
 まさか個人でコンピュータが持てるなんて思っていなかったし、ましてやそれで複雑なゲームができるなんて想像もしていなかった。
 スタートレックの強烈なイメージは僕の頭の中に住みついてしまった。寝ても覚めてもスタートレックの事ばかり考えているし、スタートレックで遊んでいる自分が夢の中に出てくる始末だった。
【注】 宇宙SFの時代は、エメドラのなんかでファンの人が持ってきてくれたおかげで読むことが出来た。古本なら手に入るから買おうかいつでも考えてしまう本だったりする。また、この当時は「電子頭脳(今で言うコンピュータ)は間違えない」ことになっていた。今ならお笑い種だ。

 そこまで思いが募ってアップルIIを買うのを我慢できるわけがない。電気屋を探し回った末、つにアップルIIの置いてあるところを探し出したのだが…お値段なんと48万円!
 唖然呆然。僕の目玉は飛び出した。
 48万円! 今なら軽く100万円以上するのと同じ感覚だろう。
 それだけの大金を払うマシンのスペックはどうかと言えば、6502のクロック1.7メガちょい。メモリ16キロバイト(標準)、40x25の固定16色低解像度(!)グラフィックと、メモリを拡張すれば使える280x192の4色『超』高解像度グラフィックス(16キロ拡張するのに、軽く10万以上かかる。のちに6色まで出せるように改良された)。
 ベーシックしか動かないし、フロッピなんかなくてカセットテープにセーブするしかない(正確にはフロッピはあるにはあったけど、途方もない値段で買えるような代物じゃなかった)。
 ‥‥今ではどう控え目に見ても、小学生用の電子手帳にも負けてしまう代物だけど、これでも当時はあこがれのスーパーマシンだった。
 中学生だった僕が、そんなとんでもない大金を持っているはずもないので、値段を見た一瞬でアップルII購入計画は瓦解した。
【注】 APPLEって名前で想像がつくと思うが、「アップル社」が出した大ヒットパソコン。ジョブスとウォズニアクが作った。当時としては驚異的な高解像度グラフィック・高機能(かつ高速な)なベーシックなどを積み「コンピュータのキャデラック」と呼ばれていた。

 けれど「スタートレック」は絶対にやってみたい。なんとか安く「スタートレック」を遊ぶ方法はないかとマイコン雑誌を読みあさっていくうちに、とにかくBASIC(ベーシック)が動くコンピュータなら「スタートレック」は遊べることがわかった。
 またコンピュータを手に入れる一番安い方法は全部自分で作ることで、その次は比較的安い日本のコンピュータ「キット」を買うことだった。
 僕に全部自分で作れるほどの腕があるわけもないので「キット」以外には考えられず、手の届きそうな機械を探し回った。で、決めたコンピュータが忘れもしない名機TK-80EとTK-80BS(ベーシックステーションの略)。
 TK-80Eがコンピュータ本体で、TK-80BSがTVインターフェースとカセットインターフェースとキーボードとベーシックと拡張RAMをセットにしたものだ。
 当時を知らない人のために少々解説。
 TK-80Eは「キット」、つまり自分でハンダ付けして初めて動く代物だった。今から見ると異様だけど、当時日本で売っていたマイクロコンピュータの大半はこの形だった。(EX-80,TK-80,LKIT-8,LKIT-16,H68-TR‥全部当時発売されていたキットなんだけど、名前も聞いたことないハードだろう)
 もともと、このキットってのは、LSIメーカーが他の電気メーカーの技術者に「マイクロコンピュータとはなにか」を知ってもらうためのトレーニングキット(その頭文字を略したからTKなのだ)なのだから、それも当たり前というもの。
 では、その値段はと言えば、TK-80BSが128000円、TK-80Eが67000円。二つ足して、195000円!
 やっぱりベラボウだったけれど、自分の貯金に誕生日とお年玉とクリスマスのプレゼントを2年分足せば買えそうだった。そこで親に泣いて頼み込んで、ようやく買ってもらうことに成功したってわけ。(例によって一生のお願いって奴だね)

 こうしてコンピュータを手に入れ、一緒にベーシックを手に入れた岩崎君は「スタートレック」がプレイできて幸せでした。めでたし、めでたし‥‥なんて都合のいい話は世の中にはそうそうない。
 コンピュータを手に入れるまではなんとかなったけれど、なんとも悲惨なことに「スタートレック」はまるでプレイできなかった。
『スタートレックのソフトがどこにもなかった』からだ。
 当然と言えば、あまりに当然。
 当時、ゲームソフト、それもマイコンのものなど存在しなかったから、市販品を手に入れる手段はなかった。(現実にその当時マイコンのソフトを専門にしているメーカーなど一つも存在しなかったと思う)
 手に入れる方法はたったの一つ。雑誌などの紙媒体のみ。
 泣きそうになって資料を漁った、雑誌を漁った、本を漁った。
 『101ベーシックゲームズ』って本にスタートレックのリストが載っているのを知った。やっと探し出して読んでみるとTK-80BSのベーシックにはない命令が山の様に使われていて、とても動きそうになかった。
 SC/MP(スキャンプと読む)の上で動くタイニースタートレックのリストを見つけた。やっぱり知らない命令がいっぱいあった。
 どの本を読んでも、そのまま打ち込んだんじゃあ動きそうにないスタートレックばっかりだった。そして僕はプログラムなんてさっぱり分からないから、そのまま打ち込む以外のことはまるでできなかった。
 TK-80BSで動く面白くもないゲームのリストは掃いて捨てるほど見つけたけれど、かんじんかなめのあこがれのスタートレックはどこを捜しても影も形もなかった。
【注】 "BASIC"には信じ難いぐらいの数のハード特有の方言があり、これを乗り越えて移植するのは、当時の僕の実力では「絶対無理」だった。今なら数時間でかけるレベルのプログラムだと思うが(苦笑)

 僕は途方にくれてしまった。
 一体全体、どうすればスタートレックができるんだ?
 結論は最初からはっきりしていた。
「自分で作ればいい」
 それがコンピュータのいいところ。
 コンピュータはプログラミングすればなんでもできる(だから無限の可能性を持つと雑誌では喧伝されていた。たいがいにしろよ、なんて今じゃ思っちゃうけど)から、自分でTK-80E+TK-80BSで動くスタートレックを書けば、僕はスタートレックをプレイできるわけだ。
 やらなくちゃいけないことはただ一つ。プログラムを覚えるだけだ。
 僕はスタートレックを遊ぶために、プログラムの勉強をはじめた‥‥
 それから16年経って、僕はゲームを作るプロになった。けれど今だ持って、初めて記事を読んだときに夢見た、理想のスタートレックは出来ていない。
 そして今でも夢のスタートレックを作ってみたいと思っている。

【注】 
この文は、電撃王がメディアワークスから創刊される当時、編集長だった島谷さんから依頼されて書き始めたエッセイの第一弾。僕が、実際にプロとしてコラムを書いた初めての文だ。(Beepはコラムではあったが、ちょっと微妙なので、一応除外」)
自分にとって、最も思い出深く、そして最も亜種を作った(アマチュア時代に、フルスクラッチで20個以上は作ったと思う)ゲームだ。



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