2010-08-06 Fri [ 転載物::商業誌 ]
これは『電撃王』に載せていたコラムの中で思い入れが深いものを、細かくアップトゥデートして載せようという試み。
新たなコメントは【注】、最初からあったコメントは【原注】と表記している。
「ナイコン」…これってワケのわかんない言葉だよね。
この「ナイコン」、なにかって言うと、1976~80年ごろのマイコンはとてつもなく高くて、なーんの使い道もないし、なーんの実用性もないから親が買うわけもなくて、そして値段が高いから子供の小遣いで買えるわけもない代物だった。
けれども欲しい。
しかたないから雑誌を買ったり、本を読んだりして紙上でプログラムを勉強し、店先のコンピュータでプログラムを打ち込む、そんなコンピュータを持っていないコンピュータマニアを「コンピュータを持っているマニア=マイコン族」の逆、「ナイコン族」と呼んだわけ。
ところで「なーんの実用性もない」と書いたけれど、これはマイコン黎明期、つまり1976-80頃のマシンのパフォーマンスを考えれば当り前。
フルセットのシステム、本体、専用グリーンディスプレイ、放電プリンタ、それにディスクを揃えれば(ディスクは存在すればだけど)100万円以上は当り前。その癖してメモリは8~20キロバイト程度。(奇跡的に32キロとか64キロってシステムは存在したけど)
漢字も出ないし、ソフトを立ち上げるのはだいたいカセットテープで、運良くテープリードエラーが起こらなくても立ち上げるのに10分以上かかる。だいたいそのソフトからしてベーシックがあれば運がいい方。
当然「市販ソフト」なんてないし、ましてやワープロ・スプレッドシートなんてまったくない。(漢字が出ないんだからワープロが出来ないのも当り前だけど)
パワーもなければソフトもない。まさにないないづくしな代物だったわけ。
こういうポンコツが電気屋の店先で麗々しく「マイクロ・コンピュータ(無限の可能性を持つ!)」として飾られていたわけだけど…電気屋の店員にとっては、こいつはまさしく頭痛のタネだった。
「なーんにも使えないゴミのごとき商品」なのに「やたらめったら商品説明が難しい」のだ。
実はこのことは今でも本質的には変らない。コンピュータほど「何に使えますか?」と聞かれて困る物も珍しい。
プログラムを組んで、周辺機器を作れるなら(しかもとんでもなく難しいわけでもない。ある程度の努力をすれば誰でも出来る(!))炊飯器の制御だろうと、シャッターの開け閉めだろうとワープロだろうと電話の制御だろうと、およそ考え付くことなんでも出来るんだから「何に使えますか?」と言われて困るのが当り前。
今は単に「ワープロ」とか「ゲーム」とか「表計算」とか「データベース」なんかに代表される『コンピュータでやれること』を普通の人が認識しているから、店の人も「ワープロに使える」とか「家計簿に使える」って言うだけ。
コンピュータに出来ることが1977年当時から変ってしまったわけじゃない。
単に1977-80年当時のマイコンでワープロとか表計算をするのには1000万円とか2000万円とかの家が一軒買えるほどの金が掛かっただけで、出来ないわけではなかったのだ。
当時のコンピュータでリーズナブルな金の範疇で出来ることは「単純なゲーム」と「ベーシックを動かしてプログラムを組んで遊ぶ」だけだった、と言うのが正しいわけ。
だけど「単純なゲームを自分で組んで遊べます」じゃマニア以外は買わないから「無限の可能性を持っていてプログラムでなんでも出来る」なんてかっこいい台詞で何も知らない素人に押し付けていたわけ。
それでもまだ、こんなワケの分からない商品を面白がって触るのは好奇心旺盛な人間、それも一部の新しいモノ好きの金持ちだけ。店の売り上げから見れば「小さな商売」だったのだ。
そこに「マイコンブーム」ってのが起こって、マイコンは一般に広く名前が知られるようになり、一般の人の興味を引くことになった。
店にマイコンを買いに来る人は後を絶たなくなり、店の売り上げはどんどん伸びた。ところがコンピュータは「拡張機器」とか「ソフト」って奴があるおかげで、売りっぱなしあとは修理以外は知りません、なんて言えるもんじゃない。
アフターサービスが当時の他の電気商品より遥かに複雑だったわけだね。
だから電気屋の店員は、売ってもいないソフトのサポートをしないといけないし、ブームのおかげで、どんどん新製品が出るしでとんでもなく大変だった。
そこに現れた便利な「ヤツ」がナイコン族(マニアだけどね)。
ナイコン族は新製品を店員よりも良く知ってたし、店にとっては複雑な商品も簡単にセットアップしたし、分からないことも聞けば知っていて教えられる便利な人だったわけ。
結果的に、店とナイコン族の間にはある種の共生関係が出来てきた。
店にある機械を使わせてあげることで、ナイコン族は毎日店に現れるようになり、寄せ餌になって他のマニア(買えるぐらい金を持っている人もいるってわけ)も集まってくる。
結果的にナイコン族は客集めまでしてくれるほとんどタダで働くおいしいバイトだったわけ。
皮肉な見方をすれば、ブームが起こった状態ですら、その程度の市場で、実用性がなかったってことの裏返しな訳だけどね。
では、その毎日現れるナイコン族は店で何をやっていたのか?
なんと驚くべきことにプログラムを組んで遊んでいたのだ。
学校から帰れる4時頃には店に現れ、店が閉まるまでプログラム。日曜は朝の10時から夜の7時に店が閉まるまでプログラム。まさに店に居座ってプログラムをしていた。(いやまったく今から考えれば唖然とする話だ。今で言えば店先のマシンでゲームを遊んでいるのに感覚的には近いと思うけど、それにしても無茶だ)
なにせ、電気店なら自分の小遣いじゃ高くて買えないマシンもタダで使えるし、機種もたくさんあったし、メモリもだいたい目一杯に拡張されていた。
寝転がったり出来ないのを除けば、家でプログラムをするよりよっぽど楽しい場所だった。
てなわけで1977年頃から、電気屋のコンピュータが置いてある場所(コンピュータショップなんて気の利いたものはまだなかった)はナイコン族の溜り場となって、来る日も来る日も、マニアがプログラムを作っている不思議な場になっていった。
なにを隠そう、愛機を持っていた僕も「店に棲んでいるマニア」の一人だった。中学~高校の受験勉強なんてそっちのけで毎日コンピュータと共に暮らしていたってわけ。
こうして店に集まったマニア達。
毎日、同じ顔ぶれを見ていればだんだん顔なじみになるし、話もするようになる。話が合えば友達になっていく。(だいたいコンピュータの事しか話さないんだから合うに決っている)
段々、顔なじみが確実に集まるようになっていき、人数も増える。なんとなく仲間意識も出来て来る。
そしてある日、誰かが言い出した。
「コンピュータ倶楽部を作ろうじゃないか」
続きを読む▽
新たなコメントは【注】、最初からあったコメントは【原注】と表記している。
■■■
「ナイコン」…これってワケのわかんない言葉だよね。
この「ナイコン」、なにかって言うと、1976~80年ごろのマイコンはとてつもなく高くて、なーんの使い道もないし、なーんの実用性もないから親が買うわけもなくて、そして値段が高いから子供の小遣いで買えるわけもない代物だった。
けれども欲しい。
しかたないから雑誌を買ったり、本を読んだりして紙上でプログラムを勉強し、店先のコンピュータでプログラムを打ち込む、そんなコンピュータを持っていないコンピュータマニアを「コンピュータを持っているマニア=マイコン族」の逆、「ナイコン族」と呼んだわけ。
【注】 当時はパソコンではなく、マイクロコンピュータを略して「マイコン」と呼ばれていた。で、この「マイ」が「マイ・ホーム」なんかの「マイ」と同じなんで「マイ・コンピュータ」とも引っかけられていた。
だから「ナイ・コン」なんて言葉が成り立つ余地があったワケだ。
だから「ナイ・コン」なんて言葉が成り立つ余地があったワケだ。
ところで「なーんの実用性もない」と書いたけれど、これはマイコン黎明期、つまり1976-80頃のマシンのパフォーマンスを考えれば当り前。
フルセットのシステム、本体、専用グリーンディスプレイ、放電プリンタ、それにディスクを揃えれば(ディスクは存在すればだけど)100万円以上は当り前。その癖してメモリは8~20キロバイト程度。(奇跡的に32キロとか64キロってシステムは存在したけど)
漢字も出ないし、ソフトを立ち上げるのはだいたいカセットテープで、運良くテープリードエラーが起こらなくても立ち上げるのに10分以上かかる。だいたいそのソフトからしてベーシックがあれば運がいい方。
当然「市販ソフト」なんてないし、ましてやワープロ・スプレッドシートなんてまったくない。(漢字が出ないんだからワープロが出来ないのも当り前だけど)
パワーもなければソフトもない。まさにないないづくしな代物だったわけ。
【注】
■グリーンディスプレイ
当時はカラー表示なんて高級なマイコンにしかなかった。で、目が疲れない専用ディスプレイとして緑の文字を出すブラウン管があったのだ。
■放電プリンタ
当時主流だった安くて、それなりに使えるプリンタ。アルミ蒸着された特殊な紙を放電で焼くから「放電プリンタ」と呼ばれた。
■カセットテープ
オーディオ用のカセットテープを利用して、当時はデータやプログラムのセーブが行われていた。速度は110~2400bps。
■グリーンディスプレイ
当時はカラー表示なんて高級なマイコンにしかなかった。で、目が疲れない専用ディスプレイとして緑の文字を出すブラウン管があったのだ。
■放電プリンタ
当時主流だった安くて、それなりに使えるプリンタ。アルミ蒸着された特殊な紙を放電で焼くから「放電プリンタ」と呼ばれた。
■カセットテープ
オーディオ用のカセットテープを利用して、当時はデータやプログラムのセーブが行われていた。速度は110~2400bps。
こういうポンコツが電気屋の店先で麗々しく「マイクロ・コンピュータ(無限の可能性を持つ!)」として飾られていたわけだけど…電気屋の店員にとっては、こいつはまさしく頭痛のタネだった。
「なーんにも使えないゴミのごとき商品」なのに「やたらめったら商品説明が難しい」のだ。
実はこのことは今でも本質的には変らない。コンピュータほど「何に使えますか?」と聞かれて困る物も珍しい。
プログラムを組んで、周辺機器を作れるなら(しかもとんでもなく難しいわけでもない。ある程度の努力をすれば誰でも出来る(!))炊飯器の制御だろうと、シャッターの開け閉めだろうとワープロだろうと電話の制御だろうと、およそ考え付くことなんでも出来るんだから「何に使えますか?」と言われて困るのが当り前。
今は単に「ワープロ」とか「ゲーム」とか「表計算」とか「データベース」なんかに代表される『コンピュータでやれること』を普通の人が認識しているから、店の人も「ワープロに使える」とか「家計簿に使える」って言うだけ。
【注】 ここにインターネットとメールが入っていないのは、当時はインターネットもメールも普及していなかったから。当時、パソコン使う上で最も大きな要素はワープロだった。
コンピュータに出来ることが1977年当時から変ってしまったわけじゃない。
単に1977-80年当時のマイコンでワープロとか表計算をするのには1000万円とか2000万円とかの家が一軒買えるほどの金が掛かっただけで、出来ないわけではなかったのだ。
当時のコンピュータでリーズナブルな金の範疇で出来ることは「単純なゲーム」と「ベーシックを動かしてプログラムを組んで遊ぶ」だけだった、と言うのが正しいわけ。
だけど「単純なゲームを自分で組んで遊べます」じゃマニア以外は買わないから「無限の可能性を持っていてプログラムでなんでも出来る」なんてかっこいい台詞で何も知らない素人に押し付けていたわけ。
それでもまだ、こんなワケの分からない商品を面白がって触るのは好奇心旺盛な人間、それも一部の新しいモノ好きの金持ちだけ。店の売り上げから見れば「小さな商売」だったのだ。
そこに「マイコンブーム」ってのが起こって、マイコンは一般に広く名前が知られるようになり、一般の人の興味を引くことになった。
【注】 マイコンブーム時代、出来るサラリーマンはBASICを使いこなす、なんて本まであった。とても信じられないだろうが。
店にマイコンを買いに来る人は後を絶たなくなり、店の売り上げはどんどん伸びた。ところがコンピュータは「拡張機器」とか「ソフト」って奴があるおかげで、売りっぱなしあとは修理以外は知りません、なんて言えるもんじゃない。
アフターサービスが当時の他の電気商品より遥かに複雑だったわけだね。
だから電気屋の店員は、売ってもいないソフトのサポートをしないといけないし、ブームのおかげで、どんどん新製品が出るしでとんでもなく大変だった。
そこに現れた便利な「ヤツ」がナイコン族(マニアだけどね)。
ナイコン族は新製品を店員よりも良く知ってたし、店にとっては複雑な商品も簡単にセットアップしたし、分からないことも聞けば知っていて教えられる便利な人だったわけ。
結果的に、店とナイコン族の間にはある種の共生関係が出来てきた。
店にある機械を使わせてあげることで、ナイコン族は毎日店に現れるようになり、寄せ餌になって他のマニア(買えるぐらい金を持っている人もいるってわけ)も集まってくる。
結果的にナイコン族は客集めまでしてくれるほとんどタダで働くおいしいバイトだったわけ。
皮肉な見方をすれば、ブームが起こった状態ですら、その程度の市場で、実用性がなかったってことの裏返しな訳だけどね。
では、その毎日現れるナイコン族は店で何をやっていたのか?
なんと驚くべきことにプログラムを組んで遊んでいたのだ。
学校から帰れる4時頃には店に現れ、店が閉まるまでプログラム。日曜は朝の10時から夜の7時に店が閉まるまでプログラム。まさに店に居座ってプログラムをしていた。(いやまったく今から考えれば唖然とする話だ。今で言えば店先のマシンでゲームを遊んでいるのに感覚的には近いと思うけど、それにしても無茶だ)
なにせ、電気店なら自分の小遣いじゃ高くて買えないマシンもタダで使えるし、機種もたくさんあったし、メモリもだいたい目一杯に拡張されていた。
寝転がったり出来ないのを除けば、家でプログラムをするよりよっぽど楽しい場所だった。
てなわけで1977年頃から、電気屋のコンピュータが置いてある場所(コンピュータショップなんて気の利いたものはまだなかった)はナイコン族の溜り場となって、来る日も来る日も、マニアがプログラムを作っている不思議な場になっていった。
なにを隠そう、愛機を持っていた僕も「店に棲んでいるマニア」の一人だった。中学~高校の受験勉強なんてそっちのけで毎日コンピュータと共に暮らしていたってわけ。
【注】 ここに書かれていることは、今の人達に取って全く信じられない話だろうが、嘘も偽りもない本当だ。僕の場合には学校が終わったらともかく店に来て、店で4時-8時ぐらいまでプログラムし、そのあとゲーセンに行って遊ぶという生活をしていた
こうして店に集まったマニア達。
毎日、同じ顔ぶれを見ていればだんだん顔なじみになるし、話もするようになる。話が合えば友達になっていく。(だいたいコンピュータの事しか話さないんだから合うに決っている)
段々、顔なじみが確実に集まるようになっていき、人数も増える。なんとなく仲間意識も出来て来る。
そしてある日、誰かが言い出した。
「コンピュータ倶楽部を作ろうじゃないか」
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2010-07-27 Tue [ Ysを作った頃 ]
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかくこのあたりで作っていたパート、エンディングに関してだ。
イース1・2のエンディングはゲームのお話の終わりになっているビジュアルとスタッフロールの2段階になっているが、今回ネタにするのは、前者のほう。僕は前者をエンディング、後者をグランド・フィナーレとか呼んでいた。
これまた物議をかもして、21年前のゲームなのに、いまだもってこれがあるから許せないとか語る人が多いエンディングにまつわる話だ。
コンテはむろん言うまでもなく、あの山根ともおの作品だが、ほぼ山根に勝手にやらせたコンテだが、エンディングについては僕からの指定が2つあった。
一つめがPC版のエンディングの絵は全部いれること。つまりPC版のエンディングの絵が全部入っているコンテを書いてくれ、ということ。
ただしこれは山根は1枚だけ絵を切ってしまった。
それはフィーナが「お別れです」という1枚絵なのだが、山根は「「お別れはその前の二人だけのシーンで終わっているのに、もう一度お別れですというのは意味がない(ゴー)」と主張し、僕も「ああ、それは納得がいく」ということで削除になった。
2つ目が、絵に関すること。
バギュ=バデット、つまり空に飛んだあとのイースの穴にもう一度イースが着陸している絵を入れてくれってことだ。
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過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
■■■
このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかくこのあたりで作っていたパート、エンディングに関してだ。
イース1・2のエンディングはゲームのお話の終わりになっているビジュアルとスタッフロールの2段階になっているが、今回ネタにするのは、前者のほう。僕は前者をエンディング、後者をグランド・フィナーレとか呼んでいた。
これまた物議をかもして、21年前のゲームなのに、いまだもってこれがあるから許せないとか語る人が多いエンディングにまつわる話だ。
コンテはむろん言うまでもなく、あの山根ともおの作品だが、ほぼ山根に勝手にやらせたコンテだが、エンディングについては僕からの指定が2つあった。
一つめがPC版のエンディングの絵は全部いれること。つまりPC版のエンディングの絵が全部入っているコンテを書いてくれ、ということ。
ただしこれは山根は1枚だけ絵を切ってしまった。
それはフィーナが「お別れです」という1枚絵なのだが、山根は「「お別れはその前の二人だけのシーンで終わっているのに、もう一度お別れですというのは意味がない(ゴー)」と主張し、僕も「ああ、それは納得がいく」ということで削除になった。
【注】 この「お別れです」の代わりに玉が降りてくるシーンを山根は入れた。最初は乳首を書いてて「見えないからいいじゃないっすかゴー」とかいってたが、全くメモリの余力がなく、見えやしない乳首は抹殺された(笑)。
2つ目が、絵に関すること。
バギュ=バデット、つまり空に飛んだあとのイースの穴にもう一度イースが着陸している絵を入れてくれってことだ。
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2010-07-18 Sun [ ゲーム作りライフ ]
これはある雑誌のために連載される予定だった文だ。
ところが雑誌の企画自体が消えてしまう呆然の展開になってしまったために、宙に浮いてしまったので、もったいないから、これをblogにアップすることにした。
5回分ぐらいの文がたまっているので、それを今のデータに書き直しつつ、アップしていくつもり。
そのあと、どうするかはなーんも考えてない(笑)
ところが雑誌の企画自体が消えてしまう呆然の展開になってしまったために、宙に浮いてしまったので、もったいないから、これをblogにアップすることにした。
5回分ぐらいの文がたまっているので、それを今のデータに書き直しつつ、アップしていくつもり。
そのあと、どうするかはなーんも考えてない(笑)
超久しぶりに続き。
前述した国策としてネットワーク大国を目指したのにうまく『ディアブロ』と『スタークラフト』という韓国人の国民性にマッチしたネットワーク(対応)ゲームの名作が発売され、一気に「ゲームといえばネットワークだ」という雰囲気が盛り上がったからオンラインゲームが『主流』になったならわかるがオンラインゲームしかないのはおかしい…ということに触れた文章は不勉強なのか、少なくとも僕は読んだことはない。
つまり問いは、こうなる。
インターネットが普及し、ネットワークゲームが流行するまでに、コンソールにもパソコンにも膨大な量のゲームが発売されていた。そして韓国は日本の隣なのにそれらのゲームが売られていた市場はどこにいったんだ?ということだ。
その答えは…
コンソールゲーム・PCゲームを問わず、過去の韓国はコピー天国で、今ではコピーは減ったが、今度は中古天国で、一握りの新品と山のような中古が売られていて「市場としてまともに成り立ったことが一度もない」
という、とんでもない事実だ。続きを読む▽
2010-07-10 Sat [ Ysを作った頃 ]
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかく8-9月ともなると、ゲームの制作は最終段階に入りつつあった。
ザコ・ボスのバランスの調整、山根の書いてくるビジュアルデータを入れる - まだ8-9月あたりでは、エンディングとインターミッション(1と2の間のデモ)は完成していなかっし、エンディングも出来ていなかった - さらにテキストの直し、バランスの取り直し・ボスの作成、デバッグとてんてこまいだった。
正直、どれだけ人手があっても足りない状況で、僕は長山豊というハドソンにいた男をとっ掴まえて、テキストの直しを手伝ってもらうことにした。
スタッフロールのシナリオ再構成のところに名前が入っているスタッフだが、8月あたりから後、実質フルタイムで手伝ってもらったメンバーの一人だ。
スタッフロールに載っている人達は、当たり前のことながら全員仕事はしてもらっているわけだが、仕事量にはずいぶんばらつきはある。
例えばビジュアルの人手が足りなくて、久保君やらに無理矢理手伝ってもらったりしてはいたが、これはあくまで一時的に片手間で手伝ってもらったわけで、フルタイムで手伝ってもらったわけではない(アーティストは一時的に手伝ってもらった人は多い)。
フルタイムで手伝ってもらったのは、若い衆(芳賀・蛯名・佐橋・沢口・杉本)を除けば、途中からではあっても、長山君ぐらいだ。
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過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
■■■
このあたりは色々な作業が重なっていて、単純に月で書けない話になっちゃってるけど、ともかく8-9月ともなると、ゲームの制作は最終段階に入りつつあった。
ザコ・ボスのバランスの調整、山根の書いてくるビジュアルデータを入れる - まだ8-9月あたりでは、エンディングとインターミッション(1と2の間のデモ)は完成していなかっし、エンディングも出来ていなかった - さらにテキストの直し、バランスの取り直し・ボスの作成、デバッグとてんてこまいだった。
正直、どれだけ人手があっても足りない状況で、僕は長山豊というハドソンにいた男をとっ掴まえて、テキストの直しを手伝ってもらうことにした。
スタッフロールのシナリオ再構成のところに名前が入っているスタッフだが、8月あたりから後、実質フルタイムで手伝ってもらったメンバーの一人だ。
スタッフロールに載っている人達は、当たり前のことながら全員仕事はしてもらっているわけだが、仕事量にはずいぶんばらつきはある。
例えばビジュアルの人手が足りなくて、久保君やらに無理矢理手伝ってもらったりしてはいたが、これはあくまで一時的に片手間で手伝ってもらったわけで、フルタイムで手伝ってもらったわけではない(アーティストは一時的に手伝ってもらった人は多い)。
フルタイムで手伝ってもらったのは、若い衆(芳賀・蛯名・佐橋・沢口・杉本)を除けば、途中からではあっても、長山君ぐらいだ。
【注】 ちなみに久保君は、クボキュウと呼ばれていたアーティストだが、自分の知っている中では、最もシャープなドットを置く2Dアーティストで、ドットだけなら山根よりすごいと思った。天外2でとっ捕まえて、一緒に仕事した。
あんまりドットがうまいもんで「ドットだけなら、山根よりうめえよな」と言ったら「失礼な! 俺の本当の実力を知りませんね、ゴー!」とか山根は言っていたが、本人もドットは久保君のほうが上だと思ってたようだ。
あんまりドットがうまいもんで「ドットだけなら、山根よりうめえよな」と言ったら「失礼な! 俺の本当の実力を知りませんね、ゴー!」とか山根は言っていたが、本人もドットは久保君のほうが上だと思ってたようだ。
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2010-06-25 Fri [ Ysを作った頃 ]
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
続くと前項で書いたけど、別に続けなくてイイヤと思ったので、やんぺ。
豪華声優と言われるイース1・2だが、決め方は簡単だった。
当時も、そして今もそうだが、僕はさっぱり声優さんとかわからない。また、アニメはいっぱい見るが「声」で覚えることはさっぱり出来ない。だから声優さんを選んでくれといわれると「あの作品のXXをやっていた人」という表現しか出来ない。
実は映画でもたいていそうでストーリーや場面は一度見たら30年経っても、セリフまでいえるぐらいだが「役者(の本名)および役名」は即忘れしてしまうことがほとんど。例えば「マスク」のジム・キャリーは一発で覚えたが、相手役の女の子が美人なのは覚えていたが、まさかそれがキャメロン・ディアスだったとか、そういうのが全然ダメ。「すげえ美人の金髪の女の子」としか言えない。
そんな余談はともかくとして、声優をまるで知らない人間が、声優さんをどんな風に決めたかと言うと、都合がいいことに、当時ハドソンの入っていたビルの1Fに大きなレンタルビデオがあった。そこでともかくアニメビデオを借りまくって、スタッフみんなで見まくってこれが良さそうという面子をかき集めたのだ。
それでハドソン東京にリストを出したら、声優さんの所属プロダクションが複数あって調整が取れないから、青二プロダクションに一本化してくれ、と言われ、青二プロダクションの声優カタログがやってきた。
そこで「これが良さそう」と選んだメンツから、青二プロダクションに所属している人はそのまま決まりで、足りなくなった人を、またみんなでCD聞き倒して選んだだけだ。
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過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
■■■
続くと前項で書いたけど、別に続けなくてイイヤと思ったので、やんぺ。
豪華声優と言われるイース1・2だが、決め方は簡単だった。
当時も、そして今もそうだが、僕はさっぱり声優さんとかわからない。また、アニメはいっぱい見るが「声」で覚えることはさっぱり出来ない。だから声優さんを選んでくれといわれると「あの作品のXXをやっていた人」という表現しか出来ない。
実は映画でもたいていそうでストーリーや場面は一度見たら30年経っても、セリフまでいえるぐらいだが「役者(の本名)および役名」は即忘れしてしまうことがほとんど。例えば「マスク」のジム・キャリーは一発で覚えたが、相手役の女の子が美人なのは覚えていたが、まさかそれがキャメロン・ディアスだったとか、そういうのが全然ダメ。「すげえ美人の金髪の女の子」としか言えない。
そんな余談はともかくとして、声優をまるで知らない人間が、声優さんをどんな風に決めたかと言うと、都合がいいことに、当時ハドソンの入っていたビルの1Fに大きなレンタルビデオがあった。そこでともかくアニメビデオを借りまくって、スタッフみんなで見まくってこれが良さそうという面子をかき集めたのだ。
【注】 そのレンタルビデオ屋のあった場所をストリートビューでチェックしたらドコモショップになっていた。Hahi君とやたらほっけ定食を食った定食屋もなくなっていた。諸行無常だ。
それでハドソン東京にリストを出したら、声優さんの所属プロダクションが複数あって調整が取れないから、青二プロダクションに一本化してくれ、と言われ、青二プロダクションの声優カタログがやってきた。
そこで「これが良さそう」と選んだメンツから、青二プロダクションに所属している人はそのまま決まりで、足りなくなった人を、またみんなでCD聞き倒して選んだだけだ。
【注】 声優カタログとは声優さんの顔写真や、やってきた仕事が収録され、一緒にCDが付属していて、ひたすら声優さんの自己紹介+演技(2分程度ある)が入っているという代物。今なら電子化されているのかも知れないが、当時はカタログがプロダクションからやってきた。青二プロダクションに統一してくれと言われた理由は不明。当時、ハドソンは東映と距離が近かったのかと思ったら、高橋名人の映画は東宝だし、Bugってハニーは東京ムービー新社。なんで青二プロダクションだったんだろう…
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