イースⅠ・Ⅱ通史(18):イースⅠ・Ⅱ始まる

イースの移植の話が始まったのは、僕がハドソンでPC-8801(MkⅡ SR)版『イースⅡ』にハマっていたから。

1989年1月、デビュー作の『凄ノ王伝説』がデバッグに入っていてヒマになっていたのもあり、北海道ハドソン技術本部4Fの開発の隅にあった企画のエリアに入り浸って『イースⅡ』(88年発売)で遊び倒していた。

プロデビュー作。88年に制作を開始し、89年までかかった。

正確には一度は遊んでいたのだけど、もちろん『凄ノ王伝説』を作っているわけで、そのあと遊ぶヒマがなかったのだ。ハドソンの僕の机にあったのはPCエンジンとファミコンで、遊ぶチャンスがちょっとしかなかったのである。
そして遊ぶヒマが出来てからは2回クリアして、毎日デモ眺めてたんだから、どんだけ好きなんだと自分でも思ってしまう。

そこに当時ハドソンの常務だった中本さんが「そんなにイースが面白いんだったら移植をしないか?」ともちかけてきた。

もともと僕はゲームを作る上で、ビジュアル指向・映像指向が強い人間でデビュー作の『凄ノ王伝説』でもイースのデモ1個分ぐらいのROMを使ってビジュアルシーンを作ったわけだけど、正直、やりたいことは全然できず、半導体ROMの容量の厳しさ(今の人にわかりやすい数字で言うと、0.25~0.5メガバイト程度)ウンザリしていた。
だから音声や一枚絵を入れられるCDROMでゲームを作りたくてしょうがなかった。

自分の隣のブースでCDROMの強みを爆発させた最初の作品と個人的には思っている『コブラ 黒竜王の伝説』が作られていて、そこでご機嫌にROMでは絶対不可能な枚数の画面出しまくりながら、故・山田康雄さんがしゃべってる(何度か書いているが寺沢先生の希望)のを見てるんだから、そりゃあ作りたい。

『イースⅡ』のデモをCDROM音源ブチかましながらやったら、絶対に気持ちいいに決まってる。

だから中本さんの話に「I・Ⅱ合わせて1本にすれば、CDROMの大容量のアピールになるし、売れる。それならやるよ」と逆提案をした。

この提案をして、しばらくの間(1-2週間程度と覚えている)中本さんから「Ⅰだけじゃだめか?」とか「Ⅱだけじゃダメか?」なんて聞かれたのだけど(Ⅱはコンソール移植がなく、価値が高かった)Ⅰが前編、Ⅱが後編なのだから「イースは2つ合わせて1本だから、2本同時じゃないとダメです」と言っていた。

今更の話だけど、この中本さんとの会話を思い出すと30年前の僕は本当に何もわかっていなかったのだなあと思う。

「Ⅱだけじゃだめ?」とか聞かれたのは予算の問題に決まっている。
『イース』は、もちろん社内制作のゲームではないんだからライセンス料とロイヤリティがかかる。
で、『Ⅰ・Ⅱ』を作れば2本分のライセンス料とロイヤリティを払わなければならないのは明白だ。
それを2本にして売るならともかく、1本にまとめたら採算点が高すぎて、どう考えても、まともな企画じゃない。

なんも金のことわかってないバカガキが「前・後編なんだから2本一緒じゃないとダメっすよ」とかヌカしてんだから、今の僕ならはったおす。

あんま儲からなくてもCDROMの大容量をわかりやすくアピールするメリットは大きいと判断してくれたのかなあとか思いつつも、26歳のよくわかんないガキの、イマイチなゲームしか作ってないくせに自信満々なセリフを信じて、ぶっちゃけメチャクチャな企画をやると決めたんだから、当時のハドソンの勢いは感じてしまう。

そしてハドソンの中では「やる」ってコトになり、当時立川にあったファルコムに行くという話になった。
これが89年の2月中旬、『凄ノ王伝説』のマスター直後だったと記憶している。

当たり前だけど、ヒマと書いたけれど、本格的なデバッグに入っていて、コードもバランスも触っちゃいけないからヒマというだけで、もちろんバグが出たら直さないといけないし、ある程度プレイされたら、それをROMにフィードバックしてバランスも調整しないといけない。
今ならリモートワークで余裕だろうが、当時はteam viewerもgoogle remote desktopも存在しないのだ。

当時、デバッグの時、一番一生懸命調整したバトル。
30年ぶりにプレイして「やりすぎ」と思った。

ところで、この当時、自分がどうしてファルコムに行かなければいけないのかよくわからなかったが、1巻を読んだ人なら100%わかるだろうけれど、この当時、ハドソン…というか、中本さんはメインプログラマを連れて、相手の会社に行く習慣があったのだ。

そしてファルコムは30年前も立川にあったので、僕は中本さんに連れられ、立川に行くことになった。
会議の出席者は中本さん・営業のZ・僕がハドソン側の出席者で、加藤さんと専務か誰かがファルコム側の出席者だったと記憶している。

さて、会議は、僕には大変に厳しいものになった。

「どんな移植をするつもりなんだ」と聞かれたとき「CDの容量を活かして2本を1本にまとめ、オリジナルを尊重して音楽は…」などと説明しても、当時の社長だった加藤さん(現会長)の表情は硬く、何かというと「いやあ、前回は」みたいなセリフを言われまくる展開。
ぶっちゃけ許してほしいと思った。

しかも、そのとき、僕は『ファザナドゥ』が全然違うのはもちろん知っていたけれど、やらかしたことは知らなかった。
開発経緯の中本さんが奥野さんを連れてきて移植すると加藤社長に説明したことや、ファルコムの金看板だから心配されたことや、さらには派手に遅れたことなどはまーるで知らなかったのだ。
だから全く理不尽な気持ちで、しかも針のむしろもいいところで「ゲームをこう移植しますって説明してるのに、どうしてこんなに冷たい扱いを受けなきゃいけないんだ」と思っていた。

自分の経験でこれより厳しい会議は、角川メディアオフィスと付き合いが始まったころPC-8801FAの添付ソフトのお手伝いをしたのだけど、ワケもわからずNECに連れていかれたら、メインプログラマが逃げやがって、僕がメインプログラマと間違って詰められた時だけだ(これが本当なのがとんでもないが)

そしていくらなら移植を…という話になったとき、30年前の話であり、記録として残しておく目的もあるので、自分が記憶している金額を書こうか迷ったのだけど、やっぱなんか微妙な気持ちなので書かない。
ともかく、加藤社長は許諾料だけで、ちょっと腰を抜かす金額を言って、僕は「ゲッ」と思った。

正直な話、絶対に移植して欲しくなかったのだろう。
といって、今までのハドソンとの付き合いもあるわけで、断るわけにもいかないから「この値段なら移植されてもしょうがないや」ぐらいの金額をふっかけたと思っている。

ところが中本さんは、本当になんの逡巡もなく、即決。
加藤社長が言った次の瞬間「わかりました、それでいきましょう」と言っていた。

しかも営業のZが「それじゃあ元が取れない」と、本当にその場で抗議したのに対して「これでCDROMの台数を増やして元を取ればいいべ!」と言い放ってしまった。

当時の僕は、商売のことがよくわかってなかったので「スゲエ!」で終わりだったのだけど、今から考えれば、メチャクチャもいいところだ。

商売として見たら、Zの主張の方が少なくとも短期的に見れば圧倒的に正しい

簡単に1枚のお値段を8000円として40%を出荷価格(当時は下は2?%ぐらいから、上は50%ぐらいまでがメーカー出荷価格)と仮定して3200円。製造原価トータル1000円として粗利2200円。
面倒なので2000円とするとして、言われた金額を割り算すると、ウン万がぶっ飛んでしまう

しかも払う金はそれだけではなく、ロイヤリティもあるし、さらに開発費もあるし、僕の外注費も、アルファに払う金もある。

対して、当時のCDROMのユニット数は出荷ベースでせいぜい10万台ぐらい。
仮に10万人のユーザーがいたとして、アタッチレートが100%だとしても、結構厳しいというか、常識的な会社の判断としては「ない」なのは間違いない。

そのムチャな条件で、しかも 『凄ノ王伝説』なんてワケのわからないRPGを1本作っただけの、実力不明のワケのわかんねえガキにやらせると即決したんだから、度胸を通り越して、無茶・無謀だと、今では思うのだけど、いずれにしても、こうしてイースⅠ・Ⅱの開発は始まったのである。

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1件のコメント

  • 家庭用ゲームの歴史上、後付けの周辺機器で普及・移行が完全に成功した例はたぶんCD-ROM2だけではないでしょうか。
    (しかもあの高価格で、おまけにその後さらにSUPER CD-ROM2への移行も成功させている!)
    その背景には中本さんのそうした英断も大きかったのかなぁと感じずにはいられないエピソードですね。

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