イースⅠ・Ⅱ通史(9):『ファザナドゥ』開発物語(2/終)
これはイース通史の中で、イースとは直接的には関わりのないエピソードなのだけど、ハドソンが『イースⅠ・Ⅱ』の許諾を取る上では、大きな問題になった…と思われる『ファザナドゥ』の制作エピソード。
パート2。パート1はカテゴリで読んでください。
ところで前回「1986年末に3月リリース」と、年末あたりのインタビューで奥野さんが言っていたのがSNSで驚かれていたけれど、当時のスケジュール感を考えると、3月はムリかもしれないが4月ぐらいならあり得る感覚なのだ。
雑誌には年末進行(〆切が凄く早くなる)があるので、奥野さんが取材を受けたのは、どれだけ遅くても12月の頭、下手をすると11月後半。
3月31日までと考えると、12-1-2-3で、約4か月。
1月にマスターを入れたことはないけれど、当時のテレビゲーム業界的には農閑期なので、マスターから製品までの期間が短いだろうと想像できる。で、2か月だとすると、1月いっぱいで、開発期間が2か月+ぐらいはあることになる。同じように4月中、GW前にリリースでいいなら、開発期間は3か月あることになる。
そこで、この証言。
■ハドソン関係者の証言
自分の中では5か月のプロジェクトというとかなり悠長な感じ。当時は3か月も長いと。調整期間も無く、ほぼオールイン=マスターアップで、軽くデバッグして終わりの感覚だったよ。
つまり、奥野さんがインタビューに答えていたのは、春ならあながち不可能ではないという話になるのだけど、そんなことを言っていた奥野さんにとんでもないコトが起こる。
それは…なんと、北海道への転勤だった。
前回も書いたが、1987年当時、ハドソンは東京(市ヶ谷と飯田橋の間)と札幌の両方に開発拠点を持っていたのだけど、東京の開発拠点を引き払って、札幌に全部集めるという決断を下すのだ。
と、ここで、ハドソン東京開発の歴史を簡単に書いておきたい。
まずハドソンは最初、東京の麹町に支社を作る。
■ハドソン関係者の証言
あの頃の東京の技術スタッフは中本、竹部、岡田、小山、飛田で、次の年に入ったのが高野、三田村、この位までが麹町の創世記を知っているメンバーだと思う。
これが1981年ごろ。
そのあと1984年ごろに市ヶ谷に引っ越す。たぶん、ファミコンで会社が一気に大きくなり始めたので、移転したということだろう。で、このとき、奥野さんもハドソンに入った(そして『忍者ハットリ君』を作る)。
■ハドソン関係者の証言
その後、市ヶ谷に引っ越して3年くらいして開発室が全部札幌に移動したのです。最初は2年行ってくれと言われていたのに、2年経ったら東京には開発室が無くなって、そのまま札幌にいることになったんですよ。
この3年ぐらいして、というのが1987年の初頭で、奥野さんも札幌に転勤という話になってしまうのだ。
だから部屋も探さなければならないし、引っ越しの用意もある。
こんな状態で『ザナドゥ』の移植ができるわけもなく、ドタバタしているうちにまた時間が過ぎてしまう。
なお、ハドソンの東京開発は『ネクロマンサー』が終了するまではあったらしいので、1987年の末まではあったと思われる。クローズがいつかはよくわからなかった。
で、ようやく札幌で落ち着いた2月ごろに、奥野さんの記憶では中本さんらしいのだけど…突然「ザナドゥどうなってんの?」という話をされる。
中本さんも上から言われたんだろうと想像できる。
多分だけど、ファルコムから「どうなってんの?」と誰かがつつかれて、誰かに中本さんがつつかれ、そして奥野さんがつつかれたと言う事だ。
推測だけど、ここで「夏、発売だからね」と言われたと思われる。
もしかしたら「春予定(コロコロでは3月とか言ってたし)なのを延期してるから、夏な」みたいな話だったのかもしれない
移植のメインプログラマに炎上処理させておいて「どうなってんの?」もないと思うが、この当時のハドソンの混沌ぶりがよくわかる話だ。
かなり奥野さんはカチンと来たらしいが、ようやくここで『ザナドゥ』の移植を始めることになる。
チームの陣容は以下のごとし。
役割 | 名前 |
プログラム | 奥野 |
ウィンドウシステム | 小山(ヘクター) |
グラフィック | 岡本 |
企画・シナリオ | 内村 |
サウンド | 滝本 |
作曲 | 竹間 |
ただ、奥野さんは開発は2~3月にスタートしたと記憶しているのだけど、これには少し記憶違いが入っている可能性が高い。
というのも、ウィンドウシステムを書いているヘクターさんは、この時、『ヘクター87』を作っている。だから『ファザナドゥ』に入れたはずもない。
まだ雪が残っていたとき『ヘクター87』の企画会議があって、ヘクター(小山さん)大変だなあと思っていたという話が複数あるのに加えて、『ヘクター87』チームのメンバーがゴールデンウィーク明けにマスター休みを取ったと証言している。
つまり『ヘクター87』のマスターはゴールデンウィークあたりなのは間違いない。
言い換えれば、それより前にヘクターさんが入れたはずがない。
だから2~3月頃に「作れ」と言われて、夏発売予定でスタートしたのはいいけれど、ゲームはプログラマ1人でなんとかなるサイズではなくなりつつある時代で、間に合わず、夏は無理で秋に延期され『ヘクター87』が終了したゴールデンウィーク後にヘクターさんがサブプログラマとして合流したのが真相だろう。
『ファザナドゥ』は、発売予定が春→夏→秋と3回延長しているのだけど、開発体制がまるで整っていないドタバタが関係しているのは間違いない。
奥野さんが「最初に移植をスタートするとき、〆切まで2カ月ないぐらいだったと思う」と言っていたのだけど、北海道で開発を始めたときは夏発売が予定だったとすると『ヘクター87』と〆切がほぼ同じということになるので、つじつまがあう。
そして、このドタバタの急いで作らなければならない状態で、さらにとんでもない事実が発覚する。
それはハドソンには「まるで『ザナドゥ』の資料がなかった。ソースもテキストも何もなかった」、つまり、まるでファルコムから資料を取り寄せていなかったということだ。
全くとんでもない話なのだけど、また反面、ちょっとわからないでもない。
というのも、ハドソンではソースや資料をちゃんともらって移植する『高橋名人の冒険島』の小山さん(『R-TYPE』の和泉さんもそうだけど)のような人もいたけれど、第一世代の面々は、当時のアクションやシューティングなら、目コピでもそれなりに作ることが出来るのもあって「ソースがあればもらうけど、ないなら目コピね」みたいな、資料に対する重要度が低い、目コピ上等の人たちだ。
だから資料のことを気にしていなかったのではないか…とは思う。
でもRPGは背後に隠れているパラメータの量や計算が多く、目コピで作るのは不可能ではないが猛烈に時間がかかる。
だから資料は絶対にあった方がいい…のだけど、これが残念なことに、当時のハドソンはまだRPGを一本も作ったことがない会社。
RPGの面倒くささを知るわけもないので、資料の重要性がわかっていなかったのではないか…と思う。
でも、この推測が当たっていたとしても、雑、なのは間違いない。
なお、ハドソン最初の本格的なRPGは『桃太郎伝説』で、これはまさに横で作っている最中。しかも作者はさくま先生・桝田さんでコアゲームデザインにはハドソンは関わっていない。
では、すぐに資料を取り寄せれば?
当時はネットワークもなくて、資料のかなりの部分が間違いなくアナログデータだ。
ファルコムで集める時間まで含めれば、資料を取り寄せるだけで2週間ぐらいは使ってしまうだろうし(北海道まで誰かが手で持って行っても、軽く半日は時間がかかる)。さらに解析には1カ月以上はかかるだろう。
そして、奥野さんがスタートしたときは「夏発売予定」。〆切まで2カ月そこそこという状態だ。そんなことをやっている時間はどこにもない。
奥野さんは「どうすれば納期に間に合うか?」を考えた。
はっきり書くなら納期最優先だ。
本人曰く「もうパニックに近かったよ」。
そして出した判断は…
- グラフィックについては 基本リアルな感じのものにする。
- 2頭身とかの ピコピコキャラは 恰好悪いので キャラのプロポーションは良くする。ピコピコ足すりアニメーションにならないスプライトのシステムを作る。
- 全画面スクロールにしたいがドライバやツールが間に合わないので画面単位のスクロールにする(当時はまだ汎用化されたグラフィックエディタがないので、タイトルごとにツールを作っている時代)。
- システムはアクションなんだからジャンプは必要。飛んでから調整とかできない仕様。
- RPGだから経験値とかの数値・アイテム・魔法を入れる。
- ストーリーは、王様にお使いを頼まれるべたなストーリー。世界を救う。あとは担当おまかせ。メッセージは漢字を使いたい。
つまり納期に間に合わせるために 『ザナドゥ』の移植ではなく、 オリジナルのゲームを作りはじめるのだ。
そしてそれで開発を突っ走り、8月のお盆の時期にマスターを入れて、1987年の11月に発売されることになったわけだ。
そりゃあ…別物になるよ、うん。
マニュアルとゲームの内容に齟齬があるとか、ゲームでしゃべるセリフと実際のゲームにズレがあるといった問題がインターネットを調べると出てくるのだけど、奥野さんによると「ともかく通りいっぺんデバッグして、マスターブチこんだ」みたいな感じだったらしいので、そりゃあそういう齟齬も出まくるよねと思う。
これが『ファザナドゥ』開発の本当の物語だ。
奥野さんは「全く自分の都合で進行させてしまい、しくじり先生以外の何物でもない」と言っていたのだけど、僕は奥野さんの判断はムチャだとは思うけれど、あまり責められない。
そもそも移植しろと言った会社が炎上処理をさせてたことがムチャだし、RPGの移植で資料を用意していないなんてどうかしてる(ただしRPGを移植したことがなかったのでわからなかったのだろうとは思う)。
また『ザナドゥ』と全く違うことは百も承知なのだから「これ『ザナドゥ』じゃないじゃん」と止めることだって出来たはずだし、名前はあえて外してオリジナルアクションとして発売して『ザナドゥ』は仕切り直しって手もあったはずだ。
そういったことをせず『ファザナドゥ』として発売しているのだから、責任は当時の、それでいいと判断したハドソンにあると思う。
ところで開発してたとき、オリジナルと違うことを誰も気にしなかったのかと思ったのだけど、インタビューしたところ、スケジュールが厳しかったせいか、タコ部屋のように周囲と没交渉で開発していたらしく、ほとんど誰も見ていなかった(少なくともアートメンバーは「岡本さん大変そうだなあ」程度のことしか覚えていなかった)。
また数少ない知っていたメンバーによると「奥野は煮詰まり状態で、ちょっと言える雰囲気じゃなかった」とも言っていた。
ただ『ザナドゥ』のことを良く知っていた武藤さんは何と言ったのかは興味があるが…
また、他にも問題がある。
それは、仮に資料があって時間があっても、どのみち『ザナドゥ』を忠実に移植するのは、当時のファミコンでは難易度が高く、不可能に近かったことだ。
まず容量が厳しい。
ディスク2枚組ということは約640キロ。全部フルに詰めてないとしても、これを当時の256KB程度のROMに入れるのは至難の業だ。
加えてオリジナルの『ザナドゥ』はリソース管理の塊のようなゲームなので、セーブとワークエリアが大問題になる。
ファミコンの狭いRAMの上で管理するのはもちろん大変だし、仮に出来ても、あらゆる残数だのなんだのを保存しなければならないから、セーブをパスワードにすると実質的にプレイ不可能な長さになっただろう(少なくとも『ドラクエⅡ』より長くなったのは賭けてもいい)。
といって、当時はバッテリバックアップが標準化していないので(1987年はバッテリバックアップが売りになる)使うのも難しい。
と、もろもろのことを勘案すると、忠実に移植しようとすれば、泥沼にはまり込んで、結局『ザナドゥ』の中のどこかの要素を切り出して、出来上がったのは、なんだかよくわからないザナドゥ風味のゲームの可能性が高かったのは間違いない。
つまり『ザナドゥ』のファミコンへの移植は当時のハードウェア環境を考えればかなりムチャで、忠実な移植などやりようもなかったのだ。
ところが1年後の1988年なら、バックアップは使えるし4メガROMもある。かなりの精度の移植が出来たのも間違いないのが、この時代の怖いところ。1年発売がズレていれば、全く違ったことになってしまう。
そう考えると、実質的に原作を無視してオリジナルを作ってしまう方針は、怪我の功名でしかないとは言え、結果的にはファミコンのいいところを生かした作品になり、『ザナドゥ』という名前を忘れれば、よくできていると言える作品になったのだろう。
ただし。
それで僕が2年後の1989年に迷惑をこうむったのは、まあ間違いないけどね。
2件のコメント
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長年気になっていた「ファザナドゥ開発」の全容が明かされました。ありがとうございます。
私は、後半にまとめられていらした、「ハードの制約上、移植が難しく泣く泣く」、アクションゲームにデザインされたのでは?と考えていました。
でも事実は、もっと激しく凄まじかったです。当時、完成まで頑張られたスタッフの皆様に勇者の称号 と 拍手 を送りたいです。
ハドソンは、パスワードばかりでバッテリバックアップのゲーム少ないです。(製造コストの問題?)
88年発売でもバッテリーバックアップを採用できたかは疑問です。
87年秋発売のソフトでも、ウルティマ、アルテリオス、ファイナルファンタジー等が
バッテリーバックアップを採用していたので87年でも可能でしたし。