FF10の話(2) – ヘラクレスの栄光Ⅲの驚き
FF10の話。第2回。
シリーズは以下。
- FF10の話(12) – FFX・その4。主人公が消えるだって!?(終)
- FF10の話(11) – FFⅩ・その3 途方も無い世界
- FF10の話(10) – FFⅩ・その2 とんでもないオープニングの伏線
- FF10の話(9) – FFⅩ・その1 カットバックするゲーム
- FF10の話(8) – FFⅧ・その3 声のないゲームの問題
- FF10の話(7) – FFⅧ・その2 ジュブナイルとヒロイン
- FF10の話(6) – FFⅧ・その1 頭身モデルの統一とSDからの離別
- FF10の話(5) – FFⅦ・その3。そしてFFⅧに…
- FF10の話(4) – FFⅦ・その2 三人称の確立
- FF10の話(3) – FFⅦ・その1 映像ドラマの手法を使ったゲームの確立
- FF10の話(2) – ヘラクレスの栄光Ⅲの驚き
- FF10の話(1) – それは1991年から始まった
1991年当時、データイーストで『メタルマックス』を作っていた桝田さんから日記の話とかコマゴマと断片的に聞いてた、僕はワクワクしながら『ヘラクレスの栄光Ⅲ 神々の沈黙』のプレイを始めたわけだけど…
最初に書いておくと、ゲームの出来は相変わらずのDECOゲーだった。
操作性はヨロシクないし、バランスは変だし、グラフィックも素晴らしいとは言いがたい。
だけど、そんなことは僕にはどうでも良かった…というとウソになる。
気になった。ものすごくイロイロ気になった。
SFCのRPGとして見た時、既に『FFⅣ』が発売された後のRPGとしてみると、かなり微妙な出来だったと思う。
SFCは画面モードが複雑な上に、いろいろ扱いづらくて、めんどくさいことが多かったので、当時(1992初頭)のノウハウでは厳しかったのはわかるけれど、それでも高い質のグラフィックやプログラム…とは言いかねるのも事実だった。
ゲームシステム・マップ・モンスター・何をとっても微妙な出来と言わざるを得なかった。
特にバランスは問題がかなりあったし、戦闘の速度が微妙に遅いのと相まって、かなりイラっとするゲームだった。
でも、そういった様々な欠陥を乗り越えて、あまりある面白さがシナリオにあった。
とにかくシナリオが強烈で衝撃的だったのだけど、どこかでうまくリメイクされるチャンスがあったときの驚きと感動が残っていてほしいので、ここではネタバレは避けつつ、なぜ衝撃的だったのかについて、書いていきたい。
当時、ドラクエ以降、ゲームデザイナー達が困ってイロイロといじっていたポイントの一つにキャラクタの死があった。
これにシナリオ側からスゴい切り込みを見せたのが『ヘラクレスの栄光Ⅲ』だったのだけど、2014年現在の目から見ると、どうしてそれが問題だったのかわからないと思うので、根本から話をしていきたい。
ドラクエ以前、C(コンピュータ)RPGは、基本、キャラクタは死んだらそれまでだった。
というのも、CRPGはテーブルトークRPGがご先祖で、史上初のテーブルトークRPG『D&D』はTSRのボード系のウォーシミュレーションゲームがご先祖様。だから戦闘シミュレーションの要素が強く、そして、ムチャをすればどんなキャラクタでもルール上は死んでしまうのが当たり前だった。
これを始祖としてCRPGの始祖の一つ『ウィザードリィ』はできている。だからキャラクタは死んで蘇生に失敗すると、灰になり、さらに蘇生に失敗するとロストする。またもう一つの始祖『ウルティマ』は死んだら、最後にセーブしたポイントから。セーブしてから死ぬまでの間のことはすべてなかったことになる。
つまり、ゲームでも当たり前に『人間、死んだらそれまで』だったのだ。
この話は1987年に『ドラクエⅡ』が世紀の大ヒットを飛ばして、さらに88年に『ドラクエⅢ』、90年に『ドラクエⅣ』が発売され、まさに「RPGといえばドラクエ」の時代で、ゲームシステムは、ドラクエ準拠で、バトルで負けたら最後に立ち寄った宿屋・教会・その他、そういった機能を持っている拠点に戻されるのが当たり前だった時代だ。
この時代、今よくあるコンティニュー方式は異端だったと考えていいし、チェックポイントによる自動セーブなんて遥か先の話だ。
ところが、プレイヤー=主人公のゲームで起承転結のあるストーリーを最後まで楽しんでもらうことを前提にすると、お話の途中で主人公が死んで退場してしまうのは、打ち切りになる連載漫画じゃあるまいし、全く困ってしまう。
といって、当時のファミコンでコンティニューのためのメモリを用意するのも難しいし、だいいちコンティニューはユーザーへの負担が案外大きい。
ユーザーがセーブした時の状態を覚えておかないといけないし、セーブした所へ逆戻りルールにすると「ああっ、最後にセーブしたのっていつだっけ?」ってユーザーにとって致命的な問題が発生するし、セーブポイントの数も問題だ。
だからドラクエでは、プレイヤーキャラクタが死んだ時「おお●●●● しんでしまうとは なさけない おまえにもういちどきかいをやろう」という文章で、ペナルティとして持ち金半分にして、そのままあっさり生き返らせている(と、僕はこの生き返るシステムを捉えている)。
「死んでしまうとは情けない」ってのは、途方も無いラジカルな文章なのだけど、このシステムは真剣にゲームの事を考えだすととんでもない問題を引き起こす。
「どうしてプレイヤーは不死身なのか?」
これをお約束とせずに、真剣に捉えるとプレイヤーおよびプレイヤー周辺だけはなぜか不死身という話になる。
回りのNPCは死んだら終了なのに、なぜかプレイヤーおよびその周辺重要人物は簡単に生き返るって、奇っ怪極まりない非対称性があるって話になってしまうのだ。
ちなみにファイナルファンタジーシリーズに代表される、全滅したらセーブポイントからやり直しコンティニュー形式も筋は通る。
レイズやフェニックスの尾は「キャラクターはこのままだと死んでしまうほどの重症」なので、なんらかの形での救護が必要なのだけど、プレイヤーパーティが全滅すると、その救護をすることが出来ない。だからゲームオーバーになるのだ、と考えれば論理的に筋は通る(原理的には意味は通じる)。
ゲームデザイナーはもちろんこういうことが気になる人種なので、この問題は当然理解していた。
だから、当時のRPGを見ると、例えばNPCが死んだキャラに蘇生の魔法をかけるが効かず、そして「死んでいる」と言うとか、そんな演出をやったりしたし、さらには負けたら退却したとか、悪い夢だったとか、まあともかくイロイロ死んでいないことにして整合性を取ろうとしていた。
でも夢なら、「なんで夢なのにフラグは立ってるんだよ」って多大なる疑問が湧いてくるし、退却したって「あの状況から、どないして退却したんじゃい?」って疑問は湧く。
つまり、どうしてもこうしてもドラクエ型のシステムには不自然さはあった。
僕のデビュー作『凄ノ王伝説』ではこの問題がイヤで、死んだら起こったことは悪夢で、宿屋で目が覚める設計にしたのだけど、ゲームの大師匠(と勝手に思っている)、さくま先生にスゲエ怒られた。
なぜかというと、宿屋に戻った時に、どこまで話を進めていたか、ユーザーがわからなくなってしまう問題が発生するから。そして、当時さくま先生が抱えていたフォーカスグループのようなものの『凄ノ王伝説』のプレイではものの見事に、みんなどこまで進んだかわからなくなっていた。
僕はそれを見て、ドラクエの「おお しんでしまうとは」がどれだけ優れたゲームデザインなのかを思い知った。
そして、コンティニュー時にどうなってんのかわからなくなるぞ問題は今でもあるので、解決するためにゲームデザイナーは腐心している。
と、少し余談も書いたけど…
「なぜプレイヤーおよびパーティのメンバーは基本的に不死身なのか?」
この問題にとんでもない形で切り込んだのが『ヘラクレスの栄光Ⅲ』。
なんと本当に主人公(プレイヤー)と一部の人間は不死身としてしまったのだ。
そして、プレイヤーキャラクタすなわち主人公は記憶喪失で「どうして自分が不死身なのか、自分は何者なのか?」を知る旅に出ることになるって、全く驚きのシナリオを展開してくれたのだ。これが1992年に出ているのが全く衝撃的だ。
そして張るだけ張った伏線が後半に気持ちいいほど素晴らしい回収をされていき、さらに王道を要求された『天外Ⅱ』ではできなかったエンディングをやっていること…全く素晴らしいシナリオで、感動したとって間違いではない。
このシナリオを書いた人が野島一成氏。
僕は、この一作で大ファンになったわけなのだけど、このあと数年経たないうちに、驚く話を桝田さんからまた聞いた。
なんと野島氏がスクウェア(当時なのでスクウェア・エニックスではない)に入ったというのだった。
というところで長くなったので次回に続く。
5件のコメント
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ウィザードリィでは死亡=灰ではなくDEAD→ASHED→LOSTと2段階だったはずですが…。
細かいツッコミですみません。
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ああ、そのつもりだったんですが、読みなおして確かに誤解しやすい書き方だったんで、直しときます。
ちなみに、ここでは書いてないですが、カント寺院ではリスクがあるので、bishop育ててダンジョンで復活させるようになってしまうわけですが…w
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ヘラクレスの栄光3は
「LVアップに応じて雑魚の強さを変則的に変えていく」=雑魚から逃げまくってボスが強いと感じたらLVを上げればいいと言う戦闘バランスの変質を狙う
「魔法は特定の神殿を経由するまでまで使えない」=シナリオの強制回想をプレイヤーに促す(新しい仲間が入ったら各地を再び回らなければならない為)
「道具を埋める事が出来る」 =預かり所からの解放とメモの必要性
「民家から道具を盗む度に仲間の信頼度減少判定がある」=アイテムを盗む度に抵抗感を与える事で仲間の存在感を演出してNPCがただのシンボルで無いように演出している
「飛び降り時に一般NPCが居ると飛び降り禁止メッセージを表示」=主人公達が特殊な存在と言う事を重ねて強調
とシナリオ進行とゲームシステムの統一を狙った当時としてはかなり優れたゲーム(挑戦的という表現の方が正しいかもですが…)だったように思います。
この考えについて岩崎さんはどうお考えでしょうか?
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G-modeでガラケー向けのリメイクはありましたね。
簡素なリメイクで大筋は一緒だけど物足りないっていう、感じのやつが
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続編である野島一成さんのヘラクレスの栄光4も素晴らしいストーリーでした。