キャノンボールの歴史(下)

とんでもなく間が空いてしまったが『キャノンボール』の歴史の後編。
前編は以下を読んで欲しい。
『キャノンボール』の続きなのだけど、その話を書く前に、さらにハドソンの82-86年の話を書きたい。
前回の最後で、中本さんが『キャノンボール』がデビュー戦になったTRANSパッケージでハドソンのPCゲームをオールマシン語(フルアセンブラと同義)に舵を切ると同時に「オールアセンブラ」でゲームを書けない人を振るい落とすためのツールとしても使われ、このタイミング(83年)で東京にアセンブラでゲームを作れる人間を集めたという話を書いた。
これで中本さんとしては83年以降は札幌はビジネス中心、東京はゲーム中心という体制を作るつもりだったのだろうと思っている。
ところが、ここで予想外のことが起る。
83年に『キャノンボール』を出した後、すぐにハドソンは任天堂からファミリーBASICの開発を請け、ファミコンの開発環境制作に入り、84年からファミコンに史上初のサードパーティとして参入することになり、そこでとんでもない売り上げを叩き出すのだ。
予想外と書いたのは、当時、みなが見ていた未来は「ホームコンピュータ」がご家庭に鎮座する世界で、ファミコンが勝つなんて全く想像もされていなかったからだ。だから日経に「MSXで逆転したい家電メーカー連合 vs 任天堂」みたいな感じの記事が掲載され、まあホームコンピュータはMSXが勝つだろうみたいな予測をされていたわけだ。
正直、みんな、ホームコンピュータを見ていて、ファミコンなど歯牙にもかけていなかったというのが事実だから、予想外以外の何物でもない。
■名前は伏せるレジェンド
ファミコンスタートアップ時のゲームプログラマは東京麹町チームと、札幌に菊田さんが一人いて。それで全員だった。
ビジネスチームは、札幌で三浦さんがまとめててワープロ開発してたな。HuWordってやつ。
そしてファミコンソフトでとんでもない売り上げを叩き出したハドソンは、ゲーム制作をファミコンにシフトして、84年以降、ファミコンソフトの開発をするために大幅にゲーム開発のラインを拡張する。
ところが、この採用の中心が北海道になってしまうのだ。
■名前は伏せるレジェンド
ところが1984年にファミコンに参加して、『チャレンジャー』(1985/10発売)の開発が始まる頃から、野沢さん中心に札幌に人材が集まってファミコン開発は札幌がメインになったんだよね。当時は札幌のほうが社員集めやすかったのも大きかったかな。
もちろん東京でも人を集めていたはずなのだけど、86年入社組(85年後半からの採用)を見てみると、サウンドのメインになってサウンドドライバーの整備を行って機能のモジュール化を行った岩淵君、『天外1』・『桃太郎伝説Ⅱ』を作る三上君、同じく『天外1』を作る菊池君、MSX版『スターソルジャー』・『風雲カブキ伝』など様々なゲームを作る小坂さん、『ニュートピア』・『ニュートピアⅡ』などの金田君、『うる星やつら』・『ナディア』のチャーリー中田君、あっちこっちで気のいいサブをやってた室谷君・永田君などなど、後の中心メンバーは全員札幌で入社している。
三上君の話によると、当時の北海道の専門学校のコネクションみたいなのもあったらしい。
岩淵君などは『スターソルジャー』のデバッグで三上君が家に持って帰っていたROMをプレイしていて、めちゃくちゃうまいので紹介して、そのままハドソンに入ったなんてとんでもない話が残っている。
結果として、主役と言っていいのは札幌側になり、札幌出身の新人たちが、86年から87年にかけてMSX版『スターソルジャー』、『ミッキーマウス』、『新人類』、『高橋名人のBugってハニー』などなどでメインになっていく。
ハドソンの当時のゲーム開発の一線級は86年はX68000とPCエンジンの開発に投入されているので、ゲームを作る余力がほとんどないのだ。
でもゲーム系は東京に集めるという方針があったので、85年末から86年の春にかけて、当時はまだビジネス畑にいた野沢さんが北海道で『スターソルジャー』を完成させた後、なんと野沢さんを含め、菊田さん以外のほぼ全員が東京に転勤となる。
そして、新人たちは『ドラえもん』を作るサブ+多分『ミッキーマウス』の準備を東京市ヶ谷で始める。
ただし、ここで野沢さんは『ドラえもん』をやるのをものすごく嫌がったらしい。時間が足りないし、自分はやりたくないと言ったんだけど、無理矢理押し付けられたみたいな感じだったと言っていた。
ところが野沢さんの進捗が悪く、86年9月(推測だがほぼ間違いない)に中本さんがキレて、全員札幌に異動することになる。
そして『ドラえもん』を菊田さん・中本さん・野沢さんの3人に加え、タイトル・タイムマシン・エンディングを奥野さんが作る構成で、1か月ほどの突貫工事で完成させる。
コロコロコミックでは「スタープログラマ3人で作ることで、絶対の内容になるようにした」というような、事実を知っていれば嘘八百な記事が掲載されているが、現実は上のごとしだったわけだ。
そして、中本さんは、そのまま返す刀で『新人類』を完成させるのだけど、この時、ハドソンは、並行してPCエンジンのローンチとX68KのHumanの制作をやっているのだから、もうムチャクチャもいいところだ。
と、85-87年のハドソンのグダグダを理解してもらったうえで、話は『キャノンボール』に戻る。
中本さんが作ったTRANSパッケージで動いた『キャノンボール』は83年にリリースされ、パソコンではヒット扱いになるのだけど、このあとハドソンがファミコンに参入したことで、TRANSパッケージもろとも、あっというまにハドソン社内では「過去のもの」になってしまう。
ハドソンはPCゲームを作り続けるが、まったくメインの商売ではなくなり、例えばX68KにPCエンジンやファミコンのソフトを逆移植するような感じになる。
そして、パソコンソフトからの移植も初期の『ボンバーマン』、『バイナリィランド』などの時代はあっという間に終わり、85年の後半からはアーケード移植・IP物・ファミコンオリジナルが中心になり、『キャノンボール』は消えた、と考えていい。
唯一、後にPCのゲームで復活したものに『サラダの国のトマト姫』があるが、これは例外だと書いていいだろう。
この当時、ファミコンで「アドベンチャゲーム」がちょっと流行した瞬間があり『デゼニランド』は(著作権的にどう見ても無理だ)出せないと考えれば、コレになるよなあというタイトルなのだ。
ところが、1987年。
PCエンジンが発売されるのだけど、この時、どういうわけかわからないのだけど、PCエンジンに『キャノンボール』が移植されるのだ。
移植したのは中本さん(飛田さんの可能性もあると思っていたが、中本さんらしい)。
ただし、面白いことにこれは製品としての移植ではない。
ハドソン社内での教育用…と思われる、PCエンジンのサンプル、として移植されるのだ。
なぜ移植したのかも、よくわからないのだけど、多分、PCエンジンでゲームを作るためのスプライトやBG操作のサンプルだったんじゃないかなと思われる。
ここらへん確認したくて、いろんな人に聞いたのだけど、誰一人「なぜ移植したのか」をおぼえておらず、「思われる」だらけなのは諦めて欲しい。

そして、この中本さんが書いた『キャノンボール』は、2つのゲームに収録される。それが『遊々人生』と『凄ノ王伝説』。
『遊々人生』は裏技で『凄ノ王伝説』は宿屋で遊べるミニゲームとしてだ。
どちらも事実上、中本さんが書いたものがそのまま入っているが、僕の方はチョッピリ改造されていて、飛田さんの『遊々人生』版はほぼオリジナルという違いがある(上の画像はより近い『遊々人生』版)。
そして、この『キャノンボール』が、さらに驚くべきことに、1989年に、カプコンから『ポンピングワールド』として発売される。
どうして、ここでこの87年の移植が、と断言できるかと言うと、当時のカプコン関係者に話を聞けたからだ。
■当時のカプコン関係者
色々と覚えてますよ。
その推察通り、元ネタはハドソンのそれだと聞いています。
というわけで、『ポンピングワールド』はハドソンの『キャノンボール』そのものだったことがわかった。
では、権利関係はどのようになっていたのだろうか?
■当時のカプコン関係者
開発当初から意識してたこともあって、お金も支払わせてもらったと聞いています。
打診はCAPCOM側から行われたはずです。
つまり、権利関係も正しく処理されていたわけだ。
こうして『キャノンボール』はPCで登場し、これがPCエンジンに移植され、それを見たカプコンが『ポンピングワールド』として仕立て直して、1989年にアーケードで発売することになったわけだ。

そして、これがカプコンの手で『ポンピングワールド』としてPCエンジンに移植され、ハドソンから発売されることになるのだけど…
どうしてそうなったのか、については、残念ながら結局わからずじまいだった。
だが、こうして『キャノンボール』から『ポンピングワールド』になった流れははっきりしたのである。