1991年1月 浦上進君と日本テレネット

1991年1月、天外2はいよいよ、実際の開発作業に入るための最終準備段階に入っていた。
実際の作業は市ヶ谷の角川メディアオフィスが入っていたビルの裏にある貸しビルの2F(今でもあったので写真を載せておく)に開発チームが集まって、行われることになっていた。つまりアルファシステムやハドソン北海道の連中からすると、長期出張ってことになる。これは天外2クラスになると、毎月広報などがあるうえに、広井さんも桝田さんも忙しくなっていて、北海道に長期開発チームが集まるのが難しかったのが理由として一番大きかった。
とはいっても新年そうそうだったので、借りた事務所にチームは集まっていなかったが、僕は開発機やらいろいろなもののレイアウト計画やらハードの準備があり、加えて、当然桝田さんや山根との打ち合わせもあったので、それに忙殺されていた。

このビルの2階は1年半ほど、具体的には1992年の夏に角川メディアオフィスが飯田橋に移転するまで、角川メディアオフィスのゲーム事業部として機能した。そして移転してほんの数ヶ月もしないうちに角川書店のお家騒動が起き、水道橋でメディアワークスを立ち上げることになる。


開発チームのやり方は、ハドソンで覚えた、学校の倉庫などに良く置いてあるスチールラックの前に机を置いてスチールラックの中に開発機などを並べる方法を取ることにした。
ここで一言書いておくと、当時のモニタはブラウン管。だから奥に長かったので机の上に置くとやたら場所を食う。しかも防磁の甘い製品が多かったので、2台並べようものなら色はおかしくなるし、画面は歪むしとひどいことになった。だから、どうしても距離をある程度離して置かなければならなかった。
しかも当たり前の話だけど、家庭用ゲームマシンのゲームをパソコンで作っているのだから「普通のテレビ」とプログラムするための「パソコン用のモニタ」の2つが必要だ。この2つをある一定以上の距離を離して置かなければならないので、普通の事務机なんかだと、まるで面積が不足していたのだ。また家庭用ゲームハードの絵をRGBにすることは当時のハドソンでは当然出来たが、モニタのガンマ曲線が違いすぎて絵の雰囲気がまるで違ってしまうので、使っている人はほとんどいなかった。
具体的な雰囲気は飛田さんがスキャンしたハドソン全科から切り出してきた写真を見て欲しい。ちなみにこの写真に写っているのは小坂さん。
1988-89は奥野さんのサブプログラマとしてパワーリーグなどに関わった後、89年後半から独り立ちして、桃太郎活劇に関わることになる。ものすごくアクションのうまいプレイヤーで、桃太郎活劇で簡単にするのに結構抵抗があったらしい。小坂さんと馬鹿話してたのが、昨日のことのように思い出せるのに、この写真が20年以上前のものになってるなんて、ちょっと信じられない気分だ。

で、スチールラック買ったり、机入れたりと、ドタバタと準備をしていたある日、ハドソン東京で角川メディアオフィスの担当をしていた清水さんが、2人、人を連れてきた。
「ああ、岩崎、この2人、スタッフに加えてもらうから」
「1人がシナリオに加わってもらう林君」
「どうも、林です」
「もう1人が、アニメーションで辻野さんの技術的なアシスタントをしてもらう浦上君」
「どうも、浦上です」
「あ、どうもー岩崎です」
「で、清水さん、この人達は…どこから?」
「この2人、日本テレネット辞めてきたところなのよ」
「エーッ!?」
2人の名前は林ゆきとと浦上進。日本テレネットではメインで仕事をしていて、アニメーションの作画監督まで兼ねていたのが浦上君、シナリオなど企画まわりの仕事をしていたのが林君だというのだ。(それぞれ、レッドアラート・ヴァリスなどのスタッフロールで名前を見ることが出来る。なお、林君は「おはやし ゆきと」になっている)
つまり、今だからあっさり書ける話だが、天外2には日本テレネットのビジュアルやらゲームを作っていたメンバーが入っていたわけだ。
で、日本テレネットでPCエンジンのヴァリスから始まってレッドアラートあたりまで作ってきたのだけど、イースを見てショックを受けて、ハドソンでこんな仕事をしたいというので、ハドソンにコンタクトを取ってテレネットを辞めてきた…というのだから、イースを移植したスタッフとしては光栄ではあったけど、冷や汗でもあった。
ではこの2人の実力はというと…林君はもちろんだけど、本当に凄かったのは浦上君だった。
彼の仕事は辻野さんのコンテを読んで、僕と技術的な打ち合わせをして実現する方法を決定し、容量を計算して決定し、さらに動画の管理&発注を行い、最終的な処理をする松田君とのすり合わせもする、まさに「当時のビジュアルを作るために必要な能力の全てを備えた」男だった。
で、実際にビジュアルシーンを作るときのプロセスは以下のようなモノだった。

1)辻野さんがコンテを書く。
2)僕と浦上君が辻野さんのコンテを見ながら、容量や実現方法を検討。
3)それに基づいて細かい指示を書き加えたコンテが出来る
4)そのコンテに基づいて、動画の発注などが行われる。
5)動画がスキャンされる。
6)PEで色が塗られる。
7)元データが浦上君の指定するサイズまで圧縮される
8)僕の所にデータが来る。
9)僕がプログラムに組み込む。

と、このようなプロセスで作られていたわけだ。
天外2のビジュアルは、辻野さんの絵と僕の演出みたいな言い方をされることがあるが、実際には、浦上君の緻密かつ適切な管理、当たり前だけどREDがやってくれていた動画の質管理、そしてさらにハドソン側のチーフだった松田君の優れたドットと技術に対する理解、そういったモロモロの事があって、初めて出来たモノだった。
そして浦上君はこのあとREDに入り、ハドソンを辞めてREDに入った進藤とともに数々のゲームを作った後、今も進藤と違う会社で仕事をしていると聞いた。
やはり出来るヤツはいつでも仕事をしているモノだと思ってしまう。
そして、このビルを舞台に、僕らはこれから1年かけて天外2を作っていくことになるのだった。

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