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アマガミとWhichとHow
ブログ…というか、日記というか、ともかく『アマガミ』のレビューを読んだ。
とても面白い記事で、いろいろと考える事があったのだけど ──
ともかく、まずこの記事を読んでくれないと、今日の記事はわからないので、興味のある方は、読んでからドウゾ。

読みましたか?

読んだなら、続きをドウゾ。



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|| 20:15 | comments (3) | trackback (0) | ||

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カーソルキーと左スティック
左利きと3DSの話がゲーム史と関わるネタになってしまったので、以下に新しくポスト。
コメントを元に、自分の記憶と合わせて、初期のテレビゲーム史・パソコン史について書いてみたい。

【コメント】
そもそもファミコン(もっと前?)の時点で方向キーは左手、ボタンは右手で扱うようになってましたが、右利きが多数派として、ボタンより方向キーのほうが精密な操作が求められるので利き手の右手で扱うほうが自然な気がするんすがどうでしょうか。
ちなみに自分はPC派だったので、カーソルキーは右手で動かしてました
| ced | EMAIL | URL | 10/11/23 21:59 | Ms7J2QpE |

初期のテレビゲームはパドルゲームばかりで右手と左手の区別はなかった。だいたいパドルコントロールは真ん中についていた。
また、少し後でも、スティックはなかった。例えばアタリのブロッケードってゲームは上下左右にヘビを動かすゲームだが、移動はレバーではなく4方向のボタンだった。
つまり、初期のテレビゲームはパドルもしくはボタンもしくは、例えばアップライト筐体についている銃型のコントローラや、潜望鏡のミラーを使ってプレイするものだった。
ではどこでスティックが一般化したのか
間違いなくインベーダーだ。
でも、インベーダーも最初はボタン操作だった。断言できる。なぜなら、僕はボタンのインベーダーをプレイしたから。一番最初に僕が見たスペースインベーダーの操作系は左に移動ボタン2つがあり、右ボタンが射撃って構成のアップライトだった。確か、当時の羽田空港のゲームセンターで見たのが最初だったと思う。めっちゃやりにく! と思ったら、次に見たときには左手がレバーのアップライト筐体になっていた。
つまり、世紀の大ヒットをとばしたスペースインベーダーは左手レバー、右手、射撃で作られていたわけだ。どうして右手が射撃だったのかというと、これは憶測でしかないが…引き金を引くのは右手だからだと思う。
当時から銃を使う系列のゲームは必ずゲームセンターにはあり(絶対に今の人は知らないだろう、レーザークレーとか…)、引き金を引くのは普通は右手なので、射撃が右手になったのは自然な流れだったと思う。



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|| 01:40 | comments (14) | trackback (0) | ||

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ギャルゲーと恋愛育成ゲームとエロゲーと
Twitterで「ギャルゲーの元祖は『ときメモ』」とかつぶやかれてたり、似たような話をブログで読んだりしたので、当時の1ユーザー兼ゲームプログラマとして、忘れないうちにメモしておこうというギャルゲー登場前後の事情

ギャルゲーという言葉はファミコン後期~PC-Engine CDROMあたり、つまり1985-88年あたりで成立した言葉だと思われる。
一番最初にこの単語が登場したとき、意味としては「ギャル(女の子)が派手にフィーチャーされたゲーム」程度の意味合いだった。
タイムギャル(TAITO/1985)が発売されたときの「ギャル」からギャルゲーという言葉が出来た…という説を聞いたことがあるのだが、このあたりは本当に分からない。ただ1985-88年あたりで出てきた言葉なのはほぼ間違く『夢幻戦士ヴァリス』とか『マドゥーラの翼』とか、そこらへんのゲームが登場したとき現れた言葉だと思う。
実際、このあたりでアーケードでもモモコ120%(1986)とか、サイコソルジャー(1987)が出た時期であり、あのナムコご乱心といわれたワンダーモモ(1987)も出ていたりするのだから、こういったゲームがカテゴライズされる単語が出来ても全く不思議は無い。
【注】 ギャルゲーという名前で意識はしていなかったとが、ともかく女戦士といえばビキニアーマーになった決定的なポイントがこの年代だったのは間違いない。女の子が主役だったゲームで自分がプレイした一番古いゲームはまず間違いなくアテナ(SNK/1986)だ。今から見ればゲロゲロの難易度のゲームで、おまけにキャラも間違っても可愛いとはいえないが、当時の青少年はこのキャラでもハアハアしたのであるw

もともとは目を引くために主人公を女にしたのだろうが、当時のゲームをプレイしているヤツは男ばかりなのでギャルゲーはゲーム内容に関わらずそれなりに売れてしまう。だから出来の悪いアクションの主人公をビキニアーマーの女にするとか、そういう非常に質の悪いゲームが横行するようになった。つまり女の子が派手にフィーチャーされているゲーム=質が悪い、という印象になりギャルゲーという言葉は蔑称になっていった
そして、この蔑称に反論できるソフトの数のタカが知れていたので、当時のゲーマー達の間では「ギャルゲー=質の悪いゲーム」とほぼ等しかったのは間違いない。
また歴史的な混乱が起きる前に書いておくと、育成ゲームは1991年のプリンセスメーカー1が実質的な始祖である。だからギャルゲーという言葉の方が先に出来ていたのは確かだ。
まあ、それはともかく「ギャルゲー蔑視」の状況で登場したのが1994年のPCエンジン版ときめきメモリアル。このゲームとその8ヶ月ほど後に発売されたエロゲー(恋愛ゲームといってもいい)『同級生2』の爆発的なヒットによって、ギャルゲーのイメージは激変し「恋愛(育成)ゲーム」というジャンルが表舞台に飛び出してくることになる。
とは言っても『同級生2』は、もちろん50万本を越える売り上げを誇りかつ全年齢向けの『ときメモ』と比較したとき、もちろん一般的な影響力の話をすると微妙だったとは思うが、コアユーザーへの訴求力は凄まじかった。
なんにしてもときメモは「(ポジティブな)ギャルゲー」という言葉を広めるという意味では決定的な役割を果たしたが、別に元祖というわけでは全くない。ただし「恋愛(育成)ゲーム」と呼ばれるジャンルのほぼ元祖に近い存在なのは間違いない事実だろう。
そして、この『ときめきメモリアル』を作る際に、作者達が大いに参考にしたゲームが『同級生1』と『きゃんきゃんバニープルミエール』(多分シリーズを全般に参考にしたのだとは思うが)。このあたりは作者に効いたので間違いない。つまり、恋愛育成ゲームの歴史を紐解くと、そのルーツには2つの傑作エロゲーが見えてくるわけだ。
これらのゲームを参考にしたのは、作者のAsuty.Sと酒を飲みながら結構話をして聞いているので間違いない。

ということで、簡単な腑分けのネタだったが…ここに大いなる謎が登場する。
それは「エロゲー」という単語が登場したのはいつか? ということだ。
『同級生1』と『きゃんきゃんバニープルミエール』はどちらもいわゆるエロゲーなわけだが、ではエロゲーという言葉がいつ頃出来たのかというと、これはさっぱり分からない。
自分が遥か遠い昔、初めて「エロゲー」を見たときは「アダルトゲーム」と称されていた。もちろんこれは「アダルトビデオ」から来ているのは間違いない。
そのあと、コンプティークなどで一時「美少女ゲーム」という表現がなされていた。これは「アダルト+非アダルトゲーム」だったが、主なジャンルはアダルトだった。
一時、NiftyのDante君が「Xゲーム」という表現を使っていた。エロだけではない、という意味合いがこめられていたと思う。また、自分の原稿を調べると1998年に書いた(そしてボツになった)原稿で「Hゲーもしくはエロゲー」と書いているので、ここでその単語があったのは間違いないのだが…いつごろエロゲーという言葉は一般化したのだろうか…?

■追記
該博な知識を持っておられる方のTwitterでの協力により、1985-92年に語源がある、ということまでは明らかになりました。


|| 21:07 | comments (3) | trackback (0) | ||

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故・多摩豊氏の名誉のために批判する
前回、制作秘話について疑問を呈したesu-kei_textだが、ふと同じゲームのカテゴリにある最初だからこそできた「最大の禁じ手」 ー 堀井雄二のゲームデザイン(1)を読んで、あまりにあまりな内容で、開いた口がふさがらなくなってしまった。

この文に参考資料として、敬愛する故・多摩豊氏の著作が参考資料として挙げられるているのが耐え難いので、アドベンチャゲームの歴史とゲーム性にまつわる部分は全くの虚構であり、間違っても多摩氏の著作に書かれていないと指摘していく。
【追記】 10/6/25 k-takahashi’s 雑記というブログで、故・多摩豊氏の参考資料に挙げられている著書とesu-kai textを比較しておられるのを見つけた。とても参考になる資料なので、追記しておく。


まず先に故・多摩豊氏について。
故・多摩豊氏はTRPGのオーソリティで、日本初のRPG専門誌「ワーロック」の初代編集長である。
【追記】 あらゆる人に突っ込まれているので。雑誌名は「ウォーロック」でした。自分"warlock"としか覚えておらず、表記に関しては覚えてませんでした。
さらにゲームデザイナーであって、TRPG作品もあり、くわえて自身がサウンドノベル以前に「ソフトでハードな物語」や「38万キロの虚空」でアドベンチャーゲームの再定義にチャレンジされた方である。
しかもゲーム評論家でもあり、ウィザードリィ4の訳者であり(想像を絶して難易度が高い)、デーブ・レベリング(Zorkの作者。テキストアドベンチャーで名を馳せたinfocomの創業者の1人)、クリス・クロフォード(パットンvsロンメル・バランスオブパワーの作者。当代きっての理論派ゲームデザイナー。CGDCの創設者)、ロー・アダムス(ウルティマ4/ウィザードリィ4のシナリオライター)、リチャード・ギャリオット(ロードブリティッシュ)、ロバートウッドヘッド(ウィザードリィの作者)、アンディ・グリーンバーグ(同じくウィザードリィの作者)などと実際に親交があった方である。
(多摩氏のおかげで、僕は初期のCGDCに出席してクロフォードなどと話をすることが出来た。おおいに感動できたことの一つだ)。

こういう人が
「アドベンチャーゲーム」とは、イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式である。
それに「ゲーム性」をもたらすためにはどうするか?
当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。
プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。
そこで考えられたのが「単語直接入力システム」である。
グラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進む。
それは、キーボードのあるパソコンだから遊べるゲームであると思われていた。
こうして、ゲームセンターで稼働する業務用ゲームとは異なるゲーム性が生まれたのである。

こんなことを自身の著書で書くわけがない。これは全くのデタラメで、端から端まで何一つ正しいことが書かれていない文だ。

以下は、上記に比べれば正しい歴史。
アドベンチャゲームの歴史の始まりは1975年ごろにさかのぼる。
「アドベンチャゲーム」の名前は、そのオリジナルのゲームが"Adventure"というところから来ている。
基本的には「TRPGのゲームマスターとプレイヤーの会話を通じて進行されるセッションを模したもの」だ。
会話をするのだから、キーボードから"go north"と言った具合に、入力をするのが当たり前。
つまり
当時のパソコンの容量では、「選択肢」を用意したところで、10分足らずで終わってしまい、ゲームとしては成立できない。プレイヤーに「考える」楽しさを味わせることができないのである。そこで考えられたのが「単語直接入力システム」
なんてことは全くない
またTRPGのセッションを模したこと、さらに初期のコンピュータにはグラフィックが実質なかったこととあいまって、初期のアドベンチャゲームは全てテキストだ。
つまり
イラストとテキストで状況を説明し、それを場面転換させることで、物語を進めていく形式
ではない。

例えば上記は初期の超有名テキストアドベンチャ"Zork1"のスクリーンショット。これは人工知能の研究(と称したと思っているが)で1977-79年にかけてMITでデーブ・レベリングと仲間たちが作った最初期のアドベンチャゲームだ。彼らはこれを作った後、1979年にinfocomを設立し1980年から市販した。見て分かるとおりオールテキストのゲームだ。
今でもオリジナル版はフリーでプレイ可能なので、興味があれば一度プレイしてみればいい。
つまり、テキストだけだったアドベンチャに、あとからグラフィックをつけたのが正しい歴史でグラフィックでその手がかりとなるのを示し、プレイヤーにその単語を入力させることで物語が進むようになったのは、史上初のグラフィックアドベンチャゲームが1980年にシェラ・オンラインから発売されたあと

また、一番最初のアドベンチャゲームの始祖は1975-76年でアーケードゲームとほとんど同じ長さの歴史がある。異なるゲーム性もへったくれもない。もともと違うゲームなのだ。

故・多摩豊氏は、このアドベンチャゲームの歴史をあちこちで何度か書いており、こんな馬鹿げた間違いを書くわけがない。

つまり、前述のアドベンチャの歴史についての語りは全てデタラメで、作者の想像力で勝手に作られた、勝手なアドベンチャのゲーム性と歴史に過ぎない

アドベンチャゲームの歴史はテキストに始まり、グラフィックがつき、コマンド選択式が登場するという流れで、しかも海外と国内では違う流れがあり、別にそれらは語られる必要がある。
だが、上記のアドベンチャゲームの説明はZorkを作ったデーブ・デベリング、"Mystery House"の作者ロバータ&ケン・ウイリアムス、ASCIIが作った日本で初めてに近い本格テキストアドベンチャ「表参道アドベンチャ」の作者、それともキャリーラボの"ミステリーハウス"の作者などなど、あらゆるアドベンチャの作者を侮辱する、全く間違いの歴史でしかない。

このブログの著者は、何を考えて書いたのか? 全くの疑問だ。
例えば、今、さっと書いたアドベンチャの歴史は、簡単にWikipediaのアドベンチャの項目で調べることができるし、内容のクロスチェックをするならテキストアドベンチャーゲーム、変容の歴史。にプレイヤーから見た歴史があったりKTJ Dragonに、結構詳細な歴史が書かれていたりする。

さらにSierra-onlineや過去のアドベンチャの歴史を(英語で)調べれば、簡単にこの程度の知識は得られる。このブログの作者は、何一つ取材せず、適当に想像だけでモノを書いているとしか思えない。

もちろん、該当のエントリは「創作である」なら構わない。だが創作であるというならば、ちゃんと頭にこれはフィクションであり、現実の話では全くありませんと書いておいて欲しい。

あたかも本当のふりをして、今までの創作者や関わった人間の名誉を傷つけるような嘘八百の文を書くのはやめて欲しいと本気で思う。

|| 20:18 | comments (11) | trackback (0) | ||

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疑わしい「スーパーマリオ」制作秘話
自分のTwitterのTLに 宮本茂のゲーム哲学(2) ゲーム作りに必要なセンス - 「スーパーマリオ」制作秘話を読んだという感想が何度か流れてきたので、読んだのだが、この制作秘話、どうにも疑わしい。

というか、パックランドを徹底的に分析したという話は、どう考えても僕には信じられないし、眉唾としか思えない。
以下、どうして信じられないのか実体験に基づいた逆算で説明していく。

1985年9月13日、これがスーパーマリオブラザースFC版の発売日だ。
普通、ROMカセットを生産するのは、いまどきの最短2週間で20万枚ぐらいならなんとかなっちゃいますな光学メディアと違い、圧倒的に手間が掛かる。
当時は量産するためにはマスクROMオンリーなので、マスター納品→マスクパターン制作→ROM生産→基板&カートリッジと合体→完成という流れを取る。

上記プロセスは「どれだけ急いでもある程度の量をそろえるなら2ヶ月以下はあり得ない」
例えば、拙作『凄ノ王伝説』はファミコンと比べればラインに余裕があるPCエンジンのROMゲームだがマスターアップは2月初頭で、発売は4月27日。つまり2ヵ月半。
ファミコンでは通常3ヶ月だったが、任天堂は社内作品でチェックなどで有利な部分があると考え、2ヶ月としておこう。
発売日から引き算すると85/07/13
スーマリのマスターはこのあたりが一番遅いことになる。
【注】 正確にはFCのマスター納品から、実際のカートリッジ納品までは3ヶ月以上が普通で最盛期の繁忙期には6ヶ月があったと聞いた。実体験として、初代桃太郎電鉄はFCで、たまたま僕は手伝ったが、このときは8月にはマスターを出した記憶がある。つまり4ヵ月程度あったはず。
また、正確にはメーカー出荷では終わらず、当時の流通は最低でも3段階程度はあったので、発売日に店頭に並ぶためには1週間程度前には一次問屋になければいけないから、さらにスケジュールはシビアになり、社内といえど2ヶ月は微妙ではないかと思うが、一応最短を見ておく。
■6/9追記 7月13マスターはまず無理な事実に自分で気がついた。8月の第2-3週はお盆休みで工場が止まる。つまり9月第一週出荷を前提にすると、6月半ばより前、多分6月最初がマスターであった可能性が非常に高い。言い換えるなら、このブログの推測スケジュールはさらに1ヶ月前倒しになり、ますますパックランドを研究した可能性は低くなる

マスターとして工場に出すためにはバグがないことが必要。すなわち最終デバッグ、つまりバランスなどは(出来るだけ)直さず、ひたすらバグを取るだけという期間が1ヶ月程度は必要だ。ここは面倒くさいので休みは計算しない。
これを引き算すると85/06/13
【注】 ゲームが大きくなった今ではこれでは絶対に足りないが(自分が関わったPS2のカーレースゲームでは丸2ヶ月ちょっとデバッグしていた)、当時だから1ヶ月程度でなんとかなったと思われる。実際、たいてい1ヶ月でなんとかなってたしw

これより前に、当然ゲームバランスを微調整し、マップを調整する時間がある。
これは少なく見積もっても2ヶ月程度はかかる。「長い!」と思うかも知れないが、だいたいスーパーマリオは32面あるソフトだ。休みナシで作業して2日で1面調整しても2ヶ月以上かかる計算になる。当時なので週休1日だったと仮定して、月稼動が25日程度とすると2ヵ月半。
これを引き算すると85/04/01
つまり、このあたりからバランス&マップ調整をやらないと絶対に間に合うとは思えない。

これより前に、マップや敵を実際に入れて作る作業がある(うちの会社ではlayoutと呼ばれる)。
32面あるけれど、今のゲームと比べれば流用が多いから、1面が平均4日で出来たと仮定しよう。休みナシで128日。約4ヶ月が必要になる。25日計算では5ヶ月とちょっと。
これを引き算すると84/11/1あたり。
つまり84/11あたりから実制作フェーズでなければ、スーマリは発売出来なかったはずで、しかもスケジュールにはかなり無理があるのは明らかだ。
【注】 4日で1面作れるなんて計算を実際にやるプロジェクトマネージャーなんていたら、そいつはクビにしたほうがいい。いやまあ、実際にMSPにスケジュールぶち込んだら、4日で1個なんて計算が出てきたことはあるけれど。

これより前、どれぐらいから宮本さんが例えばジャンプのテスト制作や面構成を考えていたのか、こればかりは神のみぞ知るだが、レベルデザイン(完全ではないにしろラフレベルではレベルデザインをしていたはず)32面、1面3日と考えて、96日。25日計算ではほぼ4ヶ月になる。モブ(敵のこと)や細かいアイディアまで考えれば、もっと時間がかかっても不思議はないが、ともかく4ヶ月前後としておこう。
これを引き算すると84/7/1
このあたりがレベルデザインを始めた時点という計算になる。

ここでパックランドの稼働日はいつなのかというと84/8
つまりマップデザインをはじめなければ、間に合わないと思われる時期より後にパックランドは稼動を始めていることになる。すなわち、上記スケジュールから考えてパックランドを徹底的に研究する時間があったとはとても思えない

並行して進めれば…という意見もあるかもしれないが、上記したスケジュールを1面あたりの平均に直すと、ラフデザイン=3日、実デザイン/敵配置/プログラム=4日、バランス調整2日。つまり1面をたったの10日で作った計算だ。
敵のプログラムできてます、レイアウトするだけです、だとしても今風なミドルウェアがあったとしても1面10日はキツイ。いかにギリギリのスケジュールかわかる。
【注】 そしてかなりの確率で、これに近いスケジュールで作ったと思われるので、作っている間の後期は間違いなくデスマーチだったのだろうと推察される


もちろんパックランドは名ゲームであり、なおかつスーパーマリオと共通する要素があり、しかも開発の初期に見るチャンスがあったのは確かだから、宮本さんは絶対に参考にしたとは思う。
だがパックランドを徹底的に宮本さんが研究した逸話が本当とは思えないのは、上記の想像されるスケジュールから明らかだ

ということで、最初に挙げたリンクの秘話とやらが、ほとんど想像の産物なのはほぼ間違いはないだろう。また、最初に挙げたリンクが、なにかの本を下敷きにして書いているのだとしたら、その本はちゃんと取材をしてないのも、ほぼ確かだろうと僕は思う。

資料のほとんどない時代なので、(本人もしくはチームのメンバーが証言しない限りは)真相は藪の中だろうが、この話が本当の可能性はとても低いのではなかろうか。
【追記】10/07/01
鶴見六百君との会話で、作りながら影響を受けた可能性はあるんじゃないかという意見があり、それは確かにありえると思ったので追記しておく
【追記】15/09/15
なんと社長が訊くで84/12 - 85/2 で仕様を作っていることがわかり、十分にパックランドを研究する時間があったのは明らかになった。
85年と88年の3年で、こんなに感覚が違うとは驚きである。
あと、マスターを8月に入れてるって書いてあるのだけど、社内は1か月だったのかい! と思わず言いたくなってしまった。
しかし、僕が「疑わしい」と書いたブログは多摩豊氏についてひどくいい加減な記事を書いていたので、どっちにしても自分の想像で適当に書いたのは間違いない。
だがしかし、パックランドを研究する時間があったのは間違いないのは、たまたまデタラメを書いたら偶然当たったのであろうと事実だったのは確かだ


|| 20:39 | comments (0) | trackback (0) | ||

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