1990年9月 – スーパーCDROM

天外2のゲームデザインは順調に進んでいた。
レッドで行われる週に一度の制作会議では、シナリオが具体的になるに従って、桝田さん・広井さん・あだちさん・僕の4人と、山田真木(広井さんの秘書)で、それぞれが役を持ってセリフや動機、場合によっては何をやるかを考えながら、一国ごとにテーブルトークRPGのようにストーリーを作っていく方法になっていた。
具体的には、広井さんが卍丸の役と最終ジャッジ(やっていい・ダメってこと)。あだちさんも当然最終ジャッジ。僕がカブキと敵の一部。損得勘定を考えたりする役目。そして桝田さんが残りのキャラ。山田真木が一般プレイヤー代表。これは「ここでこのご褒美なら納得する?」みたいに桝田さんが聞いていく事で「ご褒美の満足度」なんかを決める人。あと、この会議にはほとんど呼ばれたことはなかったと思うけど、どんちゃんも桝田さんは結構使っていた。
あと、桝田さんや僕らのいろいろな要望に従って辻野さんがイラストをあげて、それのチェックしたり…ということも始まっていた。

余談だけど、この山田真木の「新しい町や村に行って、そこに新しい装備がないなんて許せない」って主張で、やたらめったら装備が増えることになった。
またストレートにゲームに絡む話だけど、後に山田真木は傘岩仙人の下手な絵の船の絵を描いている。これは辻野さんが、どうしてもいい雰囲気の下手な絵の船が描けなくて、山田真木が書くことになったという大笑いのネタだったりする。
辻野さんは山田の描いた絵を見て「これはね、うん、下手なだけじゃなくてね、どれだけ真似しようと思っても、僕には描けないよ」と断言してたw

また、スタッフの陣容も決まりつつあった。


まずグラフィックのディレクターとして山根ともおをとっ捕まえることが出来て、全体のディレクションは任せられる見通しがたった。マップのクオリティについては山根がいれば百人力だった。
進藤を今で言うリード・マップ/キャラクタアーティストに据えたかったのだけど、彼は当時ハドソンでスーパーファミコン用のシミュレーションゲーム”Earth Light”を企画していて使えなかった。

この年の夏に打ち合わせも兼ねてハドソンに行ったとき、SFCの開発ツールは初期段階で、まだ任天堂の公式環境だったソニーのワークステーションNeWSで作る環境で和泉さんはえらく苦労していた(ついでに書くと任天堂の初期のツールの出来はひどいもんだった)。
僕はCD-iでソフト作ってたときNeWSも使っていたし、UNIX(SYS VではなくてBSD)暮らしも結構長かったから、ほいほいいじったら感心されたのだけど、そりゃ単に生きてきた場所が違っただけでしょみたいな話をしていたのを思い出す。

その代わり…といってはなんだけど、久保久君が今で言うリードをやってくれることになった。
彼はハドソンの中では珍しくエッジの効いたシャープなドットを書く男で、イース1・2を作っている時、中間デモのでっかいイースを書いてくれて、それがものすごくうまかったのに感心したので一度仕事したいと思っていたアーティストだった。だから一緒に仕事できるのが、とても嬉しかった。
またそれだけでは人が足りないのは分かっていたので、アニメーション(ビジュアル)関係をやってもらうアーティストとして松田泰一君も使えることになった。松田君はR-TYPEをやったあと、ネクタリスを作り、そのあといろいろヘルプをして天外2にくることになった。松田君も、ハドソンでは珍しいシャープなドットを打つアーティストだったので、やはり仕事はやりやすいだろう…と想像できた。
あと、当時、松田君にも言いまくっていたけれど、彼の打つドットは丁寧高品質なのだけど地味でケレン味にかけていると思っていたので、辻野さんのいい意味でケレンのある絵で仕事をするのはいいことだろう、と思っていた。

ハドソンは境界に微妙な色のついたドットを置いて、アンチエイリアスが効く様にしたがるアーティストが主流だった。ところがこのドットの置き方をされると、当時の解像度(256×240、せいぜい320×240)では、どうしても寝ぼけた絵に見えること、圧縮が効きにくくなること、イースのようなパソコンからの移植のゲームとマッチしない問題点があった。
なので、僕はイースの時には「ともかくアンチが効くドットの置き方はしなくていい」と口がすっぱくなるほど言い続けていた。
また自分の考えとして、256×240程度の解像度ではアンチしてもほとんど効果がないと思っていたので、それをやるぐらいだったらスッキリとしてエッジの効いたドットのがいいと思っていた。そして、ハドソンではいい書き方をすると「滑らか」、悪い書き方をすると「寝ぼけた」ドットを打つアーティストが多い中、久保君と松田君は、あまりそのドットを多用しないアーティストなので、とてもやりやすかった。

プログラムはアルファシステムがまた手伝ってくれることになった。予定としてはメインプログラマ一人、戦闘プログラマ一人。これで僕がビジュアルを作ると、プログラマ3人。
どう考えても人数足りないんじゃないかなとは思われたけれど、まだ仕様が完全に決まっていないこの状態で、これ以上どうするか…については決められるわけもなかった。この必要なスタッフの人数は、僕も桝田さんも広井さんも、そして当のハドソンも、全く想像をしていない世界に入っていくことになるのだけど、それは後の話になる。
音楽についてはまだぜんぜん決まっていなかったが、少なくとも、今のところは誰も問題にしていなかった。ただ前作(天外1)が坂本龍一先生だったのもあって、同じクラスのネームバリューが必要だから、選定が難航するのは、この段階でちょっとは見えていた。
そしてこれが結構な面倒をあとで引き起こすのだけど、それはまあまた別の話になる。
でも、実は秋になっても決まっていなくて、そしてそろそろ決まってもらわないとものすごく困るモノがあった。
それは拡張CDROMのメモリ容量だった。
これが決まらないと、当たり前だけど、マップから何から最終的な仕様が作れない。つまりゲームを実際に作ることが出来ない。
記憶では最初は1991年の夏休み商戦で出すという話で企画が進んでいたはずだったが、容量が決定しないまま時期は延び「1991年夏ではない」になって、あわせて天外2の発売時期も延びていた。
で、いつになったら決まるのかねえ…という話をしてたとき、中本さんが角川メディアオフィスにやってきて、拡張CDROMのメモリ容量についてのミーティングをすることになった。
ミーティングとかエラソーに書いても、ぶっちゃけるなら、僕と話をするだけだけど…当時の角川メディアオフィスは市ヶ谷のJR駅から歩いて5分ちょっとのせせこましいオフィスビルに入っていて、ハドソン東京支社から歩いて15分ほどの場所だったので、角川メディアオフィスでハドソンとミーティングをするのは、とても楽だった。
そして、そのせせこましいオフィスのせせこましい会議室にやってきた中本さんは言った。
「今、容量でモメてるんだべさ。」
予想通りの話が始まった。だいたい容量が決まってないんだからモメてるに決まってる。
「容量はいくつでもめてるんですか?」
「1メガと2メガのどっちかでモメてんのよ。」
「4メガはダメですか?」
僕はちょっとガッカリしながら聞いた。ぶっちゃけメモリはあればあるだけいいわけで、4メガのがうれしいに決まってる。ただコストも考えれば、まず選択されることのない容量だろう…とは思っていたのだけど、やっぱりガッカリはしたのだ。
「カードがさ、4メガだと1万円超えちゃうんだべさ。これじゃ買ってくれないべ!」

中本さんは「子供がねだれば買ってもらえる値段」に常にとてもこだわっていた人だった。
僕が初めて会ったとき「やっぱよぉ、ゲームってのはよぉ、5000円札出したらオツリこないといけないと思うんだべさ!」って言ってて、ゲームは4900円を維持したいと言っていた。
1990年ごろになると制作費が上がって、さすがにそれじゃムリになっていたけれど、やっぱりものすごく値段にこだわる人だった。

「でよぉ、岩崎さあ、1メガってのはどうなのよ?」
「1メガは問題外ですよ、中本さん。だって、1メガじゃ今までとほとんど変わりませんよ」
僕はあっさり答えた。1メガという案はハナから問題外なのは明らかだった。
「なんでだべさ」
「仮に1メガのシステム作ったとします。実際にはADPCMもデータで使いますから1.5メガですよね? ところが今まではADPCMアリで1メガだったんだから、実は512(512キロビット=64キロバイト、0.5メガビット)しか増えないんですよ。宣伝では2倍に増えた! といって、作り手側から見ると1.5倍しか増えないって話になるんです。バンク数で8(一度書いたがPCエンジンは8キロ単位でメモリを扱い、8キロを1バンクと呼んだ)で、圧縮したって1.2倍程度10バンクちょいですよ? 少なくともビジュアル面でのインパクトは厳しいですよ。だいたいダームの塔が一発ロードできませんよ、これだと」
「じゃあ、2メガはどうなんだべさ?」
「2メガだと、ADPCMありで1メガだったのが、ADPCMありで2.5メガですから、容量的には2.5倍。大幅にインパクトが上がると思いますよ。宣伝じゃ4倍とかいって、頭痛くなる気はしますけど…」

ダームの塔は最上階を除いて3分割。全部あわせて3メガ…ということになるが、実は空いている場所や、キャラクタの共有部があるので、1メガだとまず間違いなくひとつにならないが2メガなら余裕で入る感じだと思った。

「そうか、じゃあ2メガで押してみるわ!」
中本さんは勢いよく言った。
そして帰ったかというと、そんなわけなくて、このあとまた新宿だったかどこだったかまで飲みに行くことになったのだった。
この話を読んで勘違いする人はいないと思うが、もちろん僕の主張が理由で容量が2メガになったのではないのは間違いない。
当時、ハドソンの技術は全員2メガの方がいいと言っていたし、多分サードパーティに聞いたって全員がそう言うに決まってる。
ただ、少なくとも値段とのバランスで迷っていた中本さんの背中を軽く押す程度の意味はあったのではないかなあ…と思っている。
それからしばらくして名称がスーパーCDROMに決まったこと、発売は来年(1991年)の年末商戦と決定したことを教えてもらった。
この瞬間から天外2の発売日も1991年の年末になることが決まった。
こうして容量は決まり、いよいよゲームの詳細設計に僕らは入っていくことになった。

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4件のコメント

  • AGENT: Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; rv:2.0) Gecko/20100101 Firefox/4.0
    こういう製品の仕様決定に至るまでの試行錯誤は、当事者は大変だったろうけど
    聞いてる側としては大変面白いですね。確か中本さんは当時のゲーム誌のコラムで、
    PCエンジン本体のメインRAMも本当は32KBにしたかったとか書いてたような覚えがあります。
    NECは家電屋だったから、競合機の他社製品と「比較すると価格設定が割高だったですけど、
    実際当時のメモリ関連の相場ってどのくらいだったんでしょうか?

  • AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 6.0; Trident/4.0; GTB7.0; SLCC1; .NET CLR 2.0.50727; Media Center PC 5.0; .NET CLR 3.5.30729; .NET CLR 3.0.30729; .NET4.0C; Tablet PC 2.0)
    当時のハドソン製ゲームは他社に比べてビジュアルシーンでの輪郭線のギザギザが目立ち、出来がイマイチだと思っていました。
    なんとなく圧縮優先なのかとは思っていましたが、開発者の視点での説明が書かれているのをみると、なるほどと感心させられました。

  • AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; .NET CLR 1.1.4322; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.04506.30; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729; Sleipnir/2.9.7)
    スーパーCD-ROM^2のハードの方の話になりますが、周辺機器の中でも、とてもユニークなハードだと思います。
    まず、システムカードが不用。後部拡張バスからの起動が可能だとは驚きでした。となると、初代機がシステムカード形態を取った理由がちょっとわからないです。
    あと、底に拡張端子があります。これはこのハードにしかない謎の物ですが、何か繋げる予定でもあったのでしょうか。
    久しぶりに実機を押し入れから引っ張りだして眺めています。天外2&英雄伝説の体験版が一緒に入っていました。懐かしいー。

  • AGENT: Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 8.0; Windows NT 5.1; Trident/4.0; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 3.0.4506.2152; .NET CLR 3.5.30729)
    当時ゲーム雑誌に2メガという容量について、「ちょっと前のファミコンのゲームなら一発でロードできる」と書かれていました。これは2メガと聞いて(別の意味で)驚いたユーザーに、いかに大容量かを強調した記事だったのです。私も正直少ないと感じました。CD-ROMの欠点は頻繁にCDが廻り、その都度待たされることなので、可能なかぎりのノーアクセス化が期待されたのですが・・・
    待たされない、という理由でROMカセットを良しとする人達がまだ多かった時代でしたね。

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