CALENDAR
S M T W T F S
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30     
<<  2024 - 04  >>

PROFILE
同人誌 電子書籍版
Re:ゼロから始める
ゲームシナリオ


ライトニング伝説


さよならハドソン


ドラクエとFFと
ToHeart


誰得ゲームライフ


ときめきメモリアル
の時代

イースI・II製作メモ

頒布ページ
LINKS
NEW ENTRIES
CATEGORIES
COMMENTS
    イースⅠ・Ⅱ通史(3):『リグラス』から『ロマンシア』
  • タムロ (02/03)
    イースⅠ・Ⅱ通史(1):PC88MkⅡSRの発売
  • tamuro (01/05)
  • おお! (01/03)
TRACBACKS
OTHERS
SEARCH BOX
POWERED BY
POWERED BY
ぶろぐん
DESIGN BY
ブログンサポート

1989年、天外1 PART1
今回は実際に天外2に参加する前の、1989の話。
天外2はもちろん天外1の続編で、どうして天外1がああいうゲームになって、そして例えば、どうして術が交換できるのか? なぜ、戦闘システムはああなのかを知らないと、結局、天外2の話はわからない。
というわけで、今回は天外1と桝田さんの話。

まず全体を把握してもらうため、一応、大雑把な経緯を書いておくと、もともと天外1はREDの広井王子さんが企画を始め、ハドソンが制作していた。ところが、1988年末に桝田さんが、急遽入って、ゲーム全体を作り直すことになり、1989年夏(6・30なので夏商戦向け)に発売された…というのが、その流れ。
今回は、なぜ作り直しをすることになったのか、まで。

さて、天外2でメインのゲームデザインをやった桝田さんと初めて出会ったのは、1988年の年末に凄ノ王伝説の広告をやる人だ、とハドソン札幌の技術本部で紹介されたのが最初だった。そのときは、凄ノ王伝説のラストバトルのテストをしていて、見た桝田さんが結構売れるんじゃないか…と話をしていた。
次に本格的に会ったのは、凄ノ王伝説の最後~イースを作りだした直後だった。
気がついたらハドソンにいて、毎日天外1に張り付いて、一生懸命、天外1を作り直していた。

話を聞いたら事情はこうだった。
桝田さんは当時は広告会社の社員でハドソンの広告の担当をやっていて、天外1の広告のスケジュールが立てられなくて困っていた。で、ハドソンにリリーススケジュールをはっきりしてくれないと広告計画が立てられないと催促したところ、1988年末に桝田さんに監督でオーソドックスなRPGに作り直してくれないかという話が来た。桝田さんは受けたくなかったので、結構とんでもない金をふっかけたんだけど、なんとハドソンが飲んでしまい、やらざるを得なくなった…ということだった。
ここについては、さくま先生はマニュアルで「応援のために貸した」などと書いていたけれど、もちろんこれは大人の事情ってヤツで現実は上のとおりだった。
22年も前の話なのだから、真相を書いたって、ダレも文句を言うまい。

では、どうして作り直しになったのかというと、理由がいくつかあった。
まず、もともとの天外1のシナリオは、REDが作ったものだったが「ゲームに適合したもの」とは言いがたかったらしい(と桝田さんは言っていた)。つまり小説やアニメならともかくゲームにはフィットしていなかった。しかも当時のREDはゲームには素人で、ゲームシナリオについても当然素人だったので、シナリオ的に、ゲームとしてはどうよ、というような事がいっぱい起こっていた。
次の問題がゲームデザインそのものにあった。三上君が中心になってゲーム部分を作っていたわけだけど、彼はアクションが好みで、作っていた天外1のシステムは、リンクの冒険のフィールド方式と似ていて、フィールドで敵と遭遇すると画面の下半分がサイドビュー形式の戦闘画面になり、そこでバトルするシステムだった。
ところがマーケット的な観点から見ると、このゲームデザインには2つの問題があった。
一つはサイドビュー形式でアクションなので、キャラクタが大きくない事。当時、CDROMは540メガバイトの無限の大容量だから、デカキャラだろうがでかい絵だろうが無制限に出せると売っていたので、キャラクタが小さいのはいただけなかった。
そして、もう一つが当時ならではの要求だが、当時はまさにドラクエの全盛時代(ファミコン版の3が発売され、4が発売されるまでの間)で「RPGといえばドラクエ!」の時代だ。だからドラクエ型の対面型コマンド方式の戦闘が最も一般受けするのは明白だったので「一番売れなければいけない、みんなに飛びついてもらわなければならない天外魔境がそうでない」のは、営業的にはあまりいただける話ではなかった。

この当時はドラクエが圧倒的なナンバーワンRPGでFFもまだドラクエの対抗馬、というほどのブランドではなかった。FFが圧倒的なブランドとして認知されるのは1991年に発売されたSFC用のFFIVからで、それより前は「ドラクエのフォロワーの中では、一歩抜け出した存在」ぐらいのイメージだった。


またプログラム的な問題も大きかった。
これはメインプログラマの三上君に責任は全くない事だが、天外1はCDROMローンチ時のキラータイトルとして位置づけられ、最初期から作り始めていた。だから設計を始めた当時、バックグラウンドロードのやりかたは知られていなかったし、ADPCMがメモリとして使えるって事実もわかっていなかった。言い換えるなら、天外1はたったの64キロバイトしかないメモリの中でゲーム本体を作っていたので、いろいろなところにムリがあった。
だからそのムリをごまかすために、例えば画面が細かく分割されていて、テキスト表示がウィンドウでないとか、マップが小さく表示されている(全画面にマップを表示するとメモリ的に厳しくなる)とか、ゲームの見栄えとして、ちょっとどうなんだこれは…という事になっていた。
さらにCDROMのアクセスは遅く、かつ原理的に高速化するのが難しい事実を当時のハドソンはわかっていなかったうえに、ヘタにパソコンのプログラムを良く知っていたので、メモリにのっからない分はパソコンゲームのようにロードすればいいと考えていた。そしてエミュレータはシークタイムはエミュレーションしていなかったので、現実のCDでテストしてみたら、おっそろしくゲーム全体が遅て、耐えられないスピードだった。

88年にハドソンに行った時、ハドソンの連中はCDROMのアクセスがおっそろしく遅いのに気がついて騒いでいた。そして僕は、CDROMはアクセスは速くなりようがない理由を、中本さんがやたら好きだった、すすき野のザ・ロイヤル(バニー嬢がいるので有名なバー)で飲みながら、技術部のメインメンバー相手に解説させられた。
ちなみにCDROMが高速化できない理由は、CLV、すなわち線速度一定でシーク時に絶対物理的なサーボ制御が入ること、またシーク時に正確なセクターサーチを行うことが原理的に出来ない2点。CLVだから大容量なわけで、もちろん文句は言えないわけだが…

しかも、天外1は、ゲーム的にはいろいろな問題を抱えてはいても設計は進んでしまっていたために、88年末あたりから分かり始めていたPCエンジンCDROMの新しいノウハウを使うには、開発が進みすぎていて難しいという、なんとも微妙な状況に陥っていた。

つまり、まとめると、88年末の天外1は
(1)ゲームとしては営業の期待に応えにくいゲームデザイン(言い換えるとCDROMのキラーになりにくい)
(2)設計に新しいノウハウが適用されていないために、アクセスがとんでもなく多くて遅くて、いまいちショボい
(3)シナリオ的にも当時のゲームと適合しているとは言いがたい
これらの条件が複雑に絡まりあいいつになったらまとまるのかわからないゲームになっていたわけだ。

ハドソンは上記問題に悩んだ挙句、桝田さんに「89年の夏に間に合うように、天外1をオーソドックスな平面フィールド・対面コマンド戦闘方式の王道RPGに天外1を作り直して欲しい」と依頼したわけだ。

どうして広告会社の社員の桝田さんに白羽の矢が経ったのかと言うと、それは桝田さんが、さくまあきら先生の桃太郎伝説のゲームバランスなどを全部作った人(さらに書くとデビュー作)だったからだ。
ここで重要なポイントは、ハドソンから見たとき、当時の桝田さんは「コマンド型RPGのバランス部分を作れて、かつ、ゲームのシナリオを破綻なく構築することができる貴重な人材(でかつムリが効きそう)」だったこと。

なぜ、そんなことが出来たのかと言うと、桝田さんは、たまたま、さくま先生と仕事上の付き合いがあった。
そして桃太郎伝説を作るとき、さくま先生のメンバーはからきし数字に弱かったので、それが出来そうな桝田さんに押しつけた。
桝田さんは担当になってしまったので、ほとんど3日徹夜でドラゴンクエスト1(ファミコン版)をプレイして研究した。そして、最後のところでりゅうおうに「世界の半分をお前にやろう」といわれ、ためらいもなく「はい」とやったらレベルリセットされて、恐ろしいことに、一度もパスワードを記録していなかったので、また最初からやり直した…なんて、ちょっと信じられないようなエピソードを作りながら、桃太郎伝説の核になる計算の部分を作った。
だから桝田さんはゲームに対して(もちろん面白いとは思っていただろうけれど)これといった思い入れがあるわけでもなく、ゲームを仕事としてやることになったので、ドラクエを先生にしてRPGを勉強した、ヤクザ極まりない僕らの年代ですら変わった経歴の持ち主なのだが、なんにしても、こうして桝田さんはゲーム業界にデビューすることになった。
これは桝田さんから直接聞いた話で、20年以上前の話だから記憶が少し間違っている可能性はあるけれど、大枠は間違っていないと思う。

というところで、続く。
|| 21:45 | comments (7) | trackback (0) | ||

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント
>>はちはち様

それは間違いなく、修正前のものです。
そのオープニングを見た後、がま仙人に「俺は江戸に行く」かなんかそんなことを言って、外に出るって展開になったはずです。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/02/23 10:54 | Eeem.i3Y |
>火の一族が悪役…ってのは、多分、シナリオの一部にそういうところがあった、ということだと思います。
この火の一族が敵キャラという設定の紹介は、1989年発売のファミマガビデオ第4号で紹介のもので、
OPデモのシーンも声優さんの音声付で普通に見れるくらいに完成した状態で収録されてました。
このデモの絵は製品版のタイトル画面の後に流れるデモシーンに収録されてます。

この時点での冒頭のシナリオは、街で歌舞伎を見て感激したジライヤが、歌舞伎みたいな華やかな
街だという江戸を、是非自分の目で見てみたいということで筑波山を離れ旅に出るという流れでした。
その道中でジパングの異変に気づき、徐々に戦いに巻き込まれて行くという話だと紹介されてました。
おそらくこのシナリオが枡田さんの修正前のものだったんでしょうね。
| はちはち | EMAIL | URL | 11/02/23 09:25 | 7Q0Cf0A. |
1988年の最初のバージョンは文字通りテストのものですね。「ともかく一度試しに作ってみました」です。

戦闘シーンがSDキャラアクションは88年の間、ずっと開発が進んでいたバージョンです。僕は凄ノ王作ってる間、結構それ見てました。またtwohiroさんが見た前のバージョンはこれだと思います。88年の間、戦闘はこれで固定されていましたから。

火の一族が悪役…ってのは、多分、シナリオの一部にそういうところがあった、ということだと思います。

最初のエリアのボスがナメクジなのは、多分、桝田さんが入ってからのバージョンで、ボス用のグラフィックがなくて、割り振っていたものだと思われます。そのあたりは、次回でちょっと出る話です。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/02/22 12:39 | Eeem.i3Y |
天外1はユーザー側でもメディアで新情報が出る度に仕様が変わってたから
混乱したような覚えがありますね。記憶にあるだけでもこれだけありましたね。

・1988年に公開の最初のプレゼン用のデモ版
・戦闘シーンが下画面がSDキャラアクションになってるやつ
・火の一族が悪役で敵キャラ設定のシナリオ
・最初のエリアのボスがナメクジのバージョン
・完成版
| はちはち | EMAIL | URL | 11/02/22 08:39 | 7Q0Cf0A. |
天外Iをやる為に初代ROM2を購入したのが懐かしいです。PCE本体と合わせると凄い値段でしたね(苦笑)。

雑誌掲載の開発画面が大きく変わった記憶があるのですが、変わる前が多分記事の物だったのでしょうか?。

画面だけ見てると変わる前の物も当時には無いスタイルだったので魅力的でしたね。
| twohiro | EMAIL | URL | 11/02/21 22:32 | MrZJsdwU |
あーそれはまず間違いなく本当でしょうね。ちなみにドラクエ1・2の両方だったかは微妙じゃないかな、と思います。
企画していた時期を考えると、ドラクエ2はヘタをすると発売されてませんから。

ちなみにそんな話はさすがに多くないですw
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/02/19 23:10 | Eeem.i3Y |
桝田さんのデビューについて、さくまサンと桝田さんが桃電のガイドブックで語った桃伝製作秘話によると、当時さくまサンは戦闘ルーチンを知らず、プログラマの飛田さんに要求されて初めて気がついたそうです。でも自分の手には負えないので桝田さんに作ってもらうことになり、そのとき桝田さんに金を渡しファミコンとドラクエ1・2を買ってやってみろと言ったのだとか。そんなことがあって、桝田さんは桃伝でデビューしたわけです。今では考えられないことですが、当時はこんな話が多かったんでしょうね。
| take | EMAIL | URL | 11/02/19 22:52 | LXZEN9KM |
この記事のトラックバックURL :
トラックバック