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ハドソンがファミコンに参入するまで(3)
さて、1983年にいよいよ、任天堂からの開発機がハドソンにやってくる…
というわけで、ハドソンがいつ、どのようにして、ファミリーベーシックを作ることになったかについて今回は書いていきたい。
しかも、嬉しい事に、当時のハドソンの開発メンバーの大半から話を聞くことが出来たので、前回までの細かい事情を修正しつつ、本文を書いてく。
ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。

ちなみにハドソンがファミコンに参入する話はコロコロのマンガや、ハドソンが監修したらしいマンガに載っているのだけど、どちらも一切ファミリーベーシックに触れておらず「MSXより売れると思った」といった社長の慧眼にされていたりして、伝説を作るのに一役買っている。
まあこの当時の本では間違ってもファミリーベーシックについて触れるわけにはいかないわけで、こんな風な話になってしまうのも仕方がないのだけど、後の史実を研究する人たちにとってはただの妨害にしかならないだろう、と思ってしまう。

また、ゲーム史のことを少し書いたとき、危惧していた事は結構真実になりつつあって、この30年ほど前の記憶は風化が甚だしく、複数の関係者から聞いた結果、主に時系列について矛盾した事実がすでにあちこちにあるのだけど、これに関しては僕の一存で「こうだったろう」と決めている。

以下、本文。

本文に入ろうと思うが…その前に、ここで当時のハドソンの体制を説明しておく。そうでないと、また理解できない話が出てきてしまうのだ。
さて、ハドソンといえば「北海道」なのだけど、この話の1983年ごろは、実は東京に本格的な開発室があり、ほぼ札幌と同格…というか、いるメンバーからすると、こっちがメインだろ? というメンツだった。
では東京支社はどんなとこだったのかというと、こんな感じ。

■ハドソン関係者
私が入社した頃は麹町に会社があったのだけど、なぜかDECのPDP-11があったり、
86用のかなり大きな開発機MDS80?があって竹部さんがOKIのHu-BASICを作ってました
その当時としてはかなり最先端の機材がありました

その頃ソフトバンクが出来た頃で孫さんが来ていて話したことがあります
ちっちゃいオッサンだな、と思っていたのだけどねw

この証言にあるDECのPDPー11は一時無敵を誇ったDECのミニコン(ミニコンピュータの略。そしてミニより小さいからマイクロコンピュータで、これを略してマイコンだったのだ)。
MDS80とあるのは、インテルの初期の開発ハードウェア。
またOKIのHu-BASICはたぶんOKI IF-800シリーズ用のHu-BASICだと思われる。こんなのにまでHu-BASICを出していたのかと驚いてしまう。

そして、1983当時、麹町にあった東京開発側には中本伸一氏(ソフト)、岡田節男氏(ハードに関する当時のハドソンの責任者)、竹部隆司氏(ソフト)の3人がいて仕事をしていて、札幌開発側に野沢勝広氏(ハード・ソフト両方)、菊田政昭氏(当時はペーペーの若手だったらしい)などがいるという体制だった。
ちなみに笹川敏幸氏(後のハドソンのサウンドのトップ。迷宮組曲の作曲者として有名)、飛田雅宏氏(後にAS、LKといったPCエンジンの開発システムを作る。桃太郎シリーズの初期のプログラマ)のあたりも、このあたりでハドソン東京に入社したらしい。
当時のハドソンのメンバーの名前がある程度分かる人なら分かるが、どちらかというと東京のほうがメインといって間違いではない陣容だ。

中本・岡田・竹部氏の3人の中で竹部さんだけはほぼ僕は知らない。というのも、竹部さんはこのあとハドソンUSAができたとき、初代の支社長(?)としてアメリカに赴任してしまうのだ。話によると中本さんとは対照的に静かで緻密なタイプだったらしい。
また、この東京開発は、僕がハドソンで仕事をしていた88年ごろには、一時仕事を出来るように開発室として使える場所はあったし、実際いろいろなタイミングで使ったが、常駐で開発部がいるような場所としてはなくなっていた。
中本さんは、当時僕に「二つに分かれてるとよ、不便なことが多くてよぉ、札幌にまとめたんだべさ」と言っていたので、会社が大きくなってどっちにも人数がいると面倒くさいことが多いので、本社の北海道側に全開発スタッフを集めたのだろう(当時はバブルのど真ん中で、東京での事務所の維持費などがバカらしく高くなっていた、というのも理由の一環だったのではないか、と推測するが)。
ちなみに桜田名人の話によって判明したのだけど、87年初頭にはあり、これが87年いっぱいで札幌に集められた、ということらしい。また87年初頭には竹部さんはまだ東京にいたらしく、リンクのラスターについてちょっとした離れ業を見せたらしい。

このハドソン東京支社に、1983年の春ごろ、任天堂から「ファミリーコンピューター」の開発機がやってくるのだけど、どうしてやってくることになったのかというと、シャープが任天堂から頼まれてだった…というのは、この2回で書いてきた。
では、シャープがハドソンにどのようにファミリーベーシックの開発を頼んだかの経緯について、非常に具体的な証言をもらったので、以下に紹介しておく。

■ハドソン関係者
元々はシャープの矢板に工藤副社長が出向いたときに、トイレで当時の荒本部長と偶然会って、「実は知り合いの会社がBASICを載せて欲しいらしいんだけど、工藤さんの所でひきうけてくれる?」と連れションしながら聞かれた事がすべてのはじまりだったんだよ。

ただし、この話は100%本当か、といわれると微妙なところがある。
と いうのも、この話は副社長から聞いた話だと思うのだけど、僕は工藤副社長と結構つきあいがあったのだけど、副社長はよくも悪くも話を面白く作る癖のある方 で、連れションで話が始まったのは本当かも知れないけれど、ここまで具体的な話をトイレでしたのかについては若干眉に唾をつけたほうがいいと思う。
たぶん実際はトイレで「ちょっと頼みたい仕事があるけどどうかな」ぐらいから始まって…というところではなかったろうか。まあしかし伝説としては十二分に面白い話だ。

ちなみに副社長との付き合いってのがまたムチャで、僕がバックギャモンを出来て、そして工藤副社長はバックギャモンが大好きで、北海道でやたらめったら付き合わされたわけである。

ここで再度書くが、当時のハドソンにとってはこの話は別段どおってことがない。
だいたい当時の任天堂は、今まで書いてきたが「ゲーム&ウオッチ」で当てて、アーケードでもゲームを出しているおもちゃメーカーという程度の認識だ。ハドソンにとって、それなりに大きな仕事ではあったろうが、意義としては、どちらかというと「シャープとの関係」として重要だったろうと想像できる。

いずれにしても、シャープからハドソンへの依頼が1983年の初頭~春先にあり、この流れでハドソンにファミリーベーシックを書いてもらうために、1983年の春に任天堂から開発機がやってくることになった。
では、どんなハードウェアだったのかというと…

■ハドソン関係者
確かPC-8001だったと思います。
I/O拡張ユニットからフラットケーブルが出ていてそれがA3くらいの大きさの弁当箱につながってました。その箱の中にはディスクリートで組んだファミコンエミュレータが入っていました。
暴走するとピーピーとブザーが2度なってうるさかったのを覚えてます。
ちなみにキャラデザインの機能はこのツールには無く、キャラROMは別に用意して挿していました。
ファミリーBASICのキャラROMは任天堂で用意してくれたのでこっちで作成する事はありませんでした。

こんなハード。ちなみにPC-8001はI/Oをぶん回せるほどのバスドライブ能力が本体になかったので(コスト削減のためと思われる)、外部周辺機器を接続するときは拡張I/Oユニットなる箱が必要だったので、こんなものを経由しているわけだ。
ハドソンでは最新鋭のICEを普通に使っていたので、このディスクリートで組まれたファミコンエミュレータのデバッグ環境は、メチャメチャだめだったらしい。さすがにみんな細かい使い勝手は覚えていないけれど、どの方も「ともかくダサかった」という点では一致している(ダサかったということだけを覚えているというのも面白い)。
まあ、ともかく、こんな開発機がハドソン東京にやってきて、ファミリーベーシックが書かれることになった。
では、東京の誰がファミリーベーシックを書いたのか?

■ハドソン関係者
ファミリーベーシックは竹部さんが書いたんだよ。当時、東京と札幌で開発室が別れていたから。野沢さんは札幌だったので覚えていないんだと思う。
同じ時期にHuX-883という68000のワンボードマイコンを東京支社で作った(岡田さん設計)。それにもBASICを乗せようということで、竹部さんがあっという間に書き上げた。ということで当時、彼は2つのBASICを書いたわけだね。

竹部さんはその直前にHu-BASICの8086版をJRC向けに移植する仕事をしていたので、そのリソースを使って6502版を作ったんだよ。例によってROMの小ささがボトルネックで毎日血ヘドを吐きながら夜中の2時3時まで作業してたよ。おかげでファミコンというハードの性能と限界を事前によく理解ができたので素早い自社ソフトの立ち上がりに大いに役立ったね。

つまりファミリーベーシックは東京開発の竹部さんが書いた
ところで、この一連の流れで分かるとおり、竹部さんは任天堂の開発機を使ってファミリーベーシックを作ったわけだけど、実際にプログラムを書いたのは、先ほど名前の出たDECのPDP-11だったらしい。らしい…というのも、いい加減な話なのだけど、誰も正確なところを覚えてなくて、竹部さんにはインタビュー出来ていないから。
ファミリーベーシックはPDP-11上で書かれ、たぶんIntelHexの形で出力してFD書き込み>PC-8001>ファミコン開発機の流れだったのだと思われる。

では、この移植作業というか開発作業はいつごろまでかかったのかというと、これが実は結構早くて夏の発売直後、秋前には終わっていたらしい(正確にいつごろに終わったのかは誰も覚えていない)。
ファミリーベーシックの発売は、これからほぼ10ヶ月後になるので、結構時間がかかっている。
ちなみに、このズレについてはみんな覚えていないだけで、開発が終わってからも細かく仕様変更が何度かあり、それを修正することを繰り返していたのだろう、と僕は想像している。

そして、発売前から任天堂のファミコンに触ったことで、ハドソンの社内ではファミコンに対する興味が高まっていた。これは当たり前だと思う。
というのもだ、当時のファミコンは、ゲーム、特に当時のアーケードスタイルのゲームをやるってことに関しては、異次元からやってきたオーパーツみたいなハードだった。
ボタンの数はさすがにキーボードを持っているパソコンの敵ではないけれど、手元に4ボタン+方向キーがあり、当時家庭用ゲームハードでは不可能だった全方向スムーススクロール・多色スプライト・当時としては悪くない音源を備えたマシンで、もうゲームをやるために必要な機能はパーフェクトに備えている。
実際、僕は発売された直後、例の「任天堂はファミコンで儲かるようになってから、花札やトランプの本業が疎かになっている」と怒っていたオジサンのいたオモチャ屋で見てマジで腰を抜かした。
当時の僕の感覚からすると「なにこれ、ゲームセンターと同じじゃん!」だった。

そして、ハドソンは間違いなくゲームマシン初体験で、言い換えるとほぼスプライト初体験だったはずだ。
というのも、当時実質的にスプライトが実装されていたPCはATARI-400/800、TI-99(テキサスインスツルメンツ)、VIC-1001とその後継、コモドール64など日本ではマイナーな機種ばかりでハドソンは全く手がけていない。そして当時X1だのなんだののキャラクタ単位でしか動かせない世界でゲームを作っていたのだからPCではあり得ないスプライトの破壊力に感動したのは間違いない。
だから、ハドソン社内では「ファミコンが売れたら、ゲーム作るべ!(北海道弁)」になっていたもは間違いない。
ただ、反面、メモリー事情に辟易したのも確実だ。
当時のハドソンはPC相手のソフトハウスで、しかもX1などの48-64KBメモリを使えるのが当たり前のハードウェア上で暮らしていた人たちだ。この感覚からすると全部あわせて16KBのROM領域、しかも加えてワークRAMが2KBだの、VRAMが2KBなんてのはあり得ない話で、ここらへんの使いにくさが、後のPCエンジンに反映されたのだろうと思う。

ゲーム、特に当時のアーケードスタイルのゲームをやるってことに関して、と書いたのは理由がある。
ファミコンはRAMの量はホームコンピュータ候補群と比較すれば、勝負になってないし拡張性も低い。はっきり書けば、ファミコンは、コンピュータとしてはダメで、完全一点突破型ハードウェア、ぶっちゃけるならアーケードっぽいテレビゲームをやることしか考えてないからパソコンのような用途で使用しようと考えると、頭痛がするハード ウェアでしかない。

と書いても、分からない人がいるだろうから、説明しよう。
例えばファミコンのライバルってことになっていたMSXを見ると最低仕様がROM32キロバイト(BASIC,BIOSなど含む)、RAM8キロバイト、VRAM16キロバイト。これに対してファミコンはワークRAMが2KB、VRAMが2KB。そしてコンピュータとしてハードウェアを支えるソフトウェアは一切搭載されていない。
つまりホームコンピュータとしての機能をどちらがより備えていたのかというなら、キーボードを抜きにしても、どう見てもMSXのほうが上なのだ。
MSXの側から見たら、ゲームしか出来ないくせに! と文句を言いたくなるところだが、
まさにゲーム専用機だから、低価格に出来たのだし、ゲーム専用に画像チップを起こしたから恐ろしくゲームをやる上では高性能だっただけだ。

そしてifでしかないが、たまたま時代がアクションゲームではなく、もっと複雑なゲームを求めていたらMSXが最初から2の仕様のVDPだったら…それともセガがSG-1000/3000で最初からマークIIIよりちょい悪い程度のビデオチップを積んでいたら…ファミコンはあっさり消え去った可能性だってありえた。
ここらへんはifの話でしかないが、ファミコンの勝利は計算しつくされた神のような話ではなく、様々な偶然が積み重なって出来上がったもの、でしかないことは意識しておかないと、このあたりのゲーム史は見誤ることになる。

いずれにしてもハドソンはファミリーベーシックでの経験から、83年夏に発売されてからずっとファミコンに注目していて、そして83年秋に「これはいけそうだ」ということで、ファミコンの開発に乗り出すことになる。
(続)
|| 18:22 | comments (3) | trackback (0) | ||

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コメント
あーそれはミスなんです…直してないんです。
何度も間違っているので、頭の中で繋がっちゃっているんですよね・・・
| 岩崎 | EMAIL | URL | 12/07/26 11:02 | jL2fvUUo |
はじめまして。
ハドソンのファミコン参入前夜のお話、興味深く読ませていただいております。
ところで「迷宮組曲」の作曲を笹川氏と書かれていますが、
作曲されたのは国本剛章氏です(ボーナスステージのみ井上大介氏)。
国本氏のブログに関連記事があります。
http://kinokosan.blog.ocn.ne.jp/wakame/cat2502799/
| maru | EMAIL | URL | 12/07/25 13:16 | G1f8jYtM |
MSXとの比較で思い出すのが、昔のちょっとした郊外の家電屋(ノジマとか)だと
MSXはあってもファミコンがなかったりしましたね。

「ホームコンピュータ」という存在が今よりも微妙、かつ観念的だったので
「AVC」を揃える家電屋でのPCの存在は割と異様でしたけど(ワープロの脇にあった)
一方でファミコンは完全におもちゃ扱いだったので、今のように家電屋さんで
買える商品ではなかったように思います。

※カメラ系量販店は別なんですが、今程店舗数は無かったですし。

RF端子のテレビへの装着ができない家庭は割と多かったと思うんですが
おもちゃ屋でファミコンを購入して、近所の電気屋さんにRF装着を有料で
頼んで付けてもらってた、みたいな話も当時は結構聞きました。
(僕にとっては生まれて初めての電気系工作でした)
| atsu | EMAIL | URL | 12/02/07 19:08 | Iwj.hxjg |
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