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1990年10月 MV、季節、そして回転拡大縮小(1)
山根がとっ捕まえられたこと、二人のリードアーティストが決まったこと、さらに当たり前のことながら容量が決まったことで、ようやくゲームを実際に設計できることになった。
このときの、僕と山根には作り手側としての極めて明快なビジュアル系の目標がいくつかあった。

そして、中でも僕と山根はゲームとビジュアル(ムービー)の落差問題にチャレンジするのが大きな目標になっていた。

それは以下の理由から出てきた目標だった。

まず、なにより、今で言えばムービーゲーという言い方に当たるだあろう、PCエンジンのCDROMゲームに対する批判に対する反発だった。
当時、CDROMのゲームが登場したとき、良くあった批判が「普通のゲームにビジュアル(今で言うムービー)と音声がついただけ」という批判だった。
この手の批判は結局の所、(アクセスタイムという非常に厳しいものを除けば)揚げ足取りしているだけでしかない。
だけど、結構イライラする批判の中に例えば「声が入ることで想像力が削がれる」とか「絵が入ることで想像力が削がれる」といったものがあった。

桝田さんはこの手の批判に対して「ビジュアルを否定したがる人ってさ、俺の右手を見ろっていったとき、右手をアップ出来ることがどれぐらい表現を豊かにして、そして、そのとき写されていない左手にや、語られていないところへの想像力の元になるのがわかってないんだよね」(多分、このセリフを当人は覚えていない気がするけど。ちなみにこのセリフはLinda3を作っていたとき)といっていた。
そして僕はというと、かかるコストの問題はともかくとして(コストは現代コンソールゲームでは大問題になっているけど)、表現の手段が増えること=ゲームの表現力が上がることなので、当たり前だけど絶対にあるべきだと思っていた。
つまり表現手段の選択肢が増えることは極めて大事だし、あるべきだというのが僕ら制作側の意見だった(もちろんCDROMの優位点の一つでもあるわけで、それを使わないなんて商売としては基本的にあり得ないってのもある)。

この手の批判は手を代え品を代え、同じ形で出てきていて、天外2からほぼ20年経った2011年現在も、まるで同じような批判が行われているのを見ると、全く馬鹿らしくなる。
この批判は言い方を変えると「昔のゲームは(の方が)良かった」でしかないのだが、やっている人たちはまるでそれに気がついていないようだ。

ただ、現実は、そこまで理想的ではなく、僕と山根が感じていたことがあった。それは「残念ながら、確かにゲームとビジュアル(ムービー)は乖離してしまう」事だった。

というのもだ。
当時から良くゲームは映画に例えられていたが、当時はシームレスにムービーとゲームを接続することは夢でしかなく(ゲーム画面は全くアングルを変えることのできない2D)、なおかつ、今のマシンのようにストリーミングでプログラムを動かしながらデータを読むなんてマネは出来ないし、メモリの都合上、ビジュアル(ムービー)とゲームを同時に動かすのはとても難しかった。
つまり当時のCDROMのゲームは、画面アングルの変らない(その意味では別にROMカートリッジのゲームと変わりない)ゲームを普段はプレイしていて、そして…

1)ゲームで場所に行くなり、なんなりのトリガーがある。
2)(だいたいは画面が一度真っ黒になって、アクセスが行われ)、今で言うムービーに画面が切り替わる。
3)一通りムービーが再生される。
4)また普通(ROMよりちょっと豪華な)のゲームに戻る。

と、こういうシーケンスをたどるのが普通だった。
イースではバカでかい顔をゲーム画面に直に出したりしたけれど、そういうことをシステム的にやるのはとても負担が大きく、またやれることに限界がある(せいぜい顔を出してしゃべらせる程度)のもはっきりしていた。

だから当時の悪口「普通のゲームにビジュアルと音声がついているだけ」というのは「じゃあROMカートでやれるのかよ?」という問題はともかくとして、真実と言える部分もあったわけだ。
言い換えるなら、どうしてもゲームとビジュアルは分離してしまっていて、これをうまく解決する方法…つまりゲームとビジュアルの乖離を抑える方法が僕らには必要だったのだ。

ところでゲームとムービー…というか、映画的な手法が本当の意味でシームレスに結合したのは、なんといおうとFFVIIだ。
FFVIIは間違いなく史上初めて「ムービー(特に映画的技法が使われている意味での)とゲームが融合したゲーム」で、まさに当時の全ゲームデザイナーや開発者の夢をそのまま形にしていた。そして、その一点において(他にもいろいろあるが)、疑いもなくゲーム史上に燦然と輝く名作だ。
そしてFFVII以前とFFVII以降では、全くゲームとムービーの一体化へのアプローチは変ったと考えていい。
FFVII以前にはムービーとゲームの融合といったとき、例えば背景がムービーのシューティングだったり、ムービーからゲームへの接続がちょっと滑らか…という程度だった(SCEのフィロソマやLucas ArtsのRebel Assult、それともメガCDのNight Trapなど見ると良い)。
それと比較したとき、FFVIIのエアリスのムービーから始まり都市全景に引いて、タイトル、そして列車が走り込んできて、そこからゲームキャラが飛び出し、そのままゲームに滑らかに繋がるオープニングの一連のシーケンスは、まさにゲームの歴史を変えた瞬間だったと断言出来る。

僕と山根にとって、それを解決する大きなヒントになったのがYs-IIIだった。
Ys-IIIは横スクロールで、そして画面を舞台のようにみなして、ビジュアルをやるのではなく、ゲーム画面上で凝った演劇風のデモを見せる方法をとっていた。
そして僕は発売前に山根がスタッフからもらってきたバージョンを見て、非常に強く感銘を受けていた(特に最後の螺旋階段を上るシーンから、ガルバランの所へ行くまでとオープニングには本当に感心した)。
そして、それに影響を受けたのと、イース1・2はアクションRPGで、画面を切り替えてのアニメーションに頼るのはゲームのリズムを崩すといった問題もあったので、地下水路で外に出たとき水がなくなるシーンを見せるとか、ボスが登場するシーンを大幅に凝るとか、ラスボスのところで橋が崩れるシーンをいれるとか、そういう拡張をしてみていて通常のゲームを豪華に見せる方法にある程度の手応えを感じていた。

だが普通にゲームシステムが載っていたのでは、仮にSuper CDだろうとも、あまり派手なアニメーションをやるメモリはどこにもない。せいぜいが一発芸だ。
そこで僕が思いついたのが「MV("Map Visual"の略)」だった。
これは「普通のゲーム画面のフリをしてビジュアル用の極限までグラフィックにメモリが割り当てられる専用プログラムで、アニメーションをすれば、普通のゲーム画面では絶対に出来ない、何倍も凝った派手なイベントを作ることが出来る!」というアイディアだった。
この方法なら、ゲーム画面で派手なシーンが作れて、ビジュアルとゲームの乖離が小さくなるし、さらにビジュアル中に通常ゲーム画面のフリをして画面を入れる真似も出来る(シームレスに繋がっているフリも出来る)。

これならメモリある限りムチャ出来るし、システムにムチャクチャやっても大丈夫だ…というわけで、僕らはまずMVというアイディアを軸に「ゲームの中でMVにしたいところ」や「MVでやりたいところとアニメでやりたいところ」を割り振っていく作業が始まった。

というところで…この項、続く。
|| 19:17 | comments (5) | trackback (0) | ||

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コメント
とりあえず『ビジュアルシーン』付けとけば糞移植だろうが糞ゲーだろうが商品としての体裁が成り立つ、みたいな風潮はたしかにあったと思う。日本○レネット系列が特に。
このエントリーを見てて、また一部の方のコメントを見て、製作者の目指す部分とプレイヤーが期待していた部分の乖離が大きいのだなと感じた。
| SHUTTLE | EMAIL | URL | 11/07/10 16:39 | L.PedbjY |
>ゲームとビジュアル(ムービー)の落差問題
個人的には当時はゲーム中のデモだと割り切っててそんなに気にならなかったですね。
ファミコン時代にもパッケージの絵と実際ゲーム画面の凄い落差とか普通にあったし、
それでも楽しんでたからいつの間にか免疫ができてたのかも?
むしろCD音源とPCエンジンの波形メモリ音源の落差の方が顕著だったように思います。
| はちはち | EMAIL | URL | 11/07/08 11:33 | 7Q0Cf0A. |
テレビゲームってコントローラを操作するという行為がとても大切だと思うんですけど、イベントシーンが始まるとそれがスッポリと抜けちゃうんですよね。イベントシーンの価値については散々言われてきた事だと思いますけど、作り手は物語を語りたいのに対してプレイヤーは何かを操作して遊びたいという乖離が起きちゃった結果が今のゲーム市場かなと。
| mm | EMAIL | URL | 11/07/07 20:40 | 15cLH4N2 |
ムービーは良いのですが、強制的に見せられるのはキツイです。終わるまで待たなきゃならないし、RPGのボス戦絡みのムービーだと負けて再戦する時また見なければならない。そうやって何度も見るうちに飽きてきて、そのうちムービー製作者に対する怒りが沸いてきます。作り手としては何度も見てもらいたいんでしょうが、2度目からはスキップできるようにしてもらわないと。

一度見れば充分なものをコストと時間をかけて作るのはいささか不合理のような気がします。ましてや、それをウリにするなんて本末転倒にも思えるのですが。
今のゲームって、ムービー無しじゃ売れないんですかね?

そういう意味ではPC版イース(6以降)の、静止画を多用した「紙芝居」でも良いんじゃないかと思います。プレイする上で不都合はないのですから。
| take | EMAIL | URL | 11/07/07 10:36 | Twz1nm/2 |
プリレンダのものはだいぶ見かけなくなったような。

にしてもムービーですかぁ。
黎明期にはそれ自体が価値を持つかのように一人歩きしていた時期もありました。(間違っていたとは思いませんが)パラサイトイブとかムービーを除いたら何も記憶がないみたいに。

そしてそういったギャップは音声でもありましたよね。
アークザラッドで戦闘終了後の勝ち台詞が生声だとか何十種類だとかウリになって、そもそも浮いていてウザいのに「だから何?」とイライラしたものです。
…それでも、過渡期にはつきものの話です。

それがいろんなカタチで現在に尾を引いているんですね

最近あった

「介入不能な「お話」中心のゲームばかり出すな」

に通じるものもあります。
ビジュアルかゲーム性かみたいな。どっちも大事なのに。

日本のかなりのゲームが「お話」中心だと思うのですが、(それ故の閉塞?海外でも増えてきているような…)作り手、それ以上にコアユーザーの思考が保守・硬直化しています。
海外や技術そのものに対しての敵愾心とか目も当てられないほど。
ネットに毒されすぎでしょうか。

一方で、思い出(美化されているものですが)はそれはそれで大事にしたいので、
たまに言われるようなゴミ画質とか言われるとカッとしますけど。
| michikusa | EMAIL | URL | 11/07/07 01:11 | aL2dJzPM |
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