2012-03-08 Thu [ 昔のこと ]
今日(3/8)、鶴見六百、つまり清水芋吉からツイッターで伝えられて、思わず少しつぶやいたけど、やっぱこういうことはブログとかに書いておこうと思ったので、日記がてらに、Beepから始まった、歴史としては日本最古と言っていいゲーム専門誌が休刊するということで、ちょっと思い出話などを書いておきたい。
僕が実質的にライターデビューしたのはBeepだった。
そして、Beepは僕の人生に決定的な影響を与えている。
どうして…という話を始めると複雑怪奇なのだけど、面倒くさい話をはしょって簡単にまとめると、僕が入社したベンチャー企業は漫画家の御厨さと美先生が関係していた。
そして御厨先生のプロダクションは当時ちょうどBeepの読者コーナーの仕事を請ける話になっていた。
これがYATATA WARS。
今で言う読者参加型ゲームの走りみたいなものだけど、当時はそこらへんをうまくシステム化できなくて、イマイチ盛り上がらなかったのは残念なところだ(読者コーナーとしては結構盛り上がった)。
僕はログインでゲームを出したことなどもあり「YATATA WARSの1コーナーとしてゲームプログラムを載せないか?」と言われたのが、ライター経歴の本格的なスタートだった。
そして僕のコーナーは、毎号プログラムを載せ、その解説を書くスタイルで始まったのだけど、これが結構人気があったらしく「ヤタタウォーズが終わった後も、コーナーは続けない?」といわれて、ヤタタウォーズが終了してからあとも、独立した連載コーナーとしてBeepの中で生き延びることになった。
こうして独立したコーナーになったのだけど、しばらくして「プログラムだけじゃなくて、ゲームのレビュー書いていいですかね?」と聞いたところ「どうぞ、どうぞ」というので、ちょっとゲームをレビューした。
そしたら、これがアンケートがよかったらしく、当時の担当から「ゲームのレビューの人気があるから、そっちを中心にしませんか」といわれ、ゲームのレビュー&評論コーナーになっていった。
それで、Beep!メガドライブになるまで、僕はBeepに書いていくことになったわけだ。
この偶然の積み重ねは続いていく。
1986年、ヤタタウォーズ(と、あと攻略本なんか)で知り合いの編集だったSKさんが、角川メディアオフィス(KMO)でマル勝ファミコンの立ち上げに関係することになった。そして、この関係で、86年の後半ぐらいからKMOで仕事をするようになる。
1987年に、そのSKさんから「ハドソンがゲーム作れるやつ探してるんだけど、企画しない?」といわれ、ハドソンに行って中本さんと会い、会社を辞めてゲーム屋になることを決める。
1988年に、ハドソンに行って、僕はゲームを作るプロの方に立つことになり、今にいたる筋道の決定的な線が引かれることになった。
もちろん1984年のBeepよりもずっと前から、この偶然の積み重ねは続いてる。
そして、88年よりあとにもやっぱりたくさんあって、そんな偶然の積み重ねばかりで僕の人生は出来上がっているけれど、それでも84年のBeepと88年のハドソンは、自分の人生を決定的に変えた大きなポイントに挙げる場所なのは間違いない。
そして人生の大きなポイントになったBeepとハドソンが、同じ年に似たタイミングでなくなることに、信じがたい不思議な運命を感じてしまうとともに、一時代の終わりをしみじみと感じているのだった。
僕が実質的にライターデビューしたのはBeepだった。
そして、Beepは僕の人生に決定的な影響を与えている。
どうして…という話を始めると複雑怪奇なのだけど、面倒くさい話をはしょって簡単にまとめると、僕が入社したベンチャー企業は漫画家の御厨さと美先生が関係していた。
そして御厨先生のプロダクションは当時ちょうどBeepの読者コーナーの仕事を請ける話になっていた。
これがYATATA WARS。
今で言う読者参加型ゲームの走りみたいなものだけど、当時はそこらへんをうまくシステム化できなくて、イマイチ盛り上がらなかったのは残念なところだ(読者コーナーとしては結構盛り上がった)。
僕はログインでゲームを出したことなどもあり「YATATA WARSの1コーナーとしてゲームプログラムを載せないか?」と言われたのが、ライター経歴の本格的なスタートだった。
そして僕のコーナーは、毎号プログラムを載せ、その解説を書くスタイルで始まったのだけど、これが結構人気があったらしく「ヤタタウォーズが終わった後も、コーナーは続けない?」といわれて、ヤタタウォーズが終了してからあとも、独立した連載コーナーとしてBeepの中で生き延びることになった。
こうして独立したコーナーになったのだけど、しばらくして「プログラムだけじゃなくて、ゲームのレビュー書いていいですかね?」と聞いたところ「どうぞ、どうぞ」というので、ちょっとゲームをレビューした。
そしたら、これがアンケートがよかったらしく、当時の担当から「ゲームのレビューの人気があるから、そっちを中心にしませんか」といわれ、ゲームのレビュー&評論コーナーになっていった。
それで、Beep!メガドライブになるまで、僕はBeepに書いていくことになったわけだ。
ところでBeepはライターがほとんど遊び感覚だったから、本当に面白くて、撮影するためにみんなで暗室でMSXのグラディウス2を一晩中攻略してたり、ロックマンやってハマりまくったり、芋吉が「1日一回、ファンタジーゾーン!」とか言いながら、クリアしてたり、誰だったか忘れたけど「ジェニージェニー」ってわめきながらプレイしてたり、全くどうかしてる編集部だった。
この偶然の積み重ねは続いていく。
1986年、ヤタタウォーズ(と、あと攻略本なんか)で知り合いの編集だったSKさんが、角川メディアオフィス(KMO)でマル勝ファミコンの立ち上げに関係することになった。そして、この関係で、86年の後半ぐらいからKMOで仕事をするようになる。
1987年に、そのSKさんから「ハドソンがゲーム作れるやつ探してるんだけど、企画しない?」といわれ、ハドソンに行って中本さんと会い、会社を辞めてゲーム屋になることを決める。
1988年に、ハドソンに行って、僕はゲームを作るプロの方に立つことになり、今にいたる筋道の決定的な線が引かれることになった。
もちろん1984年のBeepよりもずっと前から、この偶然の積み重ねは続いてる。
そして、88年よりあとにもやっぱりたくさんあって、そんな偶然の積み重ねばかりで僕の人生は出来上がっているけれど、それでも84年のBeepと88年のハドソンは、自分の人生を決定的に変えた大きなポイントに挙げる場所なのは間違いない。
そして人生の大きなポイントになったBeepとハドソンが、同じ年に似たタイミングでなくなることに、信じがたい不思議な運命を感じてしまうとともに、一時代の終わりをしみじみと感じているのだった。