2010-05-01 Sat [ Ysを作った頃 ]
前回はコレ
過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
前回の続きで今回も88-89年に、自分がハドソンでデバッグしたり、バランス調整に関わったり、ちょっと制作を手伝ったりしたゲームについて書いていくけど、どうしてハドソンのゲームのデバッグ(と場合によっては企画内容)に関わっていたのかというと、当時はハドソンに勤めてる同然の状態で、技術部のメンバーと仲が良かったことが大きな理由だけど、加えて、企画と仲が良かったことも大きかった。ハドソンの企画の仕事は
2つめと3つめがミソで、結局、当時の企画は外注が作っているゲームが集まるところで、仲が良かった僕は、企画部に来るゲームを片っ端からプレイさせてもらっていたわけだ。
当たり前だが、僕はゲームをプレイするのが大好きだ。そしてゲームの会社といえどヒマさえあれば、新しいゲームがあるなら必ず遊びたがるほどのゲーム好きはそうそういない。だから、企画としては、何も言わなくても毎日のように一度ぐらいは来て、新しいROMが来たと言えば、絶対に遊ぶ人間はとても貴重だったのだろう。
また上と少し関わるが加えてゲームがうまかったのも大きな理由だろう。
ずっとゲーマーだったのに加え、Beep! でライター業をやっていたのもあって、ゲーマーとしての腕がピークの時代で、アクションとシューティングはアーケードで一周出来るのが当たり前の感覚だった。
そしてデバッグするときには下手なヤツも必要だが、うまいヤツも必要で、そしてうまいヤツは初期から必要なことが多く、アクションとシューティングは多分当時のハドソンの技術部の中では上から数えて3本の指に入ったのはほぼ間違いないし、シューティングに至っては僕より上手かったヤツは1人だけだったと思う。
(このやたらめったらうまかったのがサウンドにいた岩淵というやつ。こいつは完全に僕よりうまかった。ブッチーと呼ばれていた)
そして最後に「このゲームはこうした方がいい」とクリアするなり、なんなり、ともかくシビアにプレイしてしてレポートとして書けたことだろう。これまたライター業のおかげだ。実際はレポートとして書いたことはあまりなくて、たいていは担当者に口頭でプレイを見せながら伝えたが、それをやれる人間はそうそういなかったということだろう。
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過去記事の集合体はコレ
この話は1988-89年頃、PCエンジン版のイースを作るとき、僕が経験した話を出来るだけ正確に記録に残すつもりで書いている。ただし、これは
1)21年前の話で、記憶違いの可能性は十分にある。
2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
だから、当時の正確な記録ではない可能性はあるのは理解して欲しい。2)僕が体験したり思ったりしたことを書くようにしているが、伝聞情報(二次情報程度)もある。
前回の続きで今回も88-89年に、自分がハドソンでデバッグしたり、バランス調整に関わったり、ちょっと制作を手伝ったりしたゲームについて書いていくけど、どうしてハドソンのゲームのデバッグ(と場合によっては企画内容)に関わっていたのかというと、当時はハドソンに勤めてる同然の状態で、技術部のメンバーと仲が良かったことが大きな理由だけど、加えて、企画と仲が良かったことも大きかった。ハドソンの企画の仕事は
・もちろんゲームデザイン(当時は企画と呼ばれていた)
・外注の持ち込んだ企画をチェックして、営業会議などに出す仕事
・外注の作っているゲームのスケジュール&内容管理
だいたいこんな仕事をしていた。・外注の持ち込んだ企画をチェックして、営業会議などに出す仕事
・外注の作っているゲームのスケジュール&内容管理
2つめと3つめがミソで、結局、当時の企画は外注が作っているゲームが集まるところで、仲が良かった僕は、企画部に来るゲームを片っ端からプレイさせてもらっていたわけだ。
当たり前だが、僕はゲームをプレイするのが大好きだ。そしてゲームの会社といえどヒマさえあれば、新しいゲームがあるなら必ず遊びたがるほどのゲーム好きはそうそういない。だから、企画としては、何も言わなくても毎日のように一度ぐらいは来て、新しいROMが来たと言えば、絶対に遊ぶ人間はとても貴重だったのだろう。
また上と少し関わるが加えてゲームがうまかったのも大きな理由だろう。
ずっとゲーマーだったのに加え、Beep! でライター業をやっていたのもあって、ゲーマーとしての腕がピークの時代で、アクションとシューティングはアーケードで一周出来るのが当たり前の感覚だった。
そしてデバッグするときには下手なヤツも必要だが、うまいヤツも必要で、そしてうまいヤツは初期から必要なことが多く、アクションとシューティングは多分当時のハドソンの技術部の中では上から数えて3本の指に入ったのはほぼ間違いないし、シューティングに至っては僕より上手かったヤツは1人だけだったと思う。
(このやたらめったらうまかったのがサウンドにいた岩淵というやつ。こいつは完全に僕よりうまかった。ブッチーと呼ばれていた)
そして最後に「このゲームはこうした方がいい」とクリアするなり、なんなり、ともかくシビアにプレイしてしてレポートとして書けたことだろう。これまたライター業のおかげだ。実際はレポートとして書いたことはあまりなくて、たいていは担当者に口頭でプレイを見せながら伝えたが、それをやれる人間はそうそういなかったということだろう。
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