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1991年3月 久石譲さんに音楽が決まる
間でハドソンのこと調べたり、いろんなことやってたらえらく間が空いてしまったけれど(;´ω`)

91年3月。(正確には1-3月の間なんだけど)いろいろ僕らは困りだしていた。
というのも、音楽…というか、作曲家がいつまで経っても決まらなかったからだ。

この頃には音楽に関する仕様は、もちろんほぼ固まっていた。
まず4人のテーマがあること。
これはもともと桝田さんか広井さんか、どっちかからのオーダーで始まった。タイトル以外に4人のキャラクターそれぞれのアニメーションデモを入れる仕様が決まったとき、ほぼ一緒に決まったことだった。
(この手のオーダーをするのは広井さんが多かったので、たぶん広井さんだと思うのだけど、自信はない)。
なんにしても4人のテーマがあると、それぞれの活躍する場面で曲を簡単に決められるメリットがあり、かつ分かりやすくて汎用性が高いから、僕は大賛成だった。
どうして4人のデモがあるかというと、広井さんは天外Ⅱを「キャラクタのゲームである」(キャラの立ったゲームであること、みたいな意味)と定義していた。
そして桝田さんはもちろんそれを忠実に敷衍しており、キャラクタを立たせるためならなんでもやる的なところがあり、これがまた「スーパーCDROMならデモでもこんなにスゴイ」的な宣伝戦略と組み合わさり、4人のアニメーションデモがある、ということに決まったのだ。
4人分デモ作るのはいいし贅沢だけど、スーパーCDとは関係ないよなあ…って当事思ってたw


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|| 18:59 | comments (5) | trackback (0) | ||

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1991年2月 開発スタート。ivとgnu(下)
前回は iv を作る寸前まで終わってしまっていたので、今回がその続き。

ivを作っていたのはイースが最終デバッグに入り始めたあたりから、1990年の頭ぐらいまで。
そしてivが初めて実用に供されたのが『うる星やつら STAY WITH YOU』(1990.6/ハドソン)から。
確かメインプログラマが三上君だったはず。彼は飛田さんのサブプログラマをやったことがあり、結構ツーカーだったので、ivの開発には関わっていないけれど、飛田さん的にはやりやすかったのではなかろうか。
シナリオライターは当時企画にいた高津君。
映画&アニメマニアだったので、シナリオライターに抜擢されたのだろうと思う。
ただ、彼は「うる星やつら」は実は全然知らず、勉強してシナリオを書いたので、最初のシナリオではエンディングが「うる星」風になっていなかった(普通の恋愛映画のようなエンディングになっていた)。
で、僕は当時「うる星」の大ファンだったので「これはマズいよ」といって、オチだけは変えてもらったのを良く覚えている。いや、グラフィックの発注とかする前に教えてもらってよかったとw
なんかこれはイースのときにも書いた気はするけど…と思って検索したらなかった…

当時、僕はハドソンの2階でJohnと一緒にイース1・2の海外版を作りながら、4階の開発ルームにフラフラといっては、デバッグやらivやらやるという感じだった。
なんせイースの海外版は待ち時間が長かったので、ヒマだったのだよ。




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|| 20:53 | comments (0) | trackback (0) | ||

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1991年2月 開発スタート。ivとgnu(上)
1991年2月。
東京は市ヶ谷の天外2開発ルームにはマシンが10台以上並び、久保久・松田クン・山根・アルファシステムの長谷川君(ファイティングストリートなど多数)、同じくアルファの藪(大魔界村の移植)、さらにグラフィックの外注をやってもらうウィンズのメンバーが集まり始め、ついに開発はスタートしようとしていた。

そのまだ人が揃いきっていない開発ルームで、僕は、信頼するアルファシステムの長谷川君とシステム設計の打ち合わせをしていた。
これはイース1・2で、そこらへんをキッチリ決めておかないと、CDROMでは、あとでエラい目に会うという事がわかっていたからだ。
…とは言っても、結構打ち合わせは簡単だった。ビルド関係は、イースで作ったものが柔軟性と信頼性を持っていたので、多人数に対応するために若干の調整をする以外は、ほぼ手直しなしで使うことになったからだ。
ビルドは「実行できるゲームを作る作業」ぐらいの意味と思えばいい。
で、ビルドシステムは「実行可能なゲームをどのように組み立てるのか」の設計図のようなもの。
今ならIDEなどが完備していて、プロジェクトを作ればなんとでもなるけれど、当時は、だいたいIDEなんてほぼなかったし、仮にあっても、例えば1フォルダの中にあるファイル数が一定を超えると急速に速度が落ちたり、場合によっては動かなくなるなどの問題があって、みんなIDEみたいなメモリ食うわ、信頼性低いわなんてものは使わず、己の信じるツール(場合によってはDOSのバッチファイルw)で、ビルドシステムを作るのが当たり前だった。
このビルドシステムは、だいたいはUNIX育ちのmakeとmakefileが受け持つのが当たり前だったのだけど、これまた流派がありw borlandのturbo-c付属のmakeを使う人もいればmsのMS-C付属のものを使うヤツもいて、しかもこれら全部に方言があって、まあ大変だった。
そしてプロジェクトの中で扱うファイル数はとんでもない重大事項でたとえば1フォルダ(ディレクトリ)に1000ファイルほどもあると、ほとんどのツールがメモリ不足で動かなくなったり、ハングアップしたり、ともかくとんでもないことになることが多かった。
実際、イース1・2ではROMカートリッジでは考えられないほどの量のファイルを扱うことになり、飛田さんの作ったasもlkもまたturbo-c付属のmakeなども、まるで動かなくなる事態に陥り、7月の段階で一度大規模にビルドシステムを作り直しする、大変な目にあった。
実際のところ、ほとんど1週間ぐらいビルドシステムを作り直しして、emsにスワップ出来るgnu makeでmakefile全部書き直すのは本当に大変だった。
そして、このときのシステムが十分に柔軟性があったので、天外2ではそのまま使えたわけだ(イースで作ったシステムは原理的にEMSがパンクしない限りは絶対に大丈夫だし、複雑なプロジェクト構造になっても耐えられる設計になっていた)。
ちなみに、調整したところは、システムとシナリオ部分を完全に切り離して、多人数が同時に作業しても、問題が起きないようにすることだった。

そして、打ち合わせの途中、長谷川君が僕に言った。
「岩崎さん、天外2ではiv使おうと思うのよ」
「えーっ!? あれはまあ汎用言語だけどインタープリタよ? アドベンチャならともかくRPGで間に合うの?
「うん、間に合うよ。アルファシステムでもう使っていて、十分って結論が出てるのよ」
「なら、ぜんぜん楽にはなるけどさ…本当かよ」
「本当だよ、圧倒的に便利だし、十分速いよ」

「間に合う」は1/60秒でちゃんと処理を全部終われるの?の意味

ivは、PCエンジンで使われていた汎用中間コードコンパイラで、今で言う仮想マシンとかLuaとかphpみたいな代物だ。
そして、ここで話したとおり、天外2のほとんどはivで記述した。つまりプログラムの99%はアセンブラで書かれていない。95%はこのiv、つまり中間コードで、4%ぐらいがビジュアルアセンブラ(と僕が呼んでいた結構ひどいビジュアル専用の言語)、実際にアセンブラで書かれていたのはシステム部分やコアのルーチンだけで、ほとんどはivで動いていたのだ(サイズから考えると99.99%はアセンブラでなかったと思う)。

今回と次回はほぼ、このivだけの話になる。

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|| 19:39 | comments (3) | trackback (0) | ||

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1991年1月 浦上進君と日本テレネット
1991年1月、天外2はいよいよ、実際の開発作業に入るための最終準備段階に入っていた。
実際の作業は市ヶ谷の角川メディアオフィスが入っていたビルの裏にある貸しビルの2F(今でもあったので写真を載せておく)に開発チームが集まって、行われることになっていた。つまりアルファシステムやハドソン北海道の連中からすると、長期出張ってことになる。これは天外2クラスになると、毎月広報などがあるうえに、広井さんも桝田さんも忙しくなっていて、北海道に長期開発チームが集まるのが難しかったのが理由として一番大きかった。
とはいっても新年そうそうだったので、借りた事務所にチームは集まっていなかったが、僕は開発機やらいろいろなもののレイアウト計画やらハードの準備があり、加えて、当然桝田さんや山根との打ち合わせもあったので、それに忙殺されていた。

このビルの2階は1年半ほど、具体的には1992年の夏に角川メディアオフィスが飯田橋に移転するまで、角川メディアオフィスのゲーム事業部として機能した。そして移転してほんの数ヶ月もしないうちに角川書店のお家騒動が起き、水道橋でメディアワークスを立ち上げることになる。


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1990年12月 SFC、レッドの忘年会、そしてBINGO
アップロードのタイミングがいいので日記代わりに。
いろいろあったのだけどやっぱり海外の会社に就職した。
会社はgameloft。仕事はlead game designer / game director ってことになる。
また日本語じゃない言葉を喋る仕事になってしまったw
海外就職シリーズでちょっと付け加えたいことが出来たので、近いうちに書く予定。ともかく忙しくて、やることが突然増えて大騒ぎ。
以下本文。

1990年12月。
スーパーファミコンが1ヶ月ほど前に発売され、超品薄になり大変な騒ぎが起こっていたけれど、僕ら天外2のチームにはあまり関係がなかった。
というか、スーパーファミコンは、もちろんPCエンジンスーパーCDROMのライバルではあったけれど、反面、サードパーティ・雑誌社などにとっては期待の新製品発売でゲーム業界の盛り上がりに水をかける必要などない。
天外2チームとしては「いやーもちろんSFCさんもいいハードですけど、しょせんはROMですから、CDのスゴさには総合では勝てませんよ」ぐらいのエールを送っておくのが大人というモノだ。



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