イース通史(22):PCエンジン版イースⅢ開発開始
さて、僕が海外版を作り始めていた90年の初頭、ハドソンでは『イースⅢ』の移植が決まっていた。
当初の発売予定は1990年末。
開発は熊本のアルファシステムで始まり、並行して札幌ハドソンでグラフィックの開発が行われることになる。
開発メンバーは以下の通り。
役割 | 主要メンバー |
ゲーム | 佐々木社長 高嶺(JOE熊本) 長谷川浩 |
ビジュアル | 吉ノ薗茂夫(よしのずい) 藪芳昭(?) |
キャラデザ | 山根ともお |
アート責任者 | 角谷篤志 |
オープニング | 岡本敏郎 |
もちろんこれ以外にもスタッフはいる。
特にアーティストはたくさんいて、面白いエピソードがいろいろあるので、そこらへんは後で書きたい。
また、スタッフに(?)マークが入っているのは、あとで書くけれど証言では、まだはっきりしていないところ。
長谷川君の話によると、年末発売予定で、長谷川君以外がメインをやるという話でスタートするのだけど、まあいろいろあることになる。
■長谷川君の証言
イースI・IIのソースを利用して私以外のプログラマーが頭をとるということで始まった。年末発売予定だったと思う。
では、実際の開発はどのようにして行われたのかというと、最初のうちはプログラムは全部、九州は熊本のアルファシステムで、そしてグラフィックは全部北海道ハドソンで作るという、とんでもない遠隔地開発の体制でスタートすることになる。
最初のうちは、と書いたのは、もちろんいうまでもなく、世の中にはうまくいかないことがいっぱいあるのである。
ここで白状すると移植作業がいつスタートしたのかはわからない。
誰も覚えていないのだ。
ただ、一つわかっていることがある。
僕が90年1月から4月の終わりまで北海道で『イースⅠ・Ⅱ』海外版を作っていた間、山根のヤツと会った記憶が全くない。
そして海外版のマスターは90年の4月終わりで、僕はマスターを出して、北海道を引き払い、東京に帰っている。
でも『イースⅢ』で山根が北海道で作業をしたのは間違いなく、またあとで書くけれど、角谷君の証言によると、山根がコンテを描き終わったのが6月の終わりで、そこから岡本さんが作業に入ったとのことなので、早ければアルファでは3月あたりから作業が始まり、ハドソンではゴールデンウィーク明けぐらいから、アートの作業が本格化した…というのが、考えられる合理的なスケジュールだ。
というわけで、コードの移植作業が始まるのだけど、ここで大きな問題が発生する。
『イースⅢ』のPC版は知っての通り、多重スクロールが売りだったわけだが、これをPCエンジンに移植するには技術的に大きな問題があった。
それは今でいうゲームエンジン的な部分、グラフィックの処理が『イースⅠ・Ⅱ』の時と比べて大幅に変わったからだ。
理解してもらうために、少し技術的な説明をしていきたい。
まず80年代末のパソコンは横640×縦200ドットのグラフィックを持つハードがホビーPCとしては主流だった。
なぜそうなのかというと、1970年代の前半に話はさかのぼる。
この当時、使われていたアナログモニタの周波数の都合から640ドットが実用上限に近い数字だった。
次に当時、IBMのメインフレーム(大型コンピュータとか訳されていた)が圧倒的なデファクトスタンダードで、そこでプログラムやデータ入力に使われていたパンチカード(1枚が1行という代物)は、1行80桁だった。
そしてアルファベットの1文字を自然に表示するためには7ドットぐらい必要(GMQWあたりを考えるといい)で、これに文字間のスペースを足すと8ドット。
640÷8=80
とてもパンチカードからの移行がやりやすい数字になった。
また当時のモニタはNTSCのものを流用していたので224ドット程度。歪まずに確実に見える範囲は200ドットぐらい。
200ドットを今度は縦8ドットで表現すると考えると25行。
だから80×25行の周辺が標準になった。
初期は80桁×24行+1行の特殊行の形で設計されていた。
これがパソコンになったとき、特殊行がファンクションキーになって、25行・200ドット表示が可能になる。
また8ドットという単位は、1ドット=1ビットとして扱うと、8ドット=1バイト、1文字=8バイトという、コンピュータにとってとても扱いやすい形になったので、大変に便利だった。
こんな様々な理由が重なって、1972年にIBM 3270というメインフレームと接続する有名なターミナルシステムが登場し、これがデファクトスタンダードになって、世の中は80桁×24行+1行がないと話にならない時代がやってくる。
例えば1975年に登場したDECのVT52という端末があり、これが1978年にVT100にバージョンアップし、今でもターミナルエミュレータとして影響があるのだけど、これの基本設計は80桁×24行。
どれだけ大きな影響があったかわかる。
また日本語を使う上で必須の漢字からも、この80桁、640ドットはとても便利だった。漢字をあまり省略せずに描くのに必要なドット数は約16ドット。
つまり横640ドットは、漢字40文字、すなわち原稿用紙の2行分ぐらいが表示出来るので、日本語ワードプロセッサへの道が拓かれることになるわけだ。
ところでアルファベットは8ドットで、漢字はその2倍の幅の16ドットを使って表示するという仕掛けだ。これから「半角」という言葉が出来上がる。
漢字16ドットが全角(印刷用語)なら、その半分なので半角というわけだ。
というわけで、当時、ビジネスまで使えることを売りにする、漢字がちゃんと扱えるPCは80桁×25行=640×200ドットの画面を扱うのが事実上の標準、デファクトスタンダードだったわけだけど、この画面には一つ今の画面とは大きく違う所がある。
それは1ドットが縦長だったこと。
そして、上のようにこの縦長の8×8ドットのキャラクタを2つ使って16×8ドットの正方形にして、スプライトやマップチップを作っていた。
これを『イースⅠ・Ⅱ』では、一番右のように8×8ドットのマップチップとして移植したわけだ。
なおもともと解像度がPC88などと比べて低いMSX2ではPCエンジン版と同じ形式で移植されている。
ところが、PC88版の『イースⅢ』では、この正方形を部分的に止めてしまう。イース通史Ⅰからの引用。
■オリジナルスタッフの証言
ワンダラーズだと背景チップが、前景と後景2つある。だがPC88のメモリに載せるのは難しい。そこで橋本さんは、後景のチップを横半分にして搭載した。
■オリジナルスタッフの証言
3重スクロールのマップグラフィックバンク内データの持ち方が非常に特殊で最奥、中間、最前ごとの分類判定にキャラ1個(8☓16dot)を消費しなければならず、勿体無いと常々言っていた記憶がありました。
具体的にはアドルより後ろの背景を8×8ドットの縦長のドットにして無理やりパーツの数を増やす仕様だ。
ここから先に問題が出てくる。仮にこれをそのままPCエンジンに移植しようとすると、1キャラの半分しか使わないことになる。
つまり、仮にPCエンジンでパソコン版と同じ仕様にすると、上のようになるので、キャラクタをわざわざ4ドット単位でなんらかの処理をして表示することになる。
PCよりずっと面倒くさいので、こんなことやったのか確認しようと、長谷川君に聞いてみた。
■長谷川浩君の証言
今手元にソースがないので確実ではないが、一番奥の背景は、4ドットずれたキャラジェネを2枚持ってたと思う。
手前のBGの半端な部分はスプライトなんだけど、事前に生成してたか、その場で生成してたか、はっきり覚えてない。
要はPC88では1キャラ分の8ドットがPCエンジンでは4ドットになってしまうため、わざわざズレたデータを用意して場合分けして表示していたわけだ。
さて。はっきり書いてしまうなら、実はずっと『イースⅢ』の移植は「ハドソン、わかってねえな」と思っていた。
僕が仮に『イースⅢ』の移植をしてくれと言われていたら、もうオリジナルの多重スクロールは再現しないし(都合よく処理できるところは再現)、周囲の意匠枠も取っ払い、さらにスプライトを16個表示してパフォーマンスをフルに出すために256ドットモードを使ったと思うし、背景は基本スムーズスクロールにして、もっと『リンクの冒険』みたいなアクションRPGを目指したのは間違いない。
なぜなら『イースⅢ』をPCと同じにする意味を見出せないからだ。
『イースⅠ・Ⅱ』でマップをオリジナルと同じにしたのは、レベルデザインが見事で同じ画面サイズにしないと破綻するところだらけだったからだ。
でも『イースⅢ』では、そこまでの精度で作られているマップなんてない。
ならば横スクロールのアクションをやらせるならスムーズスクロール+スプライトで、ラスターとスプライトと効果的なところをうまく書き換えしてのPCエンジンの強みを活かした移植…というか、アレンジにしたほうがより良いゲームに出来るチャンスが遥かに大きい。
だいたい320ドットモードは当時のご家庭のテレビではチラつきが大きく、256モードの方が基本的にはキレいに見えるのだ。
ただ、僕が仮に担当して、上の方針で移植をしたらとんでもない大改変なわけで、みんな心臓止まっちゃったと思うし、ヘタをしたら、通してもらえず降ろされていた可能性もあるぐらいだと思うので、常識的な判断としては「ソックリに見えるようにする」なのはよーくわかるが、やっぱり僕としては「わかってねえなあ」と思うのである。
と、それはさておき、多重スクロールを諦めるなり、PCエンジンに合った形に修正するならすりゃあいいものを、パソコンと同じに見えるようにするため、結果的にPCエンジン版は技術的にはかなりムリなことをしていたわけだ。
それでアルファに技術力があった+高速なPCエンジンで力任せに書き換えができるから処理自体は間に合ったわけだけど、結局上下は8ドット単位、左右も最小8ドット単位でしか動かない処理になってしまうわけで、コンソールマシンのメリットがほぼ失われてしまう残念なことになっている。
やはり僕は事前にハドソンは「こっちの方がいいゲームになりますから、任せてください」とファルコムを説得するべきだったろう…と思ってしまう。
と、それはさておき、こんな風に、90年のゴールデンウィーク前後に開発はスタートした。
続くのである。
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7件のコメント
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背景がコマ送りみたいになってたりする部分はPCエンジンの性能が主な原因だと、30年の間ずっと思ってました。
実際はパソコンを無理に再現しようとした設計に起因していたんですね…
そもそもPCがスムーズスクロールではないわけです。
で、PCエンジンはPC版の多重スクロールを同じように再現しようとしたためにPCと同じ仕様になってしまっている、が正しいですね。
イースIII、個人的に当時一番残念だったのは音声台詞シーンの顔グラフィック表示がなかった点ですね。
立ちキャラの演技との兼ね合いや、多重スクロールでスプライトを消費していた影響もあるのかもしれませんが、I・IIの特色のひとつだっただけにPCE版のウリとして実現して欲しかったです。
多重スクロールは、エルダーム山脈の第2ボス、ギルディアス戦の手前の洞窟内だけはスムーズに多重スクロールしていますが、あそこは処理負荷が軽かったとかなのでしょうか?
あーちと覚えてないのでプレイしてみますが、スムーズに出来ているところはたぶんかなりスペシャルな場所です。
横256ドットのX68000版ではなく、横640ドットのPC-8801mkIISR版が移植されたというのがポイントなんでしょうね。
発売が遅れた結果、X68000版を移植したスーパーファミコン版に発売日が近づいてしまったと。
オープニングの岡本敏郎さんですが、1990年の8月のお盆に実家へ帰省された時に「今イースIIIとポピュラスをやってんだ」と言っていたのを思い出しました。何かの参考になれば。当時は色々と平行して作業をやってたみたいですね。その時は注目のゲームはプリンスオブペルシャだとかも言ってたかなあ?
今、書いているところなのですが、まさにその時、オープニングを描いています!