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「どんな子供でも遊べなければいけない」
「どんな子供でも遊べなければいけない」
上のリンクは、『桃鉄(ファミコン版)』~『スーパー桃太郎電鉄(PCエンジン)』が作られていたとき、どんな風に桃鉄ができていったのか、何を考えていたのかについてのさくまあきら先生と桝田省治さんの対談だ。
自分がペーペーながらもゲームを作るプロの側に立った時の話で、 当時、ハドソンにリアルタイムでいて、飛田さんや和泉さんや中本さんや、ヘクターさんや、野沢さんや、いろいろな事を思い出してしまう話が満載で、本当に懐かしく読んだ。

で、桝田さんとさくま先生が対談の中でさらっと触れている、僕の目の前でどんちゃんが 『凄ノ王伝説』を プレイしたことは絶対に一生忘れない出来事で、以降のゲームの作り方に決定的な影響を及ぼしている。

街の人と話をしてもすぐに忘れる(本当にすぐに忘れるが、忘れさせないようにする技法やメモさせる技法もさくま先生から教えていただいた)、同じ間違いを平気で何度でもする(何度でも同じ死に方をする) 、計算能力が粗雑(そして死ぬ)、消費アイテムを使用するのを嫌う (そして死ぬ) 、MPをケチる(そして死ぬ)、数ターン後の想定が全く出来ない(そして死ぬ) といったプレイは、自分が思い描いた(『凄ノ王伝説』を楽しくプレイしてくれるはずの)プレイヤー像からはかけ離れていて、まさに「これが現実だ!」だった。

そして呆然としている僕に、さくま先生がおっしゃったと記憶している言葉「どんちゃんこそが普通で、一番たくさんいるお客さんだ。そういう人たちが褒められて嬉しくなれるのがゲームだし、遊べるように調整して、褒めてあげないと受けないよ」は、以降、ほぼ30年の間、座右の銘だ。

目の前でどんちゃんを見てからあとは、どんちゃんが平均だは自分にとってほぼ絶対的な基準になった。
だから「どうせ銀の装備なしには勝てんのだ」は、この謎はどんちゃんに解けないからヒントが必要だと判断したからだったし、ヨミを倒して地下から出てきてとき、誰一人いない血の海であるべきだと思っても「どんちゃんがそれはイヤダ」というなら、このエンディングは引っ込めるべきだ(いやまあ悲しかったが)、という考え方が出来るようになった。

この時の返しても返しきれない大恩があるから、僕にとって桝田さんは畏友であり、さくま先生は(僕の勝手で)師匠で、大恩人なのである。

|| 21:29 | comments (0) | trackback (0) | ||

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続・PCエンジンのCDROMのプロテクト
PCエンジンの著作権的プロテクトで書いたことで、勘違いされるかなあ…と思いながらも面倒くさいの説明しなかったことを勘違いしている人がいたり、あと質問が飛んできたり、他にわかったことがあるので続き。

■トラック2を再生するなというインフォメーションがトラック1に入っていたのは、なぜか?

PCエンジンCDROMの特徴としてよく言われるコレだが、当時はデータトラック…というかデータセクタをオーディオとして再生してしまうCDプレイヤーが普通にあったから。
そもそもCDROMは後付規格なので、規格制定より前に出来たCDプレイヤーは音楽CDしか想定していないので、全部CDオーディオだと信じて再生してしまう。だから間違ってCDROMを再生した人のために、本当に警告が必要だったのだ。なおデータセクタは原理的には再生機器が壊れる可能性があるシロモノで、実際に壊した人もいると聞いたが、残念ながらそれが本当かどうかはわからない。

余談を書くとCD-ROMやCD-Rが後付の規格だったことがCDという規格に様々な問題を引き起こしたので、DVDはかなり慎重に規格が策定されたが、書き換え可能メディアで問題が起こった。

■著作権的プロテクトがなぜ機能したか?

1988-89年当時はCDをカジュアルにコピーするなんてマネは不可能だったからだ。
PCエンジンCDROMの開発用のハードディスクが384メガバイト×2台で、ようやくCDROMの容量をフルに使えるようにするという仕様(そしてなんと768メガバイト版は1000万円)だ。
一般的なユーザーが使っていた普及帯のハードディスクの容量が20-40メガバイトの時代で、普通に買える限界のハードディスクが100メガバイト程度で約30万円とかなのだから、540メガバイトの容量を用意するだけで200メガバイト×3の構成とかになって100万円以上コースで、7つのSCSI IDのうち3つ消費する(ついでに書くと当時はまだビックリのお値段だったCDROMドライブも繋がなければならない) 。
もちろん、そんなバカでかいものを1ファイルとして扱うことも出来ないので、特殊なプログラムの自作が必要ってことになる。
おまけにCD-Rも登場しておらず、かつしばらくして登場したCD-Rも1枚数千円なんてメディアで、CD Writerも数十万円。これまたSCSIで接続して特殊なプログラムで書き込むなんて騒ぎになる。
540メガバイトのCDROMのコピーなんて普通の人がカジュアルに出来るわけもなく、容量そのものがプロテクトになった時代だったのだ。
だからCDROMがコピー出来ないように物理的なプロテクトしておこうなんて考える必要は一切なかった。
つまり、著作権的プロテクトは主にプロがNECやハドソンの許諾なくPCエンジンのゲームを製作するのを防ぐことを念頭に置いて作られているもので、今で言うディスクのコピーを防ぐためのものではないということだ。

そしてPS1では物理的なプロテクトが必要になっている。88年から94年の、たったの6年でそうなるんだからすさまじい。


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|| 13:58 | comments (0) | trackback (0) | ||

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PCエンジンの著作権的プロテクト
年明けにtwitterでこんな質問が飛んできた。


2X年ぶりに、あーそいや、こんなものもあったなあということを説明したわけだけど、もうちょっと詳しくここで説明しておきたい。
まず原理的な話から。
当たり前だけどCDROMは、例えばROMの形を変形させるようなことは通常しない。正方形のCDROMなら作ることは出来るかもしれないが、まあ普通は作らないだろう。
次にCDROMの規格はフィリップス=ソニー(当時)によって物理的なフォーマットが規定されており、それから外れることは基本的に出来ない。
また当然ながらCDROMのマスターは、どこで作っても同じだ。
つまりCDROMは汎用品でプロテクトなどかけられないので、PCエンジンのCDROM BIOSをリバースエンジニアリングすれば、ハドソンやNECの許可無くPCエンジンCDROMのゲームを作ることが出来てしまうのだ。
(これはもちろん1988年の話を書いている)

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|| 03:07 | comments (5) | trackback (0) | ||

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1978年の"gosub hudson"
最近、知り合いから古いチラシなどをまとめてスキャンしたものをもらい、非常に資料性が高い内容なので、時間を見て、いろいろ紹介していきたい。

まず今回は個人的に一番資料性が高かった"gosub hudson"について。
"gosub hudson"は、1978年の多分初春~夏前ぐらいに配布された冊子だと思われる。
手元には8ページあるのだけど、これで全部かはわからない(多分全部だけど)。
これはハドソンがCQハドソン、つまりアマチュア無線を中心としたショップだった時代にマイコンショップを本格的にオープンした時に作られた冊子だ。
このハドソンのマイコンショップCOSMOS SAPPOROは当時平岸にあったCQハドソンの2階にあり、PET-2001、APPLE II、TK-80BS、LKIT-16といった、当時のメジャーどころのコンピュータを取り扱っていた(と資料からは読み取れる)。
このあと数年もしないうちに、僕の知っているハドソン、つまり三慶ビルの斜め前にある本社ビルの下に少しだけ場所を移転することになる。
ところでこの"gosub"ってのは何なのかというと、BASICで使われるサブルーチンの呼び出し命令。どうしてこんな名前なのかというと"CQハドソン"のサブなので"gosub"なんて意味じゃなかろうかと思う。
もちろん数年ほどで"CQ"よりパソコンの方が遥かに大きな売上になるわけだけど、このときは、まだ売上はCQハドソンの方が大きかったのではなかろうか。


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|| 18:34 | comments (0) | trackback (x) | ||

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ハドソン東京支社の写真を見つけた
僕がハドソンと仕事をしていた時、市ヶ谷の掘端にハドソンの東京支社があった。
そのビルには札幌の時計台を模した時計台がついていた。

で、これを『さよならハドソン』を書いた時などまで含めて、ずっと載せたかったのだけど、いくら探してもみつからなかったのだけど、今日見つけたので、忘れないようにメモ書き的に掲載しておく。



こんな感じの時計塔で、正面から入ると受付があり、前には椅子があり、右側に外部の人とミーティングするちょっとしたスペースが2つあった。
そして、受付の奥の扉を開けると、そこはもうハドソン東京だった、と記憶している。

この時計台がいつなくなったのかは知らないのだけど、こういう建物があったのである。

|| 23:11 | comments (2) | trackback (0) | ||

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