実現しなかった『天外Ⅱ』のエンディング
せっかくPCエンジンminiが発売されたので、何か記念して記事を書いておこうと思ったので、continueでちょっとしゃべったけど、文章にしたことは一度もなかったような気がする『天外Ⅱ』の実現されなかったエンディングについて残しておこうと思った。
ツイッターの反応を見て気が付いたのだけど、これはエンディングについてのドネタバレを含んでいるので、知りたくない人は読まないほうがいいよ!
『天外Ⅱ』のエンディングは確か91年の6月ごろに決まったと記憶している。夏よりは前、春よりは後なのは間違いない。
どんちゃんの要望によって火の一族にも神様が出来て、それにマリという名前がついていたかどうかは怪しいぐらいのタイミングだったと覚えている。
当時、もちろんヨミがラスボスなのは決まっていて、こんな戦闘があってというあたりは決まっていたけれど、そのあとが決まっていなかった。
要はゲームをどのように閉じるのかが決まっていなかったのだ。
そして1991年の夏前にそろそろ辻野さんがそのコンテを書くという話になった。
僕自身は、このころは結構シナリオについて考えるようになっていた時期で、そして「どう書けばいいのかわからず悩んでいた時期」でもあるのだけど、まあある程度はシナリオのことを考えられるようにはなっていた。
このつっかえが取れるのは91年の末に『別冊宝島144 シナリオ入門』で、シド・フィールド先生に会ってからである。
そして僕は、桝田さんが作った『天外Ⅱ』のストーリーは構造的には、通過儀式(イニシエーション)ストーリー、具体的には子供から大人になる物語だと理解していた。
子供から大人になるということはどういうことか?
いろいろな説明はあるだろうけれど、僕はその時には「大人になると言う事は、世の中には取り返しがつかないことがあると理解してそれを受け止めて、前に進んで行く人間になる」という風に考えた。
もうちょっと具体的に書くと、人は成長するに従って、思った大学に入れないとか、思った通りに物事が出来ないとか、誰かと喧嘩して別れるとかいろんなこと…まあ一般には挫折と言われるものがあって、人生ってのはままならないってことを知っていく。
その時、あるがままを受け止めて、前に進んでいくことが大人になるということだ…と、まあ通過儀礼テーマを定義したわけだ。
んで、考えたエンディングは雑にはこういうものだった。
- ヨミを倒すと、ペアになるマリも消え、神なき世界になる。
- 4人が地上に出てくる。あたり一面、血の池が広がっている。
- 静かな世界。周りをしばらく4人は茫然と見まわす。
- 誰かがひどいことになったなとかいう。
- またしばらく静か。
- カブキがニヤっと笑って「でも、卍丸、俺たちはやったんだよ」
- 極楽が「前には戻れない。俺たちは生きている、これからやることは沢山あるぜ」
- こんなことを言って、カブキが「女たちが待ってるからな!」
- みんな分かれて去っていく。
- 全員がいなくなったところで、卍丸も歩き出す。
- THE END
若いなあと思うし、教条主義過ぎねえかとも思うけれど、今考えてもお話を着陸させるポイントとしては間違っていないと思う。
で、これを桝田さんに「こうしたい」としゃべったところ、桝田さんが言ったセリフは「かっこいいけどさあ、どんちゃんがいいって言ったらやろう」。
もちろん、どんちゃんは僕らにとって絶対のリトマス試験紙であり、彼が首をかしげるということ=ジャンプ600万の読者が首をかしげることであり、その案は自動破棄がルールだった。
そして僕は確信していた。
「こんな話、どんちゃんにわかるわけねえ」
数日経って、どんちゃんがやってきて、僕はバーッとエンディングを説明した。
「どうよ、どんちゃん」
「嫌ですねえ。みんなに褒めてもらいたいですね」
バッサリだった。
桝田さんが言った。
「だろ、岩崎」
「だよね」
と、僕。
そこで桝田さんが聞いた。
「ならさあ、神様が天に帰るとき、全員生き返らせてくれるってどう?」
「いいですね!」
どんちゃんは嬉しそうに返事した。
僕は言った。
「わかった、みんな生き返らせましょう、桝田さん!」
ジャンプ600万部は絶対だ。
こうして『天外Ⅱ』の現在のエンディングは出来た。
当時の僕は大いに『天外Ⅱ』のエンディングに不満があった。
卍丸はお父さんの遺志を継いで旅に出て、卍丸の活躍のおかげでお父さんは生き返りました。
「卍丸よくやった!」
…じゃねえだろう! これじゃ作品のテーマはメチャクチャだ…と思っていたわけだ。
でも、今は若かったなあと思っている。
どんだけデタラメなご都合主義だろうが、ハッピーエンドはみんな大好きなのだ。
天外Ⅱはさすがに少々露骨だと思うけれど、ご都合主義的なハッピーエンドは山のようにあるけれど、みんな大好きだ。
そして、プレイヤーは数十時間、卍丸としてゲームに付き合って、苦労してヨミを倒して、その見返りが「俺たちやったよな!」で、未来に向かって進んでいくぜ…というのは、あまりにプレイヤー体験としてはバランスが悪い。
これをOKだと思うのは、僕のようにある種、一歩引いてストーリーだと割り切れてしまう、良くも悪くもプロフェッショナルな人間だけであって、普通の人は「エーッ」となってしまうと思う。
だから、今では、どんちゃんが「いいですね!」と言った、今のエンディングの方が製品としては正しかったし、一般的なユーザーにとって幸せなものだったよなと思うのである。
と、まあこんなことも喋ったコンティニューがコレ。
そして、ここで書いた天外Ⅱをプレイできるのが、コレw
まあちょっと修正はあるけれど、ほぼオリジナルに近く出来てます。
ところでちょっと追記。
このブログを書いたら桝田さんから、実際のエンディングはちょっと違うよとコメントがあったので、ちょっと追記しておく。
少し違うよ。どんちゃんには全員生き返らせると言った。が、実際マリが約束している範囲は「根と火の戦争の犠牲者。かつあなたたちの記憶に残っている人」だ。だから「できるだけ思い出せ」と言い、千年前の勇者たちやはまぐり姫、メンバーの近親者が優先的に生き返っているんだよ。まあ僕はうそつきだ
どんちゃんには、全員生き返らせると言ったけれど、実際にやったことはちょっと変化球にしてるよという話だ。
しかしいずれにしても僕は生き返らせるという選択自体が好きではなかったので、話としては変わらないのであった。
7件のコメント
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私は逆に、死んだ者たちが生き返るあのエンディングが、「天外魔境II」唯一の不満点でした。
そりゃもう、『なんじゃこりゃあ?!』と、「太陽に吠えろ」ばりに絶叫してコントローラ投げ出すほど。
斜に構えたがる若造だった当時の自分であれば、没バージョンがエンディングだったとしても絶賛していたと思います。
でもいま動画サイトで実況動画を見ていると、本当に様々な世代・性別のプレイヤーがいて、ゲームが下手な子供や女性が苦労しながら長い時間をかけてようやく到達したエンディングに感動してるのを見たりして、作家性やテーマも大事だけどやはり最後は素直に達成感と喜びを感じられる大団円が最良なのかもと思ったりします。
特にゲームは、映画や小説などよりもユーザーに労力を求めるメディアですから、短めの作品や作風そのものが尖ってるものであればビターエンドやバッドエンドもいいとは思いますが、大作系は王道であって欲しいなぁと。
天外IIのエンディングと言えばひとつ、不満というか疑問だったのが、マリが最後に飛び立つシーンは台詞がCD-DAなのにBGMが内蔵音源だったことです。
普通に台詞と一緒にリッチな生音のBGMミキシングして流せばいいのになぁと思っていたのですが、あれはBGMを生音で発注していなかったから…とかだったりするんでしょうか?(^^;
あれはBGMが生音ではなかったからですw
あと、最後との繋ぎもあってああなりました。
天外IIのストーリーで不満だったことのひとつが、まるで打ち切りマンガのラストのような勢いで、終盤に百地三太夫が次々に死んでいくことでした。
あれは復活エンディングありきで後から追加されたものなんでしょうか?
どうせ生き返るんならここで全員殺しとけ、みたいな感じだったのかなぁと思ってしまいました。
それは桝田さんが反省してましたw
第四の黙示録のエンディングが
岩崎さんのエンディングぽかったような気がします。
第四の脚本は長山さんでしたっけ。