30年後より愛をこめて

先日、『イースⅠ・Ⅱ』が発売30年だって見て「あっ」と思ったので日記など。

ちょっとだけ言い訳すると、自分にとってはマスターアップの11月の方が思い出的には深くて、発売日はヨドバシにいって1枚買って「売ってるなあ」ってニヤニヤして帰ってきて起動して「動いてるなあ」ってニヤニヤしたことぐらいしか印象に残ってないのだ。
まあ作り手にとってはマスターとアンケートの方が発売日よりずっと大事なもの…だったんだよ。今は0デイパッチとかあるから、発売日までマスター提出みたいになってて、大事になっちゃってるけど。

ところで、この記事を書き出して、ハドソンに国内版がもらえなかったことを思い出すなどw
年明けに打ち合わせに行ったとき、誰もくれなかった!w
海外版はジョン・グリーナーからもらったのに、国内版は誰もくれなかった!w

と、下らない話はともかく。

『イースⅠ・Ⅱ』は自分にとって奇跡だった。
『天外Ⅱ』や『エメドラ』、それとも『リンダ』といったゲームは、こういうゲームをこういう着地にすると今でいう座組を組み、それに沿って走る、ほとんど自分にとっては出来は必然のゲームだった(もちろん最近作ってるゲームもそうだ)。
メンバーの力量も自分のできることも、ゴールも、ともかくいろんなものがはっきりと見えていて、それを作ることが使命だった。
これと比べたとき、『イースⅠ・Ⅱ』は行き当たりばったりの偶然だけで出来上がった奇跡の産物だ。

そもそもスタートから奇跡だった。

パソコン版の1をプレイしたときの僕の評価は音楽以外はあまり高くなかった。
ダームの塔はただのアクションになっちゃうし、最後は尻切れトンボだ(話は明らかに終わってない)。
これで高い評価をしろと言われても困ってしまう。周りでは絶賛している人が多かったが、自分的にはさっぱりピンとこない作品だった(芋吉こと鶴見六百に「つまんねえよ!」ってクダ巻いたのも懐かしい思い出だ)。
これの評価が激変したのがⅡだった。
オープニング・音楽・ストーリー展開・グラフィック(特にラスボス)、何から何まで素晴らしいゲームだった。ハドソンにいる間に、仕事ではなく3回ぐらいクリアして、毎日のようにオープニングデモを見てたと思う。これと同じぐらいクリアしたのはカプコンの『ヒットラーの復活』ぐらいのものだ。

僕が『ヒットラーの復活』をやってる後ろで、長谷川君が彼に言わせると「岩崎さん、これクソゲーなんだけど、ついなんかずっとやっちゃうんよ」という、彼が愛する『エグゼドエグゼス』を遊んでいたのを懐かしく思い出してしまう。
あと、個人的な意見として書かせてもらうと、あのヘッポコ移植の『バイオニックコマンド』には恨み以外なにもない。あの移植は『ヒットラーの復活』の何が面白いのかをわかってないヤツの移植だ。僕に移植やらせろと言いたくなる。

このハマりにハマってた僕に、中本さんが「移植しないか?」と聞いたのも奇跡だ。
全く信じられない。
『凄ノ王伝説』なんてヘッポコRPG1本作っただけのクソガキによくそんなムチャクチャを言ったものだと思うし、2本まとめてならやるって僕の逆提案を丸飲みしたのは商売まで考えればもっとメチャクチャだし、加藤社長が絶対に移植して欲しくないって顔をして、吹っ掛けたとしか思えない値段を言った時、営業”やらかし”Zの反対を押し切って、本当に1秒で払うって言った中本さんのムチャクチャは30年経った今でも忘れない。
だいたい『ファザナドゥ』でやらかしたあと、ガキ連れてファルコム行くかね。
僕なら無理だ。

技術を顧みても、ちょうど『コブラ』の直後でADPCMがメモリとして使えることがわかっていたこと、自分が偶然CDROMのシークが遅いことを知っていて、どうすりゃ速くできるかわかっていたこと、レッドブック・イエローブック・グリーンブックの中身を知悉していたこと(知悉していないと解決できない問題がいくつもあった)。
『コブラ』とivのおかげで使いだした、和泉さんが作っていた疑似マルチタスクが非常に合理的で使いやすかったこと。
たまたま386への移行期で、仮想86モードでEMSが使えるようになって、CDROMのような巨大なプログラムをビルド出来る環境をなんとか合理的に作れるようになったこと。
スタート・作る環境・自分の知識、なにをとっても奇跡のような偶然の上に成り立っているのがわかる。

スタッフに目を向けても、信じがたいほどの運だ。
そもそも山根と出会えたこと。
山根と出会ったのは、小峯君が山根と知り合いで、じゃあ小峯君とはどこで知り合ったのかといえば飲み屋だ。彼はBET系の麻雀ゲームを作っていたアーケードメーカーの企画で、飲み屋でたまたま知り合い、転職を考えていた小峯君に、当時ライター不足に悩んでいた角川メディアオフィスに紹介したのが縁で付き合いが続き、その彼が知り合いだった山根に僕が移植するって話を教えたんだから、奇跡以外のなにものでもない。

長谷川君(aka HaHi)が抜群に仕事が出来て、しかも長谷川君と組んでゲームをすでに1本作っていたこともスゴい。
あのとき、たまたまアルファシステムが創立されていて、たまたまPCエンジンの開発でハドソンに来ていて、そして僕が一人で、中本さんが僕とアルファを組ませなかったら、長谷川君とは仕事をしていないわけで、こんなのただの奇跡だ。
また『凄ノ王伝説』の反省で、プログラマが多くても僕が管理できないので、出来る少数のプログラマの方がいいと判断して、長谷川君だけにしてもらったらズバリ当たったことも運だし、仕事を長谷川君が受けてくれたことだって奇跡だろう。

イトマキがやたらキャラやドットのセンスが良くてしかも提案力があったこと(キャラ大きくするなんてムチャな提案普通はしない)や、進藤が山根に負けず劣らずマップの構成力があったこと、山口モトが妙にオタクくさい絵を描くのがうまかったこと、百田やウリ坊が使いやすかったこと、なにをとったって偶然だ。

ゲームデザインのことを考えても、PCエンジンの2本目で、メリットも弱点も知悉していたこと、桝田さんと会っていて、バランスの取り方がわかっていたことだって信じられない。
あんときにゲームに対して自分のした判断が、今見てもほぼ間違っていない事(間違いはいくつかあるけれど、どれも致命傷にならずに誤差の範囲に収まっている)。
海外版作ったとき、たまたま自分が英語喋れたこと、やたらカッコイイ英語が書けたジョン・グリーナーがいたこと。
なにもかも全く信じられないほど奇跡で出来上がっている。

そしてそれだけじゃなくて、困ったときに、なぜか回答が見つかったのもスゴい。
アレンジャーの米光さんが見つかったこと、ハドソンに入った新入社員がやたら優秀だったこと、シナリオの直しを手伝ってくれた長山君がたまたま入社していたこと。
こんなのただの奇跡で、自分の力だなんて言えるヤツがいたらウソつきだ。

しかもだ。
今では知っているが、元になったPC88の『イースⅠ』と『イースⅡ』も、やっぱり奇跡みたいな出来かたのゲームだ。
山根・橋本さん・宮崎さんがコンビを組んだことが奇跡的だし、もちろん古代さんがいたのも奇跡だし、桶谷さんと倉田さんって、明らかに当時としては卓越したレベルデザイナーがなぜか2人も揃っていたのとかどうかしてると思うし、なんでかやたらめったらアニメに強い都築さんがいたのもスゴい。

作ってたメンバーの気持ちはともかく、1がまとまらなくて、天空篇を諦めざるを得なくなったことも、無理やりダームの塔を大きくしたことも、なにもかも結果的にはプラスに働いたけど、どう考えたってただの偶然だ。

それに『Ⅱ』のとき、仮に山根がやってたら、ヤツの性格から考えてうまくまとまらなかったんじゃないかと思うけれど『ソーサリアン』に持っていかれて、職人肌の大浦さんが代わりに入ったのだって、もちろん『ソーサリアン』がスレスレ年末に間に合って、マスター寸前のあっぷあっぷの『イースⅡ』に山根と都築さんが戻ってきたのだって、そこで山根がリリアを描いてオープニングとエンディングを作ったのも、なにもかもとんでもない奇跡だ。

1987-88のあの瞬間、ただの一度しか起こらなかった奇跡で出来上がったのが、イースⅠとイースⅡなのは、間違いない。

加えて、PCエンジン版では市場や出会いにも奇跡はあった。
1989年のあのとき、あの瞬間、なぜかさくま先生が僕を面白がってくれて、どんちゃんや小野ちんといったお抱えのスタッフに『凄ノ王伝説』をプレイさせてその姿を見せてくれたのは、全く奇跡だ。
これで「プロはユーザーのプレイを意識して作らなければいけない」ことを理解し「ユーザー(もっと書くなら、どんちゃん・さくま先生・桝田さん)が喜ぶように作ろう、それがジャンプ600万の読者すなわち一般に受ける道だ」とは思ったけれど、商売のことなんかほとんど考えず(そもそもわかってない)に作った。

僕が考えていたことはCDROMのいいところを引き出し、悪いところを見せないようにすることと「こうすればユーザーは喜ぶだろう」「これでCDROM買ってよかった! スゲエと思うだろ」ばっかだったけれど、そうして出来たゲームが、ハドソンとNECが商売で必要としていた、そしてユーザーが欲しかったモノだった。

自分のこう作りたい、こんなゲームを作りたいとユーザーが欲しいゲームとメーカーが欲しいゲームの全てが一致するなんて、普通ない。

今まで書いてきたことの何が欠けても絶対に出来なかったと思うし、30年ゲーム作ってきたけど、あんな奇跡は一度しかなかった。
だから『イースⅠ・Ⅱ』は奇跡のゲームだ。

僕の代表作は『天外Ⅱ』という人が多いだろうし、一番ダウンロードされたゲームは『My Little Pony: Friendship is magic』(これの記録を破るのは少々難易度が高い)だろうけれど、作っていて一番何も考えず、一番幸せに作れたゲームは間違いなく『イースⅠ・Ⅱ』だった。

そして、なにより当時つきあってくれた全てのスタッフに感謝したい。
ありがとう。
30年経っても覚えてるぐらい、幸せに作れたよ。
30年後より、愛をこめて。

メリークリスマス.

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