イースⅠ・Ⅱ通史(5):PC88版イースの開発 (1)

このシリーズは様々な人から聞いて、どうやら(だいたい)はっきりしたパソコン版の『イース1』から、海外版PCエンジン版(TurboGrafx 16)の『イースⅠ・Ⅱ』までの通史として、出来るだけ当時の事情なども織り込みつつ、書いていこうというシリーズだ。だから85年あたりから話は始まり、90年5月で終わることになる。

あと『イースⅣ』をハドソンが作ったとき、実は何があったのかを様々な所から知れたので書きたいのだけど、これについては25年経っても書いていいか少々考えてしまう「エーッ!?」なところが多いので…まあオプションとしておきたい。

またそもそも30年も昔の話で、連絡が取れない人が多くて(鬼籍に入られた方もおられる)、ある意味、間接的な「様々な人から聞いて、どうやらこうらしい」という話の部分が多々あり、こうだろうと推測して埋めているところもあるので、知っておられる方は遠慮なく教えてくれるととても嬉しい。それからコメント欄は承認制なので「表にするな」と書いてくれれば、表にしません。

では本文。

●86/10~11

まず86/10前後に橋本さんが『ロマンシア』のソースと開発環境をもらい、開発環境を98に移す。

そして「俺なら全画面スクロールを作れる」と言い、実際にイースのもとになるスクロールが出来る。
これは今までの様々な証言やデータから、ほぼ間違いない。
これが完成したのは多分86年11月と思われる。

では、プロジェクトとして正式にイースの開発はいつがスタートだったのか?

それが今回、元ファルコムの方々の証言からはっきりしてきた。
まず、今まで何度か資料として書いてきたことなのだけど、山根(と倉田さん)の証言によると、このスクロールが出来たとき、最初のうちはイースではなくSFモノの企画で動いていた。
スクロールと言えばシューティングで宇宙だということらしい(のちにこれが『スタートレーダー』になる)。

ここでもう一つ説明しておくと、この当時は「ゲームの王様」と言えばアーケードで、アーケードでの王様は横/縦スクロールのシューティングの時代だ。そりゃあまあ、シューティングって話は出ると思う。

ところが、ここで問題が起こる。
どうにも橋本君と加藤社長との相性が悪く『アステカ3』でしか企画が通らなかったのだ。
だから、スクロールするアドベンチャゲームだといって『アステカ3』の形になった。
かくして世界観はファンタジー側になった。

では『アステカ3』はどんな企画だったのか?
名前はともかく、中身はどうやらイースの前身と言って間違いないものだったようだ。

■ファルコム関係者の証言
本を集めるっていう大筋を決定了承したのは加藤社長だったと思う。そこから正式に開発スタートだったはずです、確か。
ただ、本という原案を出したの誰だか覚えてない。宮崎さん?

そして、ここにもう一つ大事なコトがある。それは「イースの開発に半年と決められていた」ということだ。
これが結果的には、怪我の功名でイースをⅠとⅡに分けることになり、ボリュームが当初の想定から大幅に増して、オープニングアニメや様々な要素から不滅の傑作として昇華するのだけど、なぜこうなったのか?

■ファルコム関係者の証言
木屋さんが、開発半年、移植半年のペースで仕事されてたので、イース開発も当初は半年で考えられていたんです。開発期間半年とかそんな感じで加藤社長が期限切って「そんなん無理やん」ってなってとかそんな感じだったと思います。

と、こういうことだ。
ゲーム業界、必ずそうなのだけど、最初のうちは小さなプロダクトなので短い期間で作れるが、大きくなるに従って製作期間が延びていく。イースはPCでちょうどその境にある作品の一つと言えるだろう。

ここでスケジュールを逆算できる。

  • イースのPC88版は87年の6月発売。
  • ということは当時はフロッピーなので5月の真ん中あたりがマスターだ。
  • とすると、6か月引き算すると、86年12月。
  • つまりPC88イースが正式なプロジェクトとして稼働したのは86年12月あたりだったろうと想像できる。
  • またこれは『アステカⅡ』が終わった後、『ロマンシア』のソースと開発環境をもらったとすると10~11月に、橋本さんが98の開発環境に慣れ、さらに『ロマンシア』をベースに自分の新スクロールルーチンを作っていたと考えると、非常に妥当と思われる

●86/12~

さて、プロジェクトにゴーが出てすぐにプロトタイプを橋本さんが作り始める。このあたりで山根と宮崎さんがシナリオの基本形を組み立てていたと思われる。

まず最初に6体のボスと6人の神官という構成が決まる(進藤の話によると、山根が6体のボスを最初に決めた、という話なので、多分そこから6人の神官が決まったのだと思われる)。
そして神官の代わりとして6冊の本を設定する。
これまた多分だが本を集めるという企画まではOKだったが、何冊というのは決まっていなかったのだろう。
山根の話によると「木いるよね、針葉樹でいいよね」みたいな雑な設定で作っていったらしいので、そりゃあ冊数なんて最初は決まっていなかっただろうと思える。

そしてこのころ、同時に倉田さんと桶谷さんがマップエディタを作っていたのはほぼ確からしい。

■ファルコム関係者の証言
倉田さんが参加したのはほぼ最初からだったと思います。あと、最初に(88の)マップがスクロールしていたのを覚えています。それでマップエディターは倉田さんと桶谷さんがN88+アセンブラで98上で作っていました。

これについて補足すると、橋本さんがスクロールルーチンは完成させたが、マップ用のツールは作っておらず、本番用のエディタを作ったのが倉田さんと桶谷さんだったということだ。

そして、この証言で、やはり前回、推測混じりだが開発環境を98に移動させたのだろうという予測が当たっているらしいことがわかる。

これでわかるのだけど、橋本さんが山根たちとプロトタイプを作りながら、横で並行して本番用のマップエディタが作られていたわけだ。

このプロトタイプはニワトリを捕まえて売るなんてこともあるゲームだった(山下章さんのチャレアベに写真がある)のだけど、実はこれはテストルーチンの世界だったから。山根が当時アルバイトだった古代彩乃さんに「なんかファンタジーのモンスター描け」といったら、なぜかマルマルとしたニワトリを描いたもので、ニワトリを捕まえて、売るゲームになったなんて馬鹿らしい話だったりする。
山根曰く「ファンタジーで、ニワトリ描きますか? ありえないっしょ!」

ただ、このプロトは重要で、山根と宮崎さんがゲームデザインをするときの、様々なことを決定する理由になっている。
例えば、最初戦闘案は、ドルアーガの塔のように相対したら剣を抜き、左右にとすれ違う方式を山根は考えていたが、実際は、スクロールが速かったため、想定した戦闘イメージにならず、走って体当たりする形になった…なんて具合だ。

また、このプロトは最終的にはダームの塔のオリジナルまで入っていたらしいが、ダームの塔は製品版とは比較にならないぐらい小さかった…

というところで、長くなったので続きで。

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