FF10の話(12) – FFX・その4。主人公が消えるだって!?(終)

FF10の話を書くシリーズの第12回。これにて終了。多分、同人誌でいろいろ追加したいと思ってるんだけど、どんだけつけくわえたり、書きなおしたり出来るか…シリーズは以下。
いやー仕事の合間を縫って書くのは大変すぎる…
FF10の話(1) - それは1991年から始まった
FF10の話(2) - ヘラクレスの栄光Ⅲの衝撃
FF10の話(3) - ファイナルファンタジーⅦ・その1
FF10の話(4) - ファイナルファンタジーⅦ・その2
FF10の話(5) - ファイナルファンタジーⅦ・その3(終)
FF10の話(6) - ファイナルファンタジーⅧ・その1
FF10の話(7) - ファイナルファンタジーⅧ・その2
FF10の話(8) - ファイナルファンタジーⅧ・その3(終)
FF10の話(9) - FFX・その1
FF10の話(10) - FFX・その2
FF10の話(10) - FFX・その3
本編に入る前に簡単な注意。
このシリーズは『FFⅦ・Ⅷ・Ⅹ』について、もう超ネタバレのレベルで話が進んでいる。だからプレイしたことがなくて、そしてプレイする予定がある人は、ここから先はあまり読まないことをオススメしておきたい。
特に今回からあとはFF10のストーリーや世界について詳細にネタバレしていくことになるので、FF10をプレイしたことがない人はここで読むのを止めることを、強く推奨しておきたい。
前回、ついにオープニングのシーケンスに至ったわけだけど、ここでユーザーに提示されていることは

・1000年前にザナルカンドは戦争に破れ、全員を祈り子にして「夢のザナルカンド」を召喚した。以後、ザナルカンドは夢の中に生き続けている。
・ティーダもジェクトも祈り子の夢。だけど祈り子は夢を見ることにつかれていて、ティーダに夢を見るのを止めさせてくれという。
・究極召喚が生み出されたのは1000年前。シンが現れたのも1000年前。
・現在のシンはジェクト(ティーダの父)。
・シンを倒せるのは究極召喚のみだがシンを倒すと、使った召喚士は死ぬ。しかもシンは倒されても数年で蘇る。
・シーモアは「ユウナの手によって新しいシンになる」と言っている。

と、世界について、これぐらいのことがわかっている状態だ。
そして「最後かも知れないだろ、だから全部話しておきたいんだ」というオープニングのセリフは、もちろん究極召喚をしたらユウナが死ぬ(かもしれない)という意味だし、もしかするとティーダが消えるかも知れないというティーダの恐れとも取ることが出来る。
いずれにしても「旅の最後」だから、最後に至るのを引き延ばしたくて、思い出話を延々としていたのが、今までだった…という構成だ。
ここからは物語はティーダ(プレイヤー)の過去ではないので、モノローグがなくなるのだけど、これまた非常に見事と言わざるを得ない。


なぜなら、以降もティーダの思い出話でモノローグが挟まる構成にすると、エンディングをユーザーが容易に想像できることになる。これはストーリーとしては頂けないわけで、モノローグはなくしたほうがいい。
またザナルカンドに至るまでの旅は「世界のことを知る旅」だ。そして「登場人物が世界を知った結果、何をするのか?」がザナルカンドでの話なので、登場人物の運命が変わる寸前で、リアルタイムの物語にしているわけだ。
ザナルカンドこそ、ゲームのクライマックスだ。
ザナルカンドのドームに入った瞬間から、あらゆる今まで不思議だったり、説明されていなかったことが説明されていく(それもバトルまで含めて2時間ほどで全てが説明されていく。まさに怒涛の展開だ)。
まず最初に究極召喚はガードが祈り子になるらしいとわかる。そしてこれは驚くべき推測を示唆する。
「シンがジェクト。そしてジェクトはブラスカのガードだった。究極召喚のためにガードが祈り子になる必要があり、ガードがシンになっているということは、究極召喚で呼びだされた召喚獣(ガード)が次のシンになる(としか思えない)」
ドームの奥にたどり着くと、また驚くことが起こる。今まで召喚獣を手に入れるルールは祈り子に会うことだったけれど、なんと祈り子が祈り子ではなくただの石で、究極召喚の祈り子だったはずのゼイオンは消えている。
そして1000年前に最初の究極召喚を使って死んだユウナレスカが(思いを残す死人として残っていて)「心の絆がしっかり結びついているガードを祈り子にすることで、シンを倒せる究極召喚獣を作り出すことが出来る。だから祈り子にするガードを選べ」と、とんでもないことを言い出し、やはりガードが究極召喚獣になり、そのガードが新たなシンになっている推測が事実になる。
では、なぜ究極召喚獣がシンになってしまうのか?
ユウナが「なぜ究極召喚で倒してもシンは復活するのか?」とユウナレスカに聞くと、シンを倒した究極召喚獣がエボン=ジュによって新たなシンになる。だからシンは永遠に消滅することがないのでシンが世界に死を振りまくループから抜け出すことは出来ないが、究極召喚という偽りの希望があるからいいだろう…というとんでもない真実を説明する。
つまり召喚士が究極召喚を使ってシンを倒しても、その究極召喚獣がシンになってしまうので、死んだからといって世界が変わることは絶対にないという、召喚士の旅や自己犠牲を全て否定する事実が、ここに至って判明する。
しかもユウナレスカは「これは運命で永遠に変えられないのだから、(偽りの)希望、究極召喚でスピラを照らせ」と、とても認めがたいことをいう。
それにユウナは強烈に反発し「私はどれだけ辛くても、生きて新しい運命を切り開く」というのだけど、このユウナのセリフとアーロンが直後に叫ぶセリフが、まさにこのゲームのテーマで「諦めるのか、それとも自分で道を切り開くか?」なのだけど、もうこのシーンのあまりのかっこよさに、初めて見た時、僕は痺れまくって、直前のセーブファイルから3回ぐらい見ちゃった記憶がある。
ユウナレスカは「究極召喚やる気がないなら、慈悲じゃ、殺す」とか言ってくるのだけど、これを返り討ちにする。これで究極召喚はなくなり、召喚士の死への旅の循環はなくなるのだけど、だからといってシンを倒す方法は見つかっていない。なのでプレイヤー達はシンをどうすれば倒せるのか、そしてユウナレスカが言っていた「エボン=ジュ」とは何者なのかを知る探索を始める…といっても、この旅は寄り道をしなければ1時間もあれば十分だ。
というか、ここから先は話を着地させるためのパート(シド・フィールドの3幕理論によれば、葛藤パートの後の「解決」の部分に当たる)だ。なぜなら究極召喚ではシンを倒せないことはすでにわかり、スピラの基本的な世界の構造は全てはっきりしている。
そして重要なことは3つしか残っていない。

・エボン=ジュとは何者か?
・シンをどうすれば復活させずに倒せるのか?
・ティーダとザナルカンドはどうなるのか?

この3つは密接に関係していて、そしてザナルカンドでのとんでもないビッグイベントが終って、寄り道しなければ、あっというまにわかる。
エボン=ジュは1000年前のザナルカンドにいた大召喚士で、ザナルカンドが負けそうになったとき、ザナルカンドの住人全員を祈り子に変えることで夢のザナルカンドを作り出し、シンを作り出した張本人だ(正確にはシンは夢のザナルカンドを守るためのガードだったと思われるが、そこらへんの説明は曖昧)。
そしてシンはエボン=ジュの鎧で、エボン=ジュ自身は、シンの核として、永遠にシンを召喚し続けてきた。
だから鎧としてのシンを破って、内側に突入し、エボン=ジュを倒せば二度とシンは復活しないことになる。
ただエボンジュは次から次へと召喚獣に乗り移れるので、まずシン本体を倒し、次にエボン=ジュが乗り移る召喚獣がいなくなるまで、召喚獣を召喚しては倒していけば、ついにはエボンジュだけになり、その状態でエボンジュを倒せば、エボン=ジュは復活できないので、全てが解決することになる。
これは最終的には祈り子が教えてくれるのだけど、祈り子はそして言う。
「シン(エボン=ジュ)がいなくなったら、僕達も夢を見るのを止める」
これには本当に驚いた。
シンを倒し、エボン=ジュを倒したら、夢を見るのを止める…
つまりティーダはこのゲームの最後には消滅することになる
確かにストーリー構造はそれを示していた。
ティーダの親父ジェクトはシンなので倒せばもちろん消える。
そしてそれをなしとければ死人のアーロンも成仏して消えるだろう。
夢のザナルカンドを召喚している祈り子が夢を見るのを止めれば、夢のザナルカンドとそれにまつわるモロモロのものも、もちろん消えることになる。
しかも夢のザナルカンドを召喚し続けている祈り子達は、もう疲れたから夢を見るのを止めたいと言っている。
そしてティーダは夢のザナルカンドの住人だからティーダが消えるのも筋が通っている
でも、僕は信じられなかった。
大多数のユーザーはハッピーエンドを望む。前に書いたハッピーエンドの呪いだ。
ティーダが消えるなんて苦味のあるエンディングはストーリーとしてのバランスが取れていても、大多数のユーザーが望まないために出来ないってことを僕は知っていた。
天外Ⅱで起こったことを忘れられなかった。
天外Ⅱはイニシエーションストーリー(通過儀礼型のストーリー)で、卍丸が子供から大人になる物語だ。大人になるってことにはいろんな定義があるけれど、取り返しがつかないことを認められるってのもその一つだ。
失恋がそうだし、受験の失敗や、ともかくいろいろなことがそうだ。そういう成功も失敗も含め、やったことに取り返しがつかないことを認め、そのうえでどう生きていくのかを考えていくのが大人になるってことの一つだし、万能ではないこと、つまり自分の身の丈を知っていくのが、大人になるってことだ。
そう考えた時、天外Ⅱの最後、京の都が血の池に沈むクライマックスで、地下に潜ってヨミを倒して、また外に出てきた時、どうあるべきなのか?
そこは血の池で誰一人いなくて、でもなしとげた事があり、仲間が出来たことが素晴らしいのであり、そこでエンドにするべきだと僕は主張した。
全く青い主張だと思うのだけど、桝田さんはよく出来た人で「それがストーリーとしてのバランスがとれているのはわかるが、ユーザーがそれを求めるかは別だ」と言って「ドンちゃんがそのエンディングをカッコイイですね」と言ってくれたら、それにしようと言った。
もちろん、ドンちゃんはそんな苦いエンディングはカケラも認めず「褒める人がいないのはイヤだ。みんなが生き返るほうがいいですね」と言った。そして天外Ⅱは死んだ人が全て生き返るエンディングになった。
いろんな犠牲を乗り越えて大人になるはずの主人公の死んだ父親まで甦っては成長とはなんぞやって話で、通過儀礼のストーリーとしてはひどいことになってるが、ユーザーの大半は大喜びした。
結局、大多数のユーザーはどれだけご都合主義だろうと、ハッピーエンド、それもケチのつけようもない、両手に花のハッピーエンドが大好きなのだ。
そしてこれも仕方ないことだと思う。
世の中は辛くて厳しいことが多いのだ。どうしてゲームや映画やコミックの中でまで悲しい思いをしなければならない、この意見はとても良くわかる。
だからFF7ではストーリーが曲がった、と僕は確信していたけれど、反面、「クラウドは実在しました」の方が沢山のユーザーが求めるストーリーなのは間違いないと思ったので、僕には全く承服しかねるストーリーになっていたけど、仕方ないと思っていた。
またFF8は大好きだけど、あれは大ハッピーエンドもいいところで、誰も死なず主役は両手に花もいいところの完全無欠のハッピーエンドだ。
そして苦いストーリーの末のエンディングは、今までのFFシリーズでもちろんあったことがあるわけもなく(あえて言うなら1のエンドは苦い要素はあると思うが)、またもちろんドラゴンクエストでもあったこともなく、もちろん他のメジャーシリーズでも、まずなかった。
あえて書くなら、データイーストのヘラクレスの栄光Ⅲがそうだったり、それともやっぱりデータイーストのダークロードがそうだったりしたけれど、大メジャータイトルで本当に苦味のあるエンディングの作品はイース2のエンド(イースは女神とアドルの悲恋の話である)ぐらいしかなかったと思う。
だからストーリーとしてはティーダは消えるべきだけど、現実は絶対に無理だと思っていた。なんだかよくわからない仕掛けを使って「いやあ、消えませんでした、テヘッ」と言うに決まっている…そう思いながら、エンディングに向かった。

少しだけ書いておくと、ドラゴンクエストシリーズは習作といえる1・2を除く作品で、堀井さんがメインライターとしてしっかり入っていたⅦまでは微妙なほろ苦さが隠し味のように含まれる作品群で、エンディングもたいてい苦味が一味あるエンディングだったと思う。
またFF13-2は同人誌で書いたけれど、続編のことを最初から考えていたのだろうと思うが、いきなりバッドエンドをぶちかましてくれて、しかも一個もまともなエンディングがないひどいゲームだった。

あとはシン(ジェクト)を倒し、全ての召喚獣をなぎ倒して、エボン=ジュを倒し、エンディングの答え合わせをするだけだった。
ジェクトとの戦いに絡んでのジェクトとティーダの和解のシーン、さらに召喚獣を次々と倒していく演出、終幕に向けての畳み掛ける展開は、もう涙がでるほど素晴らしい。
そして、全てが終わり…アーロンが「もうお前たちの時代だ」という言葉を残し、消えた。
祈り子が夢を見るのを止め、次々とただの石になっていき、召喚獣が全て幻光虫となって消えていく。
夢のザナルカンドを召喚していた祈り子達が夢を見るのを止め、ティーダの腕が透明になり、本人は消えるところを見せるのがイヤで、その場から去ろうとする。それを嫌がるユウナが抱きつこうとするが、もはやティーダは実体を持っておらず、抱きあうことすら出来ない。
そして…ティーダが空中にダイブすると、次々と死者と夢の国の住人が現れ、ジェクトとティーダのタッチを残し、ティーダは消えた。
本当の最後、ユウナがスピラの人たちに話しかける。
そこにいるのは生者だけで、死者や夢の国に生きている人間は誰もいない。ユウナが「これからは私達(生者)の時代だよね」(これはアーロンの言葉に対する答えになっている)、「いなくなってしまった人たちのこと、ときどきでいいから思い出して下さい」といって、話は終わる。
本当に消えたよ! と思った。もう、呆然とするほどバランスのとれた素晴らしいエンディングで感動したわけだけど…最後の最後でとんでもないことが起こった。
どことも知れない場所で、ティーダが目覚めて泳ぎ始めるってシーンで、エンディングが終ったのだ。
僕は「うわー最後の最後でひよった!」と思って苦笑いをしたけれど、いいと思った。
何もなく終わった方が、絶対に美しいけれど、プロとして考えた時「ハッピーエンド」を求めるユーザーに対してのフォローがなさすぎた。そう考えれば、蛇足ではあっても、全くの蛇足であっても「ティーダはなにか理由はわからないけど消えていなくて、最後にユウナと会えたのではないか」と思わせるようなエンドをつけておくのは正解だと思った。

ついでに書くとメインストーリーだけをやるぶんにはわからないけれど、サイドストーリーまでやると、ティーダの行く末をわずかに曖昧にして「復活できるかもね」的なことは匂わせるセリフがある…のだけど、これも結局、最後のムービーと同じでストーリーをわずかに曖昧にする仕掛けでしかない。

結局、FF10というゲームは、1000年前の死人の夢に支配され、死の螺旋に囚われていたスピラを一人の希望を持った生者(召喚士)が変えようとした時、真実を知って世界を変えたいと望んでいた死人のガード、そして沢山の死人たちが見ていた夢から出来上がった幻の人間が助け、そして生者が世界を取り戻し主役になった物語、すなわちユウナの物語だ。
それをキレイに終わらせるために「ティーダが消えないようにしろ(絶対にあっただろう)」というような、様々なストーリーに対する意見を全部跳ね除け、ほぼパーフェクトな着地をした、このFF10というゲームを、僕は本当に好きだし、シナリオを書いた野島一成さんを尊敬しているわけなのだ。
ところで、マジで感動したエンディングだったのだけど、プレイを終った直後から一つ心配があった。
このエンドはいわゆるオープンエンド、つまり曖昧な部分を意図的に残して終っている。仮に最後のカットがなくても「ティーダは消えたのだろうけれど、本当にどうなったのかはわからない」エンドだ。
そしていうまでもなく「ユーザーはハッピーエンドを求める」
つまり…この素晴らしいストーリーを破壊するようなとんでもない続編、それもティーダが復活する話をやるゲームが出ることだけが心配だったけれど…まあこれが…その…いや…X-2ってゲームがあってね…うん。
いや…うん、バトルは面白いと思うんだよ…うん…

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5件のコメント

  • AGENT: Mozilla/5.0 (Windows NT 6.1; WOW64; Trident/7.0; rv:11.0) like Gecko
    ブログを読んで初めてFF10のストーリーを知ったのですが
    「ゼルダの伝説夢をみる島」に似ていると思うのですが勘違いでしょうか?

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    FF10の話、とても楽しく読ませて頂きました!
    プレイ当時からFF10はシリーズ最高傑作と考えて居たのですが、周りの評判はどうしてもFF7やFF5に向いており残念に思っていました。。
    現役ライターさんのすばらしい文章でFF10の魅力が細やかに再理解できとても感動しています、時間を見つけて久しぶりに再プレイしたいと思いますw

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    FF10は凄く面白かったですが、FF7あたりから?ストーリーが
    「実は○○だった!」的な話のオンパレードになりだして、少々ウンザリしてましたね。
    あ、ところで天外II製作記の続き…いえ、なんでもないです。

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    X-2は自分の中ではギリギリセーフな感じでした。
    ゲームとしてはアレな部分もありますがw
    本編が、生者が過去に振り回されてるだけで終わったり
    最後に異界を経由する事や、
    ティーダエンドを100%後のオマケにする事で
    ギリギリの着地点を狙ったのかなと、
    プレイ当時は邪推していました。
    あまりリアル過ぎると、
    過去全部ぶった斬って新たな人間関係構築するか、
    死人に引きずられてユウナ廃人ルートな展開しか
    思いつかないのでw

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    ティーダの名前を変えられるのは、過去作からの様式ということ以上に、やはり「プレイヤー≒ティーダ」という図を強調したかったからなのではないかな、と思うのです。
    夢(ストーリー)を終わらせスピラ(ゲーム)から去る運命を背負う者、という構図のために必要だったのでは…と。
    それに、すべてが消えしまっても、プレイヤーの得た思い出は消えはしないよ、という、FF1のエンディングへのリスペクトも込められているのかも…。

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