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PCエンジンの開発システム(補足2)
質問に答えをコメントしてたんだけど、それだと読みづらいし、書きたいことも書ききれないので、一つの記事になると思うものをまとめておくことにした。
20年も前のゲームマシンの開発環境のこと書いて、思い出すのに一生懸命になるとは想像もしてなかったw
なお、コメントされた方の名前は今回は省略させていただくことにした(見られるのでw)。

まず、なにより一番大きな補足がTwitterで教えてもらったこと。
この『ハドソン全科』は小学館の月刊PCエンジン、90年5月号の付録だそうだ。
飛田さんが作ってくださったPDFには奥付らしきものが全くなかったために、推測でしかなかったのだけど、一応裏づけが取れた格好だ。


当時は専門誌の中で月刊PCエンジンを愛読していました。
イースの付録は当時からずっとすぐに読める場所に置いていたので、こちらのブログでイースのことを読んだときに引っ張り出して読んだわけですが、改めて発行日の記載などで20年以上経過したんだと思い知らされて感慨深いです。
イースの付録内で「若い力の会」と呼ばれていた方々は現在もハドソンに在籍されているのでしょうか?
ご存じでしたらお答えください。

若い力の会ってのは、当時の1989年、イースを作っていたときちょうど新入社員だった技術の5人。
メンバーは芳賀、蝦名、佐橋、沢口、杉本で、イース1・2では散々アシスタントをやってもらったので、スタッフロールにアシスタントとして載っている。この中のメンバーの何人かはイースIVを作り、そののちもハドソンで中核的な仕事をしている。また何人か残っているのは知っている。

ちなみにアホっぽいエピソードを書くと、1989-90年に僕は中本さんに「ハドソン入らない?」ってやたら誘われていた。
そんときの僕と中本さんの会話
「新入社員やらせてくれるならいいかも」
「なんでだべさ!?」
「僕は一度も普通の就職活動をしたこともないし、新入社員をやったこともないんですよ。だから一度経験してみたいんですよねー」
「掃除とかお前がやんのか?」
「当たり前じゃないですか、中本さん、新人研修受けたいし、サブプログラマもやってみたいですよ!」
言ったとたんに、たまたま横にいた蛯名が
「げぇえええええっ 岩崎さんが新入社員で俺教えるとかイヤですよ!」
当時のハドソンでは次の年の新入社員の研修は前の年の新入社員が先生としてやることになっていたので、もし僕がハドソンに「新人」として入っていたら、蛯名が教えてくれることになったはずなのだw
そういう意味では惜しかったと思う。いやー蛯名先生の授業を受けてみたかったw

毎回楽しみに読んでます。
当時少年だった私には開発事情など知る由もなく
この年になって当時のワクワクが蘇るとは思いませんでしたw

>本当に当時ハードの頭目だった野沢さんには「なんで4ビットにしなかったんだ」とずっと文句を言っていたw
とありますが何故3ビットになったのでしょうか?
もしご存知でしたら教えてください。

理由は知ってます。分かっていて野沢さんいじめてましたからw
当時のビデオチップは「ラインバッファ」と呼ばれる非常に高速なRAMから出来ている「水平1ライン分だけのフレームバッファ」のようなものを持っていました。そして水平帰線期間(Hsync)の間にこのラインバッファを生成し、表示していたわけです。だから水平に並ぶスプライトの数に制限があったりしたわけですが、その代わり遅延のないゲームでもあったわけですね。
そしてパレットバッファは当然、このHSyncの間HSync+1ラインを描画する間に大量にアクセスされるメモリで、非常に高速でなけれなならない。そして高速なメモリは高い。なので1ビットでも削った方がコストが下がる。だから9ビット512色で十分だ…と判断したのです。

2011/06/25 修正+書き忘れを追記。
そして、このPCエンジンのパレットはいつでも書き換えることが出来たが、書き換えると画面にノイズが走る(そりゃラインバッファ描画してるときに書き換えたらノイズも出るよね)問題があったので、ラスター処理でパレットを書き換えるとき、パレットを書き換えるタイミングにとてもシビアな制約があった。
だが、これで0番パレットを書き換えると、背景に色がついて簡単に多重スクロールするように見せかけることが出来るので、一度使いたいと思っていたが、このテクニックで超多重スクロールしているように見せた感動的な傑作ゲームが『マジカルチェイス』。PALSOFTで有名だが、中身を作っているのはQuest。そう、あの『伝説のオウガバトル』を作った会社である。
僕は感動すると同時に、このテクニックをおおいにパクって、エメラルドドラゴンで散々使い倒したw

で、どうして1ビット増やさなかった…といじめていたのかというと、僕に言わせるとRGB333はなにをどうやっても段数が足りないのです。
わかりやすく例えばフェードアウト、画面がすうっと消える効果を考えます。
RGB333だと、真っ白からですら8段階で10段階ありません。これを1秒でフェードアウトしようとすると、大雑把に7V、つまり0.1秒ちょっとに1段階ずつ落ちていくことになります。ぶっちゃけるならはっきりガタツキが見えてしまうのです。
ましてや、ゆっくりフェードアウトしようとすると、もう段階が全然足りなくて、ガクッ…ガク…になってしまいます。
だから、天外でもイースでも「長い時間をかけてフェードイン/アウトする」という処理は意図的に逃げています。
これがあと1ビットあれば2倍の16段階。結構ごまかしが効く範囲に入るので、すごく欲しかったのです。
…まあ、RGBα8888が当たり前の今の時代では笑い話でしかないですがw
|| 11:23 | comments (4) | trackback (0) | ||

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コメント
SFCはRGB555ですが、SFCの発売は1990年末。
PCエンジンの発売は1987年。
この3年ちょっとの差がそれを可能にしたのです。
ムーアの法則がその問題をクリア可能にしたのですね。
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/06/25 12:39 | Eeem.i3Y |
わざわざ記事で詳しく解説していただいてありがとうございます。そんな仕組みで描画してたのですね。
以前の記事でPCエンジンのRAMは高速と言う話を聞いていたので、更に早いRAMとなると当時の私には買えなかったかもしれませんw
色数の多いスーパーファミコンはとんでもないRAMを積んでいたんですね
| さ | EMAIL | URL | 11/06/25 01:28 | yXpuJXcA |
遙か古の時代、あっしはCG屋やってましてw
そのころはαは超高級品でしてw
RGBαって表記だったんですwww

それが出てしまいましたw
| 岩崎 | EMAIL | URL | 11/06/24 23:29 | 0GxDfQ/U |
ARGB じゃなく RGBα という表現になるんだ(そこだけ?)
| 近藤@古代図書館 | EMAIL | URL | 11/06/24 22:30 | FBPQlkC. |
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